君の攻略法

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第9話

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「最悪だ……」
 ハサミを片手に鏡の前で呆然と立ち尽くす。
 前髪を切りすぎてしまった。それも盛大に。
 先日のコスプレ参加を経て、目元を晒すことへの抵抗感がいくらか軽減したので、自分なりに変わろうとしてみたのだが。あえなく失敗に終わってしまった。
 やはり慣れないことをするものじゃない。自分には陰気な長い前髪がお似合いだったのだ。
「どうしよう……」
 ぽそりと呟いた声が情けなくて泣きそうだ。
 初めは少しずつ切っていたはずが、微調整を繰り返すうちに気付けば取り返しのつかない事態になっていた。
 実際のところこうなってしまった以上はもうどうしようもないというのが答えなのだが、なんとか誤魔化さなければ拓也と顔を合わせることができない。
「アトラくーん? どこにいる?」
 今一番会いたくない人の声にびくりと体が跳ねる。
「あ、洗面所か。って、どうしたの? まさか怪我……!?」
 咄嗟に俯き両手で前髪を隠すアトラの顔を、拓也が狼狽えた様子で覗き込む。
「ちっ、違います。大丈夫です」
「ほんと? よく見せて」
 訝しんだ拓也がさらに顔を寄せる。その分だけアトラは後ずさった。
「本当に、なんともないですから」
「じゃあ見せてよ」
 アトラは一度無理をして倒れてしまったことがあるから、拓也はきっとそれを案じてくれているのだろう。
「うう……」
 アトラが渋々手を外すと、拓也は数回まばたきをしたあと、弾けたように笑いだした。
「あっはっは! なあに、アトラくん前髪切りすぎちゃったの?」
 あまりの羞恥に声も出ず、涙目でただ頷く。
「ふふ、なるほどね。んふふ……」
「っ、笑いすぎですよ!」
「ごめんって。可愛くてつい」
 拓也が指で涙を拭う。泣くほど笑うなんてひどい。
「でも大丈夫だよ。お兄さんに貸してごらん」
 得意気に言いながら拓也がハサミを手に取る。どうやら前髪を整えてくれるつもりらしい。
 拓也の散髪の腕がどうであれ、どちらにせよこれ以上は悪くなりようがないだろう。
 アトラは半ばやけくそになり、好きにしてくださいと拓也に頭を差し出した。
「お客さん、今日はどうしますか?」
 拓也が芝居がかった口調で尋ねる。
「ええと、拓也さんにお任せします」
「ОK。長さはこれ以上切らないから、安心して」
 しゃきん、しゃきんとハサミが髪を滑る。
 拓也の優しい手つきは眠気を誘い、次第に瞼が重くなっていった。
 アトラがうとうとしていると、リップ音とともに額に柔らかいものが触れる。
「わっ……」
「よし。できあがり」
 ぱちくりと目を瞬かせるアトラに、拓也が「うん。男前になった」と笑いかける。
 鏡を見ると、前髪は先ほどの悲惨な状態からは想像できないほど綺麗に切り揃えられていた。
 短いのはやはり少し気になるが、それはアトラ自身が見慣れていないだけで、髪型としての違和感は微塵もない。
「すごい……! ありがとうございます」
「どういたしまして。気に入った?」
「はい! とっても」
「ふふ、よかった」
 そこまで言って、拓也が何やら深刻そうな表情を浮かべる。
「そこでなんだけどさ……」
「なんでしょう?」
「散髪代ってことで、一個お願い聞いてくれない?」
 お願いと聞いて、アトラはほとんど反射的に頷いていた。日頃の恩に報いる絶好のチャンスである。
「もちろん! 僕にできることならなんでも言ってください」
 拓也のほうからアトラに何かを頼んでくるなんて滅多にないことだ。
 自分で力になれるならとアトラが前のめりに引き受けると、拓也はアトラをリビングのソファまで連れてきて、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「ここ座って」
「えっ」
 予想外のリクエストに思わず固まる。
「拓也さんの膝に……?」
「そう。俺の膝に」
「おっ、重いですよ」
「こんな小さい子乗せて重いわけないでしょ」
 ちょっとした雑用を想像していたアトラが困惑していると、拓也が「ほら、早く」と催促する。
 なんでもと言ったのはアトラのほうなので、今更断るわけにもいかない。
 それに今日の拓也はなんだか元気がないように見えたから、こんなことで役に立てるのならやってみようと思った。
「ええと、失礼します……」
 おそるおそる拓也の膝に腰をおろす。
 すると拓也は後ろからアトラのことを抱きすくめ、後頭部に顔を埋めながら、あろうことか大きく息を吸い始めた。
「なっ、なな……っ! 何してるんですか!?」
「あー、落ち着く……」
 すうはあと息をしながら拓也がしみじみと呟く。こちらは大パニックなのだが。
「やめてください! 汚いですよ……!」
 逃げ出そうとじたばた暴れてみるものの、体格差がありすぎて簡単に押さえ込まれてしまう。
 自分の身に何が起こっているのか分からず混乱していると、ようやく顔を上げた拓也が先ほどよりいくらか明るい声で話し始めた。
「俺さあ、実は今禁煙中なのよ」
「は、はあ……」
 想定外のことばかり立て続けに起こったせいで、気の抜けた返事しかできない。
 しかしよく考えてみると、アトラは拓也が禁煙していることはおろか、たばこを吸っていたことすら知らなかった。
「アトラくんがうちに来てくれてからは頑張って禁煙してたんだけど、たまにめっちゃ吸いたくなる時があってさ」
 拓也が「まあ今日がそれだったんだけど」と苦笑する。
 きっとアトラに煙を吸わせまいと気遣ってくれたのだろう。
「すみません、僕のせいで……」
「違う違う! 俺がやりたくてやってるだけだよ。そもそも禁煙なんか自業自得だし」
 ニコチンの離脱症状はかなりつらいものだとネットで見たことがある。それなのに、拓也がそんな素振りを見せたことは一度もなかった。
「僕、たばこ大丈夫ですよ。煙も気にならないですし」
「いや、絶対無理! アトラくんとキスする時に『拓也さんたばこくさい……』なんて思われたら俺、生きていけないから」
「そんなこと思いませんよ!」
 むしろアトラは拓也がたばこを吸っている姿はかっこいいだろうな、なんてのぼせたことを考えていた。拓也になら顔に煙を吹きかけられたって構わない。
「まあつまり、たばこの代わりにアトラくんを吸って正気を保ったってわけ。ナイスアイデアだと思わない?」
「な、なるほど……」
 なるほどでもないが、とりあえず拓也の奇行の動機が分かっただけでもよかった。
「これからも時々吸わせてもらうかもしれないから、そのつもりでよろしく」
「ええっ、それはちょっと……困ります」
「そこをなんとか! 俺の健康のためにも、ね?」
 拓也はたまにずるいことを言う。
 アトラが拒否できない頼み方を知っているのだ。
 拓也の健康を人質にとられたアトラは結局、「分かりました」と渋々降参するのだった。


