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第1話
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魔界某所。
オレンジ色の瞳がテレビモニターの光をきらきらと反射する。
新しく始まったアニメの第一話を視聴し終えたアトラは、ぐいと伸びをして使い込んだノートを取り出した。
「この作品は原作の評判もよかったし、これからどんどん面白くなりそうだなあ」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、ノートに情報を書き留めていく。
アトラは人間界──特に日本のオタク文化が大好きだった。
その理由は、今から何年も前に遡る。
昔むかし、アトラがまだ小さかった頃。遊びに夢中で、誰かが開いてそのままにしていたゲートからうっかり人間界に迷い込んでしまったことがあった。
もう二度と帰れなかったらどうしよう。そんな不安と心細さで泣きじゃくりながら見知らぬ異世界の田舎道を歩いていると、学生服らしき制服を身につけた若い人間が現れた。
明らかに人間とは異なる容姿のアトラに男は驚いたような仕草を見せたが、アトラが迷子であることを察すると、笑顔で手を差し伸べてくれたのだ。
どこから来たのか、誰と来たのか。男が穏やかに尋ねてくれたおかげで、パニックだったアトラは少しずつ落ち着きを取り戻すことができた。
『ほら、ゲームは知っちょる?』
『げーむ……?』
アトラを元気付けようとしてか、男は人間界の玩具を見せてくれた。
当時は遊び方もよく分からなかったけれど、魔界にはないポップな音楽に手の込んだ映像、そのすべてが驚きの連続で、幼いアトラの心を鷲掴んだ。
それからほどなくして魔界へ戻ることができたのだが、以降すっかり人間界に夢中になったアトラは立派なオタクへと成長。ゲームだけでなくフィギュアや漫画まで、少しでも多く人間界のものを入手しようと魔界中を駆けずり回るようになったのだった。
人間界で放送されている番組が映るこのテレビモニターも、魔界ではほとんど流通していないレアものだ。
しかし周りの大人たちは、こうして人間界に傾倒するアトラをよしとしなかった。なぜなら、淫魔にとって人間はただの食糧だからである。
欲に抗えず、自分たち淫魔になすすべなく精力を搾取される人間は愚かな生き物なのだと大人たちは言う。けれど、アトラはそうは思わなかった。
人間界へ迷い込んだ幼いアトラを助けてくれたのは、ほかでもない人間だ。それに人間がいなくては精気にありつくこともできないくせして、人間を蔑んでいる淫魔のほうがよっぽど嫌な生き物だと思う。
そう言ってアトラは何度も怒鳴られたし、「こんなもので遊んでいるから」と一生懸命集めたコレクションを取り上げられたりもした。そしてそのたびに、人間界の娯楽がアトラのささくれた心を癒したのだった。
人間になりたい。
いつしか芽生えた想いは日増しに大きくなる。
この夢に溢れたアニメやゲームの世界を作り出す人間に憧れて、少しでも人間に近付きたくて、アトラは自分の角を削った。痛くて半端なところまでしかできなかったけれど。
人間に翼はないから、自分も翼を使わずになるべく歩いて移動した。そのせいで翼は育たなかったけれど。
そうして暮らしているうちにやがて奇人扱いを受けるようになり、気付けばアトラはひとりぼっちになっていた。けれど、好きなものを偽って生きるよりはうんとよかった。
そんなアトラが心待ちにしている日がようやくやってきた。悪魔学校の卒業式だ。
魔界の悪魔たちはここで様々な知識やスキルを学び、卒業してようやく一人前と認められる。そして一人前になった悪魔には、魔界の外へ出る権利が与えられるのだ。
一部の問題児は大人の目を盗み、在学中から人間界へ出かけたりもしていたが、アトラは落ちこぼれながら規則を破るような真似はしなかった。
そしてようやく卒業式を終え、待ちに待った日がやってきた。淫魔ならばここで初めての搾精に赴くのが一般的だが、アトラにそんな気はさらさらない。ならば何のために人間界へ行くのか。
観光である。そのために孤独で憂鬱な学校生活を耐え忍んだと言っても過言ではなかった。
幸いなことに、人間に擬態するための変身魔法はアトラの得意分野だった。
