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第2話
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アトラが黒木商店でアルバイトを始めて一週間。
繁忙という繁忙はなく、なぜアルバイトを募集していたのかは謎のままだったが、自分を必要としてくれた拓也の期待に応えるため、アトラは一生懸命仕事を覚えていた。
「アトラくん、これの在庫後ろにあるか見てきてくれない?」
「はいっ、分かりました」
名前で呼ばれる感覚にはまだ慣れない。
どこかくすぐったい気持ちのままアトラはバックヤードに向かい、商品の在庫を探した。
「ありました。これ、もう店頭に出しておいていいですか?」
「ありがと。じゃあお願いしようかな」
拓也が振り向くと、スパイシーなフレグランスがふわりと漂う。
初めて会った時にも思ったが、拓也はいつもいい匂いがする。何の匂いかはよく分からないけれど、刺激的でほのかに甘い香りだ。
アトラが無意識にすん、と鼻を鳴らすと、拓也が「あ、香水苦手?」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「今日ちょっと付けすぎたかも」
「いっ、いえ! その、いい匂いです。とても」
アトラは慌ててかぶりを振ったが、正直なところ拓也のこの香りは心臓に悪い。
淫魔は人間の匂いにとても敏感な種族だ。本人が持つ体臭と混ざり合った香水の匂いなど、アトラにとっては上質なステーキ肉の焼ける匂いと同じようなものだった。
「ならよかった。いつも胸につけてるから、このへんはもっと香ると思うよ」
拓也がTシャツの首元をめくると、鎖骨に入った蛇のタトゥーが露出する。
本人の言うとおり拓也の胸元からは濃いフェロモンが漂っていて、アトラは自分の心拍数が急激に高まるのを感じた。
「ほ、本当ですね! すごく美味しそ……じゃなくて、大人っぽい匂いがします」
「気に入ったならちょっと分けてあげよっか。今度アトマイザーに入れて持ってくるよ」
どこまでも親切な拓也に対し、あわや欲情してしまいそうになっている自分に辟易する。
行くあてのないアトラを雇ってくれた恩人にいかがわしい感情を抱くなんて、自分はなんと浅ましいのだろうか。
アトラは心の中に湧き上がる嫌な衝動を抑え込み、邪な気持ちから意識を逸らすように仕事へ集中した。
アトラがアルバイトを始めて一ヶ月が経過した頃。
店の締め作業を行う途中、不意に拓也が尋ねてきた。
「アトラくん、今日帰り時間ある?」
「はい。大丈夫です」
「よかったらご飯行かない? 歓迎会しようよ」
「歓迎会、ですか?」
予想外の言葉に首をかしげる。
いったい誰の歓迎会だろうか。まさか自分の?
そんな厚かましい考えが頭を過り、アトラは自分自身に呆れた。
「うん。そういえばやってないな~と思って」
「その、歓迎会って誰の……」
アトラが尋ねると、拓也は呆気にとられたように瞠目してからけらけらと笑いだした。
「アトラくんに決まってんじゃん! ほかの誰を歓迎するのよ」
「だって僕、まだ歓迎されるほど仕事できてません」
「そんなことないって。アトラくん覚えもいいし、すごく頼りにしてるよ」
困ったように微笑みながらフォローした拓也がそれに、と言葉を続ける。
「うちに来てくれてありがとうっていう意味の歓迎会なんだから、仕事ができるかどうかは関係ないの。OK?」
「う……。分かりました」
穏やかな口調で諭すように言われて、アトラは押し黙るしかなかった。
「てことで、今日はどっかご飯食べに行こう! アトラくんは焼き鳥好き?」
「はい、好きです」
淫魔といえど、人間と同じような食事をとることも少なくない。
超自然的な存在への信仰が希薄になった現代では、搾精も昔ほど上手くいかなくなっている。そのため、食物エネルギーを魔力に変換できるよう時代に合わせて進化したのだ。
