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本章
Episode20/自覚
しおりを挟むその翌日のことだ、新藤がやらかした。
取引先に誤送信してしまったメールでオフィスが荒れたのは夕方になろうとしていた頃だ。
「なんで今言う!気づいたときに報告しろ!」
不破の厳しい声を聞いたのは新藤は初めてか。怒られるのも初めてであろう新藤は涙目になって頭を下げていた。
メールは午後一に送られてしまっていて先方からクレームの電話が止まらなかった。
新藤自身がメールのミスに気づいたときにはもう電話が鳴りだしていたからどちらにせよ遅かった。
「井原!先方にアポ取って。新藤も来い」
ジャケットを羽織って不破がオフィスを出ようとするのを新藤も追いかけた。その行く姿を見送りながらあかりも鳴り響く電話の対応に追われていた。
そんなトラブルのせいで午後からの自分の業務が全く進んでおらずあかりだけがまだオフィスに残ったままだ。しかも昨日倒れてやるべき仕事も溜まっていた。黙々とその仕事をさばき気づくと夜が更けていた。
不破はもう直帰するだろうか、もうこの時間からオフィスに戻ってくることはないか……そんなことを思いながら時計を見る。時刻はもう20時半を回っていた。
帰ろうかな、あかりがそう思った時だ。オフィスの扉が開いて疲れた顔の不破が戻ってきたのは。
「あ、お疲れ様です」
声をかけてはじめて不破があかりの存在に気づいた。
「あれ……まだ残ってたの?」
「はい、修正案まだ仕上がってなくて……ちょうど今できたのでもう帰ろうかなって思ってたところです」
「そう――お疲れ様」
そう言う不破の方がよっほど疲れていそうだ。あかりは不破の疲れた顔を見つめながらそう感じていたら不破が問うてきた。
「体調は?」
聞かれた内容にドキリとした。まだ妊娠検査薬で調べられていない。
「え……っと」
「昨日倒れただろ?……バタバタしててあかりの様子全然気にかけてやれなかった。もう大丈夫?眩暈だったって聞いたけど」
そっちか、とあかりは胸を撫でおろした。
「ちょっと寝不足でした、全然たいしたことありません、ご心配おかけしました。もうすっかり元気です」
笑顔を見せて返事をしたら「そう」と、微笑む不破の表情は優しい。その笑顔にあかりの胸はまたきゅっと締まる。
「不破さんこそ疲れてそう……大丈夫ですか?コーヒーでもいれましょうか?」
「んー、じゃあ頼んでいい?」
「ちょっとだけ甘くしておきますね」
あかりの声かけに不破がフッと笑ってくれたからそれだけで胸がじんわりとした。誰かの役に立てるのは嬉しい、それが好意を持つ相手に響くならもっと嬉しい。
そんな風に誰かに思うことはあかり自身久しぶりのことだった。
いや……初めてかもしれない。不破に対しては初めて感じる気持ちが多い。今自分は初めて人に対して誠実に向き合っているのかもしれない、そう思う。
カチャカチャとキーボードが叩かれる音を聞きながらコーヒーを入れていると、傍に不破がいるのだと実感する。直帰して今日はもう会えないかもしれないな、そう思っていたから余計存在を感じるのが嬉しい。
ポタ……と、コーヒーの雫が最後に落ちたときハッとする。
さっきから不破のことばかり考えて胸を弾ませて嬉しいと言う感情を巡らせている。その気持ちを取っ払うように頭を振った。
(やめて、もう自分がおかしい、余計な感情を抱え込みすぎてる……)
砂糖を取ろうと手を伸ばしたら背後からその手を掴まれて思わず後ろを振り向いた。不破がいつのまにか自分の傍にいてあかりを見つめている。
「あ、砂糖……いらなかったです?」
「いや、糖分は欲しいかな」
「じゃあ……」
「砂糖じゃなくて、もっと甘いモノ――」
ギュッと背後から抱きしめられた。不破のくちびるがこめかみから耳にかけてキスを落としてくる。そのまま耳をペロリと舐められて優しく喰まれる。その流れる仕草に身体は素直に震えてしまった。
「あかりが欲しい……疲れたわー、癒してよ」
不破の甘えたような声。抱きついて戯れるように擦り寄ってそんな言葉を放たれると可愛いとまで思う。いい大人の普段弱みなど到底見せようとしない男が体を預けて縋るように甘えてくる。その高揚感は何に例えればいいか。
抱きしめられる腕の中で瞳を閉じてされるがまま受け入れる。受け止めたい、そう思った。不破が望む時、不破が求めるなら応えたい。欲しいと思われるならどんなものでも差し出したい。
そう思う気持ちはもうーー。
不破の抱き締めている手があかりの脇腹を抱えて包み込む。その抱きしめる腕に力がこもった。
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