人間に憧れたあの日からアトラは練習に練習を重ね、本物の人間と見分けがつかないまでに上達したのだ。
いざ変身と気合を入れて鏡の前に立ったのもつかの間、自分の陰気臭いルックスに思わずため息が出る。
歪な形の黒い角と、ろくに飛ぶことのできない小さな翼。尻尾もやる気なさげに垂れ下がっているし、尖った耳や薄赤い肌は人間とは程遠くてうんざりする。
くすんだ緑色のくせ毛はほかの魔族と目が合わないように、わざと目にかかるくらいのうざったい長さまで伸ばしていて、それがいっそうアトラの暗そうな雰囲気を強調していた。
パンと両頬を叩いて自分のネガティブな思考を追い払い、気を取り直して変身魔法に集中する。魔法を発動すると、アトラのコンプレックスだった角や翼はたちまち消え去り、代わりに人間らしい肌や丸みのある耳があらわれた。
「よし、完璧……!」
魔法の効果とはいえ、人間そっくりの姿は気分が上がる。
先ほどまでの物憂げな気持ちはどこかへ飛んでいき、アトラの頭の中は人間界のことでいっぱいになっていた。
「はあ、楽しみだなあ。『競泳日本代表の俺が紅鮭に転生!? ~遡上で無双したらハーレムできました~』の聖地巡礼もしたいし、アキハバラにも行ってみたいし」
夢にまで見た人間界である。行きたい場所や見たい景色がたくさんあって、一日ではとても足りない。
それに、初めて人間の温かさに触れた場所。あれが人間界のどこだったのかは分からないが、いつかもう一度訪れてみたかった。
溢れんばかりの期待を胸に、アトラは魔界と人間界を繋ぐゲートを開き、憧れの地へと降り立つ。
「わあ……っ!」
背の高い建造物がずらりと並び、道路を行き交うのはたくさんの車。どこを向いてもアニメや漫画で見た光景ばかりで、アトラは思わず歓声を上げた。
季節は春真っ盛りで、ぽかぽかと穏やかな気温が心地よい。
柔らかい風が魔界では見たことのない桜の木を揺らし、その花弁をひらりと舞わせた。
「これが人間界……!」
その事実だけで胸がいっぱいすぎて、しばらくのあいだその場に立ったまま動けなかった。
しかしいつまでもこうしてはいられない。行きたいところは山ほどあるのだ。
今までたくさん我慢した分、思う存分楽しみたい。
そう意気込んで、アトラは人間界で最初の一歩を踏み出した。
そして夕方。
一日かけて人間界を満喫したアトラは、人気の少ない商店街を歩いていた。こういう場所も雰囲気があっていい。
慣れない電車移動に苦戦したりもしたが、念願だった『紅鮭ハーレム』の聖地を訪れることもできたし、初めての人間界観光は大成功と言えるだろう。
そんな中通りがかったのは、中古のゲームソフトや漫画などを取り扱う、ホビーグッズの専門店だった。表には黒木商店と書かれた看板がぶら下がっている。
魅力的なものがある予感がして、アトラは吸い寄せられるように入店した。
店内は規則性なく雑多な感じで商品が陳列されており、宝探しのような感覚に心が弾む。
見たところアトラ以外の客はいないようで人の話し声はなく、ただ聴き慣れない人間界の音楽が流れているだけだった。
物珍しさにキョロキョロと店内を見回していると、何か見覚えのある色味が視界に入ってくる。
「これって……」
それは昔、迷子になった人間界で見せてもらったゲームのソフトだった。
タイトルまでは覚えていないが、パッケージに描かれたキャラクターで同じものだとすぐに分かった。
手に取ってみると、箱を開けたように当時の感情がぶわりと蘇る。
「若いのに渋いとこいくねえ」
「っ!?」
不意に声をかけられて、危うくソフトを落っことしそうになってしまう。
「わっ、わ……っ!」
「ごめんごめん。びっくりさせちゃった?」
あっけらかんと笑うその姿を見て、アトラは「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
背はアトラよりも遥かに高く、半袖のTシャツから覗く腕にはタトゥーが入っていて、腰まであるシルバーの髪は細かい三つ編みにアレンジされている。
それだけでも充分すぎるほど迫力があるのに、サングラスをかけているものだから表情が読めなくて余計に怖い。アニメで見た不良がそのまま飛び出してきたかのような風貌だ。
「ご、ごめんなさ……っ!」
「あはは、そんなに怖がんないで」
怯えきったアトラを見て、男は相変わらずおかしそうに肩を揺らしながらサングラスを外してみせた。