おかげでアトラのように搾精に消極的な淫魔でもなんとか命を繋ぐことができていた。
「よかった。俺このへんで美味しい店知ってるんだけど、そこでいい?」
「もちろん。楽しみです……!」
そうして連れて来られたのは、同じ商店街に入っている居酒屋だった。
派手さはなく、席数も少ないこぢんまりとした店だが、常連と思しき客たちで店内は賑わっている。
拓也もそのうちの一人なようで、テーブル席に着席すると店主が親しげに声をかけてきた。
「いらっしゃい! ドリンクどうする?」
「俺はビールで。アトラくんは何飲む?」
「じゃあ、ピーチサワーでお願いします」
普段はジュースばかりだが、こういう席では飲んだほうがいいとどこかで見たような気がして、自分でも飲めそうな酒を注文してみる。
「お、アトラくんけっこういける口?」
「ええと、少しだけなら……」
童顔で小柄なため、ひょっとすると中学生くらいに見えるかもしれないアトラだが、悪魔学校を卒業した時点で人間で言うところの成人年齢を超えている。これでもれっきとした大人なのだ。
間もなくして運ばれてきた飲み物で乾杯すると、拓也がアトラの希望を聞きながら、勝手知ったるという感じでよどみなく注文していく。
「ここのももが美味いんだよねえ。しかも超でっかいの!」
「わあっ、それ食べたいです」
拓也とアトラが話していると、一人の男がカウンター席から立ち上がり、拓也の名前を呼びながらこちらへ近付いてきた。
「拓也くん、久しぶりだね」
「ああ、中村さん。ご無沙汰してます」
「最近店に行ってもいない日が多くて寂しかったよ」
年齢は四十代くらいだろうか。中村と呼ばれた男は馴れ馴れしい口調で喋りながら、拓也の肩にぽんと手を置く。
そこまではよかったのだが、問題はそのあとである。拓也の肩に触れる中村の手つきが妙にいやらしいのだ。
え、と思い拓也のほうを見ると、拓也は形の良い唇を引きつらせ、白々しい笑顔を浮かべていた。
「拓也くんは今来たとこでしょ? 奢るから一緒に飲もうよ」
「いやあ、今日は連れがいるんで……。遠慮しときます」
拓也は相変わらず愛想笑いをはりつけたまま、ちらちらと肩のほうを気にしている。
まだそうだと言い切ることはできないけれど、拓也はたぶん中村のことが苦手だ。中村が執拗に身体へ触れているのも、親密さゆえのものとは違うように見えた。
何か助け舟を出さなければと言葉を探すが、気の利いた言い回しが思いつかず、アトラが焦っているうちに中村の手つきがどんどん過激になっていく。
「あのっ、拓也さん。ここの席、空調の風が当たって寒いので、代わってほしいです」
実際はまったく寒くなどないのだが、それくらいしか拓也から中村を遠ざける口実が思い浮かばなかった。
声もひっくり返ってしまったし、ちっともスマートにフォローできない自分が恥ずかしくなる。
しかしアトラが割って入ったことで調子が狂ったのか、中村は「またお店に差し入れ持って行くからね」と言い残し、自分の席へと帰っていった。
「ふう、やっと行った……。ありがとね、アトラくん」
小声でぼやきながら、拓也が触られたところを不愉快そうに手ではらう。
「すみません。出すぎた真似を……」
「ううん、助かったよ。あのオッサン、一応うちのお客さんなんだけどね。きもいから店に来た時は居留守使ってんの」
普段は柔和な拓也がここまでけちょんけちょんに言うあたり、相当迷惑しているのだろう。
中村は客というだけでなく家も近所だそうで、なまじ邪険に扱うことができず困っていたらしい。
「そうだったんですか」
「ほんと、こんなでかくて厳つい男の何がいいんだろうね」
拓也はそう言うが、アトラには中村の気持ちが少しだけ理解できた。
「拓也さんはすごく親切だから。だからといって、迷惑をかけるのはいけないことですけど……」
「はは、アトラくんに言われると嬉しいな」