  アトラと拓也は家事と炊事を分担して暮らしている。
 元々はどちらも拓也が一人で行っていたのだが、ただでさえお世話になっているのに家事まで任せるわけにはいかないというアトラの意向により、半ば押し切る形で分担制を採用することになったのだ。
 現在はアトラが家事を、拓也が炊事を担当しているのだが、拓也はあまり納得がいっていないようで。
 アトラは可愛いのが仕事だと言って、隙あらば本来アトラがやるはずの家事にまで手を出して片付けてしまうのだ。
 今朝も起きたら洗濯物が干し終わっていて、どうしたものかとアトラは頭を抱えていた。
「拓也さん!」
「なあに?」
「勝手に家事しないでくださいって、僕言いましたよね?」
「バレたか~」
「当たり前です」
 一仕事終えてブラックコーヒーを啜っていた拓也を問い詰める。このやりとりもかれこれ三回目だ。
「僕の仕事とらないでください」
「ええ~。俺、アトラくんにはなんでもしてあげたいんだけどなあ」
「もう充分すぎるくらいしてもらってます。とにかく、拓也さんは家事禁止ですからね!」
「うーん」
 アトラが念を押すと、拓也が浮かない表情で口を開いた。
「やっぱアトラくんも重いと思う?」
 持って回った問いかけに首をかしげる。
「どういうことですか?」
「あー、いや……」
 拓也はわずかに言い淀んでから、観念したように話し始めた。
「俺さ、付き合った人に重いってよく言われちゃうんだよね」
 はは、と自嘲しながら拓也が頭の後ろを掻く。
「自分で言うのもあれなんだけど、俺こう見えて好きな人に対してはけっこう尽くしたがりっていうか。見た目から期待する性格と違うみたいでさ」
 何か相槌を打たなくちゃと思うのに、こういう時どう返せばいいのかが分からない。
 黙り込んでしまったアトラを見て、拓也が焦ったように口を開いた。
「ごめん! 俺何話してんだろ。聞きたくないよね、こんな話。今のは忘れて……」
「いえっ、そんなことないです!」
 とにかく自分は気にしていないと伝えなければ。そう考えていたら、思っていたより大きな声が出てしまった。顔にかあっと熱が集まる。
「拓也さんのことで知りたくないことなんて、一つもありません。むしろその、僕が知らないことがあるほうが嫌っていうか……」
 自分が何を口走っているのか分からなくなって口を噤むと、呆気にとられていた拓也が小さく吹き出す。
「アトラくんって、意外と独占欲強いタイプ?」
「ごっ、ごめんなさい! 僕、すごく生意気なことを……!」
 まだ出会って半年やそこらのアトラが全てを知りたいなんて、おこがましいにもほどがある。自分は卑屈なようでいてすぐに調子に乗るからいけないのだ。
 アトラが己の発言を恥じていると、拓也はそれをそっと否定するように微笑んでくれた。
「ううん、ありがとね。アトラくんが俺のこと知りたいと思ってくれてるの、すごく嬉しい」
 出会ったばかりの頃は拓也があまりにも優しいものだから、見るからに内気で孤立していそうなアトラを哀れんでくれているのだとばかり思っていた。
 けれど決してそうではなく、全て本心からの言葉なのだと、拓也とたくさん言葉を交わした今なら信じられる。
「もちろん今すぐに全部ってわけにはいかないけど、俺もアトラくんのこともっと知りたいと思ってるよ」
「僕のこと……」
 考えれば考えるほど何も浮かばない。空っぽだ。
 アトラは拓也ほど人生経験豊富じゃないし、そもそもアトラの人生は拓也に出会ってから始まったようなものだから、改めて言わなければいけないようなことなんて本当に一つもないのだ。
「あはは、いきなり言われてもそりゃあ分かんないよね」
「ご、ごめんなさい」
「もう。悪くない時に謝らないで」
「すみま……あっ」
「まあ、今のはセーフかな。これだいぶ甘めの判定よ?」
 からかうように言われて、アトラも思わず笑う。
「アトラくんのことはさ、これから一緒に見つけていこうよ」
「はい! ありがとうございます」
 自分のことは、拓也と見つけていけばいい。
 その言葉は、アトラにとってお守りのように心強いものだった。
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