サングラスの下にはたっぷりのまつ毛に縁取られた切れ長の目がバランスよく配置されていて、表情が見えたおかげか先ほどよりはいくらか柔和な印象を受ける。
しかし目元があらわになったことで、男の目鼻立ちの端整さや色気のある眼差しが際立ち、今度は別の意味で緊張してしまった。
「ゲーム好きなの?」
アトラがまごついていると、男がアトラの手の中にあるゲームソフトを指さして問いかける。
「はっ、はい。好きです」
「いいね、俺も好き。だからこんな店やってんの」
口ぶりからして、男はここの店主なのだろう。ただの美形不良ではなかったようだ。
「それオススメよ。戦闘システムがややこしくてシリーズの中ではあんま人気ないんだけどさ、ストーリーがいいんだよね」
そう語る男──もとい店主の声色は明るい。心の底からそのゲームを気に入っているのが伝わってきて、つられるようにアトラもワクワクした気持ちになった。
「そうだ、試しにちょっとプレイしていく?」
「えっ。い、いいんですか? ほかのお客さんとか……」
「いーのいーの。この時間帯からじゃどうせ誰も来ないし」
それは売上的にあまりよくないのでは。
そう案じつつ、魔界では手に入らなかった思い出のゲームの内容が気になってしまい、結局店主の厚意に甘えることにした。
「ほら、ここ座ってくれていいから」
「ありがとうございます」
店の一角にある小さなスペースに案内され、言われるがままに腰かける。
「コーヒー飲める?」
「ミルクがあれば……って、飲み物までご馳走になるわけには……!」
まだ商品を買うと決まったわけでもないのに、ここまでもてなされてしまっては気が引ける。
そう言って狼狽えるアトラを「まあまあ」と宥めながら、店主はあっという間に二人分のコーヒーを用意してしまった。
「これ飲みながら、お兄さんの話し相手になってよ」
「ええと……。ぼ、僕でよければ」
アトラがおずおずと頷くと、店主は機嫌よくアトラの向かい側に腰かけた。
それからどれほど経っただろうか。
ゲームは思っていたとおり面白くて、時折店主が話す豆知識がそれをさらに引き立ててくれた。
どうやら店主はゲームだけでなくアニメや漫画にまで精通しているようで、今期はどのアニメを見ているとか、あの作品の続編があるらしいとか、そんな話題で初対面とは思えないほど盛り上がった。
誰かと好きなものについて語り合うのは生まれて初めての体験で、アトラはコーヒーの湯気が消えるまで夢中になって喋り続けた。
「うお、もう九時か。そろそろ帰んなくて大丈夫?」
店主に言われて壁の掛け時計を見ると、時刻は二十一時を少し過ぎた頃。来た時にはまだ沈みかけだった夕日もすっかり姿を隠し、窓の外は真っ暗になっていた。
帰りたくない。そう言いかけて言葉を飲み込む。今日会ったばかりの相手にこんなことを言っても困らせてしまうだけだ。
「……いいんです」
魔界に帰ったところで、待っているのは今までと変わらない息苦しい日々だ。
できることなら永遠にこの夢のような世界で暮らしていたかったが、行くあてがあるわけでもないし、お金だって無限じゃない。
「あら、このへんの子だったの?」
「え、えっと……」
「だったらさ、うちでバイトしない?」
アトラが出自を言いあぐねていると、店主の口から思いもよらないセリフが飛び出した。
「バイト、ですか?」
「そう! 今ちょうど探してたんだよね」
深刻な人手不足でさ、と店主が続ける。
失礼なことを言うとあまり忙しそうには見えなかったのだが、もしかすると裏方業務が大変なのかもしれない。
「サブカルの知識も豊富だし、君が来てくれたらめっちゃ助かるんだけど……。もちろん無理にとは」
「っします、バイト!」
店主が言い終わる前に、アトラはがばりと身を乗り出して返事をしていた。
人間界での働き口が見つかるなど、アトラにとっては願ってもない話だ。
それも大好きなゲームや漫画に囲まれて、親切な店主と一緒に働けるなんて。
「マジ?」
店主が意外そうに目を見開く。
「マジ、です!」
この話が自分にとって好都合だったのはもちろんだが、何より人間に必要とされたのが嬉しくて、アトラは二つ返事で頷いた。
「ありがとう! えっと……」
「あっ、アトラです」
「アトラくんか。俺は黒木拓也。よろしくね」
拓也と名乗った店主に差し出された大きな手を握ると、優しい力で握り返される。