拓也が真っ直ぐに並んだ歯を見せてはにかむ。
こんなふうに拓也が誰にでも優しいから、きっと中村のように勘違いしてしまう人が出てくるのだろう。
アトラがそんなことを考えていると、出来上がった料理たちが続々とテーブルに届き始めた。
「ほら、食べて食べて」
「は、はい。いただきます」
勧められるがまま、拓也一押しのもも串を口へ運ぶ。
「どう?」
塩でシンプルに味付けされたもも肉を咀嚼しながら、アトラはこくこくと頷いた。
「すっごく美味しいです……!」
「でしょ」
アトラが感想を口にすると、拓也が嬉しそうに笑う。
拓也の言うとおり、大ぶりなもも肉は今までに食べたことがないほど絶品で、思わず顔が綻んだ。
楽しい会話に、美味しい食事。幸せな空間に気分が良くなったせいか、つい酒が進みすぎてしまった。
「えへへ。楽しいですね、拓也さん」
身体がじんわりと温かくなり、頭と呂律はふわふわして上手く回らない。
「アトラくんは可愛いね」
「へ?」
唐突なセリフに思わず間の抜けた声が出る。
「ピュアだし、いじらしいくらい一生懸命だし」
言いながら、正面に座る拓也が頬杖をついてじっとこちらを見つめる。
その視線にどきりとして目を逸らすと小さく笑われてしまい、なんだか悔しい気持ちになった。
「そんなことないですよぉ。僕なんてどんくさいし、落ちこぼれだし、何の取り柄も……」
「こらこら、ネガティブ禁止。さてはちょっと酔ってるな?」
「酔ってないれす」
「酔っ払いはみんなそう言うんだよ」
拓也が「これ飲みな」と水の入ったグラスを差し出す。
両手でそれを受け取ったアトラがグラスに口をつけるのを見届けると、拓也はゆっくりと話し始めた。
「俺はさ、うちに来てくれたのがアトラくんでよかったと思ってるよ」
生まれて初めての言葉になんと返せばいいのか分からなくて、アトラはグラスを持ったままぱちくりと目を瞬かせる。
「あはは、何その顔」
「だって、そんなふうに言ってもらえたの初めてだから……」
アトラの返事に、拓也はわずかに眉根を寄せて痛ましげな表情を浮かべた。
魔界ではどこへ行っても変人扱いで、歓迎されたことなんてただの一度もない。ひそひそと陰口を叩かれなければ良いほうだった。
「こんなに素直で可愛い子を放っておくとか、今までアトラくんが会ってきた人たち見る目なさすぎでしょ」
重苦しくなりかけた空気を晴らすように、拓也がおどけた口調で言う。
拓也の気遣いがじんわりと胸に沁み込んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
自分も、あの日声をかけてくれたのが拓也でよかった。
そう言いたいのに、今喋ると涙が溢れてしまいそうで、沈黙を誤魔化すように水を飲む。
「ああでも、アトラくんがほかの人にとられなくてラッキーだったな」
「も、もう勘弁してください」
先ほどから惜しみなく注がれる称賛の言葉にキャパオーバーしてしまい、アトラは目を回しそうになりながらついに降参した。
「本当に送らなくて大丈夫?」
「はい。平気です」
「そっか。それじゃあ気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます」
歓迎会と称した拓也によるアトラ褒め殺しの会はお開きとなり、手を振る拓也に会釈をして別れる。
間違っても魔界へ帰るところを見られてはいけない。
アトラは少し歩いてから路地裏へ入り、周囲に誰もいないことを確認して魔界へのゲートを開いた。
「楽しかったなあ」
美味しい食事だけでなく、身に余るほど温かい言葉をもらった。
人間界での生活が充実すればするほど、拓也に隠し事をしていることが後ろめたくなる。
自分が人間ではないことを黙ったままでいるのは、優しい拓也のことを騙しているようで心苦しい。
最初からアトラが淫魔であることを知っていても、拓也は今と同じように接してくれただろうか?