こうしてアトラは黒木商店のアルバイトスタッフとなり、輝かしい新生活をスタートしたのだった。
オレンジ色の瞳がテレビモニターの光をきらきらと反射する。
新しく始まったアニメの第一話を視聴し終えたアトラは、ぐいと伸びをして使い込んだノートを取り出した。
「この作品は原作の評判もよかったし、これからどんどん面白くなりそうだなあ」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、ノートに情報を書き留めていく。
アトラは人間界──特に日本のオタク文化が大好きだった。
その理由は、今から何年も前に遡る。
昔むかし、アトラがまだ小さかった頃。遊びに夢中で、誰かが開いてそのままにしていたゲートからうっかり人間界に迷い込んでしまったことがあった。
もう二度と帰れなかったらどうしよう。そんな不安と心細さで泣きじゃくりながら見知らぬ異世界の田舎道を歩いていると、学生服らしき制服を身につけた若い人間が現れた。
明らかに人間とは異なる容姿のアトラに男は驚いたような仕草を見せたが、アトラが迷子であることを察すると、笑顔で手を差し伸べてくれたのだ。
どこから来たのか、誰と来たのか。男が穏やかに尋ねてくれたおかげで、パニックだったアトラは少しずつ落ち着きを取り戻すことができた。
『ほら、ゲームは知っちょる?』
『げーむ……?』
アトラを元気付けようとしてか、男は人間界の玩具を見せてくれた。
当時は遊び方もよく分からなかったけれど、魔界にはないポップな音楽に手の込んだ映像、そのすべてが驚きの連続で、幼いアトラの心を鷲掴んだ。
それからほどなくして魔界へ戻ることができたのだが、以降すっかり人間界に夢中になったアトラは立派なオタクへと成長。ゲームだけでなくフィギュアや漫画まで、少しでも多く人間界のものを入手しようと魔界中を駆けずり回るようになったのだった。
人間界で放送されている番組が映るこのテレビモニターも、魔界ではほとんど流通していないレアものだ。
しかし周りの大人たちは、こうして人間界に傾倒するアトラをよしとしなかった。なぜなら、淫魔にとって人間はただの食糧だからである。
欲に抗えず、自分たち淫魔になすすべなく精力を搾取される人間は愚かな生き物なのだと大人たちは言う。けれど、アトラはそうは思わなかった。
人間界へ迷い込んだ幼いアトラを助けてくれたのは、ほかでもない人間だ。それに人間がいなくては精気にありつくこともできないくせして、人間を蔑んでいる淫魔のほうがよっぽど嫌な生き物だと思う。
そう言ってアトラは何度も怒鳴られたし、「こんなもので遊んでいるから」と一生懸命集めたコレクションを取り上げられたりもした。そしてそのたびに、人間界の娯楽がアトラのささくれた心を癒したのだった。
人間になりたい。
いつしか芽生えた想いは日増しに大きくなる。
この夢に溢れたアニメやゲームの世界を作り出す人間に憧れて、少しでも人間に近付きたくて、アトラは自分の角を削った。痛くて半端なところまでしかできなかったけれど。
人間に翼はないから、自分も翼を使わずになるべく歩いて移動した。そのせいで翼は育たなかったけれど。
そうして暮らしているうちにやがて奇人扱いを受けるようになり、気付けばアトラはひとりぼっちになっていた。けれど、好きなものを偽って生きるよりはうんとよかった。
そんなアトラが心待ちにしている日がようやくやってきた。悪魔学校の卒業式だ。
魔界の悪魔たちはここで様々な知識やスキルを学び、卒業してようやく一人前と認められる。そして一人前になった悪魔には、魔界の外へ出る権利が与えられるのだ。
一部の問題児は大人の目を盗み、在学中から人間界へ出かけたりもしていたが、アトラは落ちこぼれながら規則を破るような真似はしなかった。
そしてようやく卒業式を終え、待ちに待った日がやってきた。淫魔ならばここで初めての搾精に赴くのが一般的だが、アトラにそんな気はさらさらない。ならば何のために人間界へ行くのか。
観光である。そのために孤独で憂鬱な学校生活を耐え忍んだと言っても過言ではなかった。
幸いなことに、人間に擬態するための変身魔法はアトラの得意分野だった。
人間に憧れたあの日からアトラは練習に練習を重ね、本物の人間と見分けがつかないまでに上達したのだ。
いざ変身と気合を入れて鏡の前に立ったのもつかの間、自分の陰気臭いルックスに思わずため息が出る。