きっとそうはいかないだろう。淫魔と人間はいわゆる捕食と被食の関係だ。
怯えて逃げ出していたかもしれないし、下劣な種族だと軽蔑されていたかもしれない。
そう考えると恐ろしくなって、アトラはぎゅっと拳を握り込んだ。
繁忙という繁忙はなく、なぜアルバイトを募集していたのかは謎のままだったが、自分を必要としてくれた拓也の期待に応えるため、アトラは一生懸命仕事を覚えていた。
「アトラくん、これの在庫後ろにあるか見てきてくれない?」
「はいっ、分かりました」
名前で呼ばれる感覚にはまだ慣れない。
どこかくすぐったい気持ちのままアトラはバックヤードに向かい、商品の在庫を探した。
「ありました。これ、もう店頭に出しておいていいですか?」
「ありがと。じゃあお願いしようかな」
拓也が振り向くと、スパイシーなフレグランスがふわりと漂う。
初めて会った時にも思ったが、拓也はいつもいい匂いがする。何の匂いかはよく分からないけれど、刺激的でほのかに甘い香りだ。
アトラが無意識にすん、と鼻を鳴らすと、拓也が「あ、香水苦手?」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「今日ちょっと付けすぎたかも」
「いっ、いえ! その、いい匂いです。とても」
アトラは慌ててかぶりを振ったが、正直なところ拓也のこの香りは心臓に悪い。
淫魔は人間の匂いにとても敏感な種族だ。本人が持つ体臭と混ざり合った香水の匂いなど、アトラにとっては上質なステーキ肉の焼ける匂いと同じようなものだった。
「ならよかった。いつも胸につけてるから、このへんはもっと香ると思うよ」
拓也がTシャツの首元をめくると、鎖骨に入った蛇のタトゥーが露出する。
本人の言うとおり拓也の胸元からは濃いフェロモンが漂っていて、アトラは自分の心拍数が急激に高まるのを感じた。
「ほ、本当ですね! すごく美味しそ……じゃなくて、大人っぽい匂いがします」
「気に入ったならちょっと分けてあげよっか。今度アトマイザーに入れて持ってくるよ」
どこまでも親切な拓也に対し、あわや欲情してしまいそうになっている自分に辟易する。
行くあてのないアトラを雇ってくれた恩人にいかがわしい感情を抱くなんて、自分はなんと浅ましいのだろうか。
アトラは心の中に湧き上がる嫌な衝動を抑え込み、邪な気持ちから意識を逸らすように仕事へ集中した。
アトラがアルバイトを始めて一ヶ月が経過した頃。
店の締め作業を行う途中、不意に拓也が尋ねてきた。
「アトラくん、今日帰り時間ある?」
「はい。大丈夫です」
「よかったらご飯行かない? 歓迎会しようよ」
「歓迎会、ですか?」
予想外の言葉に首をかしげる。
いったい誰の歓迎会だろうか。まさか自分の?
そんな厚かましい考えが頭を過り、アトラは自分自身に呆れた。
「うん。そういえばやってないな~と思って」
「その、歓迎会って誰の……」
アトラが尋ねると、拓也は呆気にとられたように瞠目してからけらけらと笑いだした。
「アトラくんに決まってんじゃん! ほかの誰を歓迎するのよ」
「だって僕、まだ歓迎されるほど仕事できてません」
「そんなことないって。アトラくん覚えもいいし、すごく頼りにしてるよ」
困ったように微笑みながらフォローした拓也がそれに、と言葉を続ける。
「うちに来てくれてありがとうっていう意味の歓迎会なんだから、仕事ができるかどうかは関係ないの。OK?」
「う……。分かりました」
穏やかな口調で諭すように言われて、アトラは押し黙るしかなかった。
「てことで、今日はどっかご飯食べに行こう! アトラくんは焼き鳥好き?」
「はい、好きです」
淫魔といえど、人間と同じような食事をとることも少なくない。
超自然的な存在への信仰が希薄になった現代では、搾精も昔ほど上手くいかなくなっている。そのため、食物エネルギーを魔力に変換できるよう時代に合わせて進化したのだ。
おかげでアトラのように搾精に消極的な淫魔でもなんとか命を繋ぐことができていた。