歪な形の黒い角と、ろくに飛ぶことのできない小さな翼。尻尾もやる気なさげに垂れ下がっているし、尖った耳や薄赤い肌は人間とは程遠くてうんざりする。
くすんだ緑色のくせ毛はほかの魔族と目が合わないように、わざと目にかかるくらいのうざったい長さまで伸ばしていて、それがいっそうアトラの暗そうな雰囲気を強調していた。
パンと両頬を叩いて自分のネガティブな思考を追い払い、気を取り直して変身魔法に集中する。魔法を発動すると、アトラのコンプレックスだった角や翼はたちまち消え去り、代わりに人間らしい肌や丸みのある耳があらわれた。
「よし、完璧……!」
魔法の効果とはいえ、人間そっくりの姿は気分が上がる。
先ほどまでの物憂げな気持ちはどこかへ飛んでいき、アトラの頭の中は人間界のことでいっぱいになっていた。
「はあ、楽しみだなあ。『競泳日本代表の俺が紅鮭に転生!? ~遡上で無双したらハーレムできました~』の聖地巡礼もしたいし、アキハバラにも行ってみたいし」
夢にまで見た人間界である。行きたい場所や見たい景色がたくさんあって、一日ではとても足りない。
それに、初めて人間の温かさに触れた場所。あれが人間界のどこだったのかは分からないが、いつかもう一度訪れてみたかった。
溢れんばかりの期待を胸に、アトラは魔界と人間界を繋ぐゲートを開き、憧れの地へと降り立つ。
「わあ……っ!」
背の高い建造物がずらりと並び、道路を行き交うのはたくさんの車。どこを向いてもアニメや漫画で見た光景ばかりで、アトラは思わず歓声を上げた。
季節は春真っ盛りで、ぽかぽかと穏やかな気温が心地よい。
柔らかい風が魔界では見たことのない桜の木を揺らし、その花弁をひらりと舞わせた。
「これが人間界……!」
その事実だけで胸がいっぱいすぎて、しばらくのあいだその場に立ったまま動けなかった。
しかしいつまでもこうしてはいられない。行きたいところは山ほどあるのだ。
今までたくさん我慢した分、思う存分楽しみたい。
そう意気込んで、アトラは人間界で最初の一歩を踏み出した。
そして夕方。
一日かけて人間界を満喫したアトラは、人気の少ない商店街を歩いていた。こういう場所も雰囲気があっていい。
慣れない電車移動に苦戦したりもしたが、念願だった『紅鮭ハーレム』の聖地を訪れることもできたし、初めての人間界観光は大成功と言えるだろう。
そんな中通りがかったのは、中古のゲームソフトや漫画などを取り扱う、ホビーグッズの専門店だった。表には黒木商店と書かれた看板がぶら下がっている。
魅力的なものがある予感がして、アトラは吸い寄せられるように入店した。
店内は規則性なく雑多な感じで商品が陳列されており、宝探しのような感覚に心が弾む。
見たところアトラ以外の客はいないようで人の話し声はなく、ただ聴き慣れない人間界の音楽が流れているだけだった。
物珍しさにキョロキョロと店内を見回していると、何か見覚えのある色味が視界に入ってくる。
「これって……」
それは昔、迷子になった人間界で見せてもらったゲームのソフトだった。
タイトルまでは覚えていないが、パッケージに描かれたキャラクターで同じものだとすぐに分かった。
手に取ってみると、箱を開けたように当時の感情がぶわりと蘇る。
「若いのに渋いとこいくねえ」
「っ!?」
不意に声をかけられて、危うくソフトを落っことしそうになってしまう。
「わっ、わ……っ!」
「ごめんごめん。びっくりさせちゃった?」
あっけらかんと笑うその姿を見て、アトラは「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
背はアトラよりも遥かに高く、半袖のTシャツから覗く腕にはタトゥーが入っていて、腰まであるシルバーの髪は細かい三つ編みにアレンジされている。
それだけでも充分すぎるほど迫力があるのに、サングラスをかけているものだから表情が読めなくて余計に怖い。アニメで見た不良がそのまま飛び出してきたかのような風貌だ。
「ご、ごめんなさ……っ!」
「あはは、そんなに怖がんないで」
怯えきったアトラを見て、男は相変わらずおかしそうに肩を揺らしながらサングラスを外してみせた。
サングラスの下にはたっぷりのまつ毛に縁取られた切れ長の目がバランスよく配置されていて、表情が見えたおかげか先ほどよりはいくらか柔和な印象を受ける。