「よかった。俺このへんで美味しい店知ってるんだけど、そこでいい?」
「もちろん。楽しみです……!」
そうして連れて来られたのは、同じ商店街に入っている居酒屋だった。
派手さはなく、席数も少ないこぢんまりとした店だが、常連と思しき客たちで店内は賑わっている。
拓也もそのうちの一人なようで、テーブル席に着席すると店主が親しげに声をかけてきた。
「いらっしゃい! ドリンクどうする?」
「俺はビールで。アトラくんは何飲む?」
「じゃあ、ピーチサワーでお願いします」
普段はジュースばかりだが、こういう席では飲んだほうがいいとどこかで見たような気がして、自分でも飲めそうな酒を注文してみる。
「お、アトラくんけっこういける口?」
「ええと、少しだけなら……」
童顔で小柄なため、ひょっとすると中学生くらいに見えるかもしれないアトラだが、悪魔学校を卒業した時点で人間で言うところの成人年齢を超えている。これでもれっきとした大人なのだ。
間もなくして運ばれてきた飲み物で乾杯すると、拓也がアトラの希望を聞きながら、勝手知ったるという感じでよどみなく注文していく。
「ここのももが美味いんだよねえ。しかも超でっかいの!」
「わあっ、それ食べたいです」
拓也とアトラが話していると、一人の男がカウンター席から立ち上がり、拓也の名前を呼びながらこちらへ近付いてきた。
「拓也くん、久しぶりだね」
「ああ、中村さん。ご無沙汰してます」
「最近店に行ってもいない日が多くて寂しかったよ」
年齢は四十代くらいだろうか。中村と呼ばれた男は馴れ馴れしい口調で喋りながら、拓也の肩にぽんと手を置く。
そこまではよかったのだが、問題はそのあとである。拓也の肩に触れる中村の手つきが妙にいやらしいのだ。
え、と思い拓也のほうを見ると、拓也は形の良い唇を引きつらせ、白々しい笑顔を浮かべていた。
「拓也くんは今来たとこでしょ? 奢るから一緒に飲もうよ」
「いやあ、今日は連れがいるんで……。遠慮しときます」
拓也は相変わらず愛想笑いをはりつけたまま、ちらちらと肩のほうを気にしている。
まだそうだと言い切ることはできないけれど、拓也はたぶん中村のことが苦手だ。中村が執拗に身体へ触れているのも、親密さゆえのものとは違うように見えた。
何か助け舟を出さなければと言葉を探すが、気の利いた言い回しが思いつかず、アトラが焦っているうちに中村の手つきがどんどん過激になっていく。
「あのっ、拓也さん。ここの席、空調の風が当たって寒いので、代わってほしいです」
実際はまったく寒くなどないのだが、それくらいしか拓也から中村を遠ざける口実が思い浮かばなかった。
声もひっくり返ってしまったし、ちっともスマートにフォローできない自分が恥ずかしくなる。
しかしアトラが割って入ったことで調子が狂ったのか、中村は「またお店に差し入れ持って行くからね」と言い残し、自分の席へと帰っていった。
「ふう、やっと行った……。ありがとね、アトラくん」
小声でぼやきながら、拓也が触られたところを不愉快そうに手ではらう。
「すみません。出すぎた真似を……」
「ううん、助かったよ。あのオッサン、一応うちのお客さんなんだけどね。きもいから店に来た時は居留守使ってんの」
普段は柔和な拓也がここまでけちょんけちょんに言うあたり、相当迷惑しているのだろう。
中村は客というだけでなく家も近所だそうで、なまじ邪険に扱うことができず困っていたらしい。
「そうだったんですか」
「ほんと、こんなでかくて厳つい男の何がいいんだろうね」
拓也はそう言うが、アトラには中村の気持ちが少しだけ理解できた。
「拓也さんはすごく親切だから。だからといって、迷惑をかけるのはいけないことですけど……」
「はは、アトラくんに言われると嬉しいな」
拓也が真っ直ぐに並んだ歯を見せてはにかむ。
こんなふうに拓也が誰にでも優しいから、きっと中村のように勘違いしてしまう人が出てくるのだろう。
アトラがそんなことを考えていると、出来上がった料理たちが続々とテーブルに届き始めた。
「ほら、食べて食べて」
「は、はい。いただきます」
勧められるがまま、拓也一押しのもも串を口へ運ぶ。
「どう?」
塩でシンプルに味付けされたもも肉を咀嚼しながら、アトラはこくこくと頷いた。
「すっごく美味しいです……!」
「でしょ」
アトラが感想を口にすると、拓也が嬉しそうに笑う。
拓也の言うとおり、大ぶりなもも肉は今までに食べたことがないほど絶品で、思わず顔が綻んだ。
楽しい会話に、美味しい食事。幸せな空間に気分が良くなったせいか、つい酒が進みすぎてしまった。
「えへへ。楽しいですね、拓也さん」
身体がじんわりと温かくなり、頭と呂律はふわふわして上手く回らない。
「アトラくんは可愛いね」
「へ?」
唐突なセリフに思わず間の抜けた声が出る。
「ピュアだし、いじらしいくらい一生懸命だし」
言いながら、正面に座る拓也が頬杖をついてじっとこちらを見つめる。
その視線にどきりとして目を逸らすと小さく笑われてしまい、なんだか悔しい気持ちになった。
「そんなことないですよぉ。僕なんてどんくさいし、落ちこぼれだし、何の取り柄も……」
「こらこら、ネガティブ禁止。さてはちょっと酔ってるな?」
「酔ってないれす」
「酔っ払いはみんなそう言うんだよ」
拓也が「これ飲みな」と水の入ったグラスを差し出す。
両手でそれを受け取ったアトラがグラスに口をつけるのを見届けると、拓也はゆっくりと話し始めた。
「俺はさ、うちに来てくれたのがアトラくんでよかったと思ってるよ」
生まれて初めての言葉になんと返せばいいのか分からなくて、アトラはグラスを持ったままぱちくりと目を瞬かせる。
「あはは、何その顔」
「だって、そんなふうに言ってもらえたの初めてだから……」
アトラの返事に、拓也はわずかに眉根を寄せて痛ましげな表情を浮かべた。
魔界ではどこへ行っても変人扱いで、歓迎されたことなんてただの一度もない。ひそひそと陰口を叩かれなければ良いほうだった。
「こんなに素直で可愛い子を放っておくとか、今までアトラくんが会ってきた人たち見る目なさすぎでしょ」
重苦しくなりかけた空気を晴らすように、拓也がおどけた口調で言う。
拓也の気遣いがじんわりと胸に沁み込んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
自分も、あの日声をかけてくれたのが拓也でよかった。
そう言いたいのに、今喋ると涙が溢れてしまいそうで、沈黙を誤魔化すように水を飲む。
「ああでも、アトラくんがほかの人にとられなくてラッキーだったな」
「も、もう勘弁してください」
先ほどから惜しみなく注がれる称賛の言葉にキャパオーバーしてしまい、アトラは目を回しそうになりながらついに降参した。
「本当に送らなくて大丈夫?」
「はい。平気です」
「そっか。それじゃあ気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます」
歓迎会と称した拓也によるアトラ褒め殺しの会はお開きとなり、手を振る拓也に会釈をして別れる。
間違っても魔界へ帰るところを見られてはいけない。
アトラは少し歩いてから路地裏へ入り、周囲に誰もいないことを確認して魔界へのゲートを開いた。
「楽しかったなあ」
美味しい食事だけでなく、身に余るほど温かい言葉をもらった。
人間界での生活が充実すればするほど、拓也に隠し事をしていることが後ろめたくなる。
自分が人間ではないことを黙ったままでいるのは、優しい拓也のことを騙しているようで心苦しい。
最初からアトラが淫魔であることを知っていても、拓也は今と同じように接してくれただろうか?
きっとそうはいかないだろう。淫魔と人間はいわゆる捕食と被食の関係だ。
怯えて逃げ出していたかもしれないし、下劣な種族だと軽蔑されていたかもしれない。
そう考えると恐ろしくなって、アトラはぎゅっと拳を握り込んだ。
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