しかし目元があらわになったことで、男の目鼻立ちの端整さや色気のある眼差しが際立ち、今度は別の意味で緊張してしまった。
「ゲーム好きなの?」
アトラがまごついていると、男がアトラの手の中にあるゲームソフトを指さして問いかける。
「はっ、はい。好きです」
「いいね、俺も好き。だからこんな店やってんの」
口ぶりからして、男はここの店主なのだろう。ただの美形不良ではなかったようだ。
「それオススメよ。戦闘システムがややこしくてシリーズの中ではあんま人気ないんだけどさ、ストーリーがいいんだよね」
そう語る男──もとい店主の声色は明るい。心の底からそのゲームを気に入っているのが伝わってきて、つられるようにアトラもワクワクした気持ちになった。
「そうだ、試しにちょっとプレイしていく?」
「えっ。い、いいんですか? ほかのお客さんとか……」
「いーのいーの。この時間帯からじゃどうせ誰も来ないし」
それは売上的にあまりよくないのでは。
そう案じつつ、魔界では手に入らなかった思い出のゲームの内容が気になってしまい、結局店主の厚意に甘えることにした。
「ほら、ここ座ってくれていいから」
「ありがとうございます」
店の一角にある小さなスペースに案内され、言われるがままに腰かける。
「コーヒー飲める?」
「ミルクがあれば……って、飲み物までご馳走になるわけには……!」
まだ商品を買うと決まったわけでもないのに、ここまでもてなされてしまっては気が引ける。
そう言って狼狽えるアトラを「まあまあ」と宥めながら、店主はあっという間に二人分のコーヒーを用意してしまった。
「これ飲みながら、お兄さんの話し相手になってよ」
「ええと……。ぼ、僕でよければ」
アトラがおずおずと頷くと、店主は機嫌よくアトラの向かい側に腰かけた。
それからどれほど経っただろうか。
ゲームは思っていたとおり面白くて、時折店主が話す豆知識がそれをさらに引き立ててくれた。
どうやら店主はゲームだけでなくアニメや漫画にまで精通しているようで、今期はどのアニメを見ているとか、あの作品の続編があるらしいとか、そんな話題で初対面とは思えないほど盛り上がった。
誰かと好きなものについて語り合うのは生まれて初めての体験で、アトラはコーヒーの湯気が消えるまで夢中になって喋り続けた。
「うお、もう九時か。そろそろ帰んなくて大丈夫?」
店主に言われて壁の掛け時計を見ると、時刻は二十一時を少し過ぎた頃。来た時にはまだ沈みかけだった夕日もすっかり姿を隠し、窓の外は真っ暗になっていた。
帰りたくない。そう言いかけて言葉を飲み込む。今日会ったばかりの相手にこんなことを言っても困らせてしまうだけだ。
「……いいんです」
魔界に帰ったところで、待っているのは今までと変わらない息苦しい日々だ。
できることなら永遠にこの夢のような世界で暮らしていたかったが、行くあてがあるわけでもないし、お金だって無限じゃない。
「あら、このへんの子だったの?」
「え、えっと……」
「だったらさ、うちでバイトしない?」
アトラが出自を言いあぐねていると、店主の口から思いもよらないセリフが飛び出した。
「バイト、ですか?」
「そう! 今ちょうど探してたんだよね」
深刻な人手不足でさ、と店主が続ける。
失礼なことを言うとあまり忙しそうには見えなかったのだが、もしかすると裏方業務が大変なのかもしれない。
「サブカルの知識も豊富だし、君が来てくれたらめっちゃ助かるんだけど……。もちろん無理にとは」
「っします、バイト!」
店主が言い終わる前に、アトラはがばりと身を乗り出して返事をしていた。
人間界での働き口が見つかるなど、アトラにとっては願ってもない話だ。
それも大好きなゲームや漫画に囲まれて、親切な店主と一緒に働けるなんて。
「マジ?」
店主が意外そうに目を見開く。
「マジ、です!」
この話が自分にとって好都合だったのはもちろんだが、何より人間に必要とされたのが嬉しくて、アトラは二つ返事で頷いた。
「ありがとう! えっと……」
「あっ、アトラです」
「アトラくんか。俺は黒木拓也。よろしくね」
拓也と名乗った店主に差し出された大きな手を握ると、優しい力で握り返される。
こうしてアトラは黒木商店のアルバイトスタッフとなり、輝かしい新生活をスタートしたのだった。
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