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君のいる空はこんなにも青い
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「ねえカイト? ギター弾いてみない?」
何年も前のこと、幼馴染の女の子がそんなことを言った。
きっとそれが、全ての始まりだった。
懐かしい夢を見たな――――そう思いながら、山城海斗は自分のベッドで目を覚ました。
上体を起こすと、軽く伸びをして身体をほぐす。視線を部屋の隅に向ければ、綺麗に磨かれたサンバーストのレスポール。このギターのために、どれだけの時間をバイトに費やしただろう。
カレンダーに目をやると、バツ印が日付のところに並んでいる。そして今日は、唯一バツ印が付いていない日、三月三一日であった。少しの間、海斗は自分の部屋を感慨深そうな視線で眺めている。何故ならば、今日は彼が生まれ育った町を旅立つ日であったのだから。
まだ、外は暗い。海斗はいつものように、ランニングタイツに履き替え、上から短パンを履き長袖のシャツに袖を通す。枕もとのスマートフォンと愛用のイヤフォンを手に取り、部屋を出た。玄関で、履き古したランニングシューズの紐をきつく縛ると、外に出る。
深呼吸を数回。暫くは戻ってこないであろう、この町の空気を肺に取り込む。静かで、優しく、少しだけ冷たい朝の塊が、肺を満たしていく。上を見上げれば、星々の瞬きが変わらずにそこにある。イヤフォンを耳に差し、いつものプレイリストの再生を始めると、大きく息を吐いて海斗はゆっくりと走り始めた。
走り始めは閑静な住宅街が続く。まだ周囲は暗く、まだらな住宅から漏れる光を頼りにウォーミングアップがてらゆっくりと足を進めていく。心拍数と体温が上がりきるまでは少しきついが、毎日の習慣であり慣れたものだ。
やがて、ようやく身体が温まってきたころには、景色は姿を変え住宅の姿はまばらに、水田や林が増えてきた。少しずつペースを上げていく。
耳元からは、電気信号が空気の振動に変換され、軽快なロックナンバーが聴こえている。左右で異なるディレイタイムのリズミックディレイのかかったギターリフにシンクロするように、呼吸と足のリズムが揃っていく。ハーモニックマキシマイザーで増幅された倍音が、耳朶を打ち気分は高揚していく。
その演奏の中、一際際立つ女性ボーカルの声。
何処までも透き通り、その息遣いは瑞々しく、強い言葉を紡ぐ。
その旋律に、思わず鼓動が高鳴っていることを海斗は自覚していた。
幼馴染の愛美の歌声に、何度脳髄が焼き切れるほど焦がれただろうか。
いつものランニングコースの折り返し地点である、小さな丘に海斗は到達した。少しずつ、空が白んできている。彼女が眠っているであろう丘をぐるりと回ると、家に向けて足を進める。
やがて、その丘から昇るように朝陽が差し込む。海斗は思わず足を止めて振り返った。道路越し、向こう側の歩道に差すその光の中に、栗色の髪をたなびかせた、変わらない姿の愛美が見えた。海斗は、イヤフォンを外して手を振る。彼女もまた、笑顔で手を振っている。
車道を一台のトラックが通り過ぎると、その姿はもう見えなくなっていた。
海斗は、イヤフォンを両耳に差し込むと、また走り始めた。ラストスパートに向けて、さらにペースを上げていく。心拍数は最大心拍の八割くらいまで上がっているだろうか。
暫く走り続けて、家まで残り一キロ地点。海斗はお気に入りの曲に切り替えると、ラストスパートに入る。この曲が終わるまでの四分弱、それまでに家に着くのが目標だ。曲のテンポに合わせて上がっていく両足のリズム。呼吸もまた、呼応するように強く、正確に。そう心がける。
「ただいま」
小さい声で、そう言いながら海斗は家の玄関を開けた。軽くストレッチを行い、プロテインで栄養補給をすると、シャワーで汗を流した。
シャワーを上がるころには、母親がすでに朝食を準備してくれていたようだ。普段通りの会話を交わしながら、暫くはお預けになる母の手料理を楽しんだ海斗は、部屋に戻り最後の荷造りを始めた。
大きなスーツケースには既にパンパンになるほどの必要なものが詰め込まれている。
海斗は、机の上にある小さな瓶を手に取った。手のひらにも余裕をもって納まる小さな瓶には、彼女の欠片が詰まっている。貼られた、変わらない姿の愛美と、少し幼い自分の写真。
そのまま、レスポールを手に取ると、裏返し慎重にドライバーでねじを回し裏蓋を開ける。中にはポットや配線が詰まっている。
(そういえば愛美と、抵抗のカーブがとか、線材が、とかよく話してたよな)
海斗は微笑みながら、その小瓶をその中に入れると、裏蓋のねじをきつく締めた。
そして、軽くそのギターを爪弾きながら、初めてこのギターで愛美と演奏した時のことを思い出す。
海斗がピックで弦をはじいた瞬間に、ピックアップのコイルが微弱な電流を生み、ジャックに刺さったシールドを通り、その信号がアンプに伝わる。アンプリファイアの真空管で増幅された信号は、スピーカーを震わせ、海斗の心を震わせた。
あの瞬間に、きっと自分の人生は決まってしまったんだと、海斗は思う。そっとレスポールをハードケースに収納すると、スーツケースとギターケースを持って玄関に向かった。
「そろそろ行くの?」
母親がそう声を掛けた。シングルマザーでよくここまで放蕩息子を育ててくれた。感謝の念に堪えない。そしてこれから、さらに迷惑を掛けることになるかもしれない。
「ああ、今までありがとう」
「海斗、頑張るのよ。それにしても、愛美ちゃんがあんな遺言を遺すなんてね……」
「いいんだ。それが俺の望むことだから」
「知ってる。ほんとに愛美ちゃんは、アンタなんかには勿体ない、いい子だったわ。それが、あんなに苦しんで死なないといけないなんて、本当、残酷よね」
「……そうだな」
「ほんとはアンタ、向こうの両親に背負うなって止められなかったら愛美ちゃんと籍を入れるつもりだったんでしょ? 十八のくせに」
「それはもういいだろ――」
「そうね、もう、終わったことだもんね。海斗なんかが看取っても、あんなに安らかな顔だった……ぅぅ、なんで、なんで、愛美ちゃんだったのよ……」
そう言って、母はあふれる涙を拭う。
「なあ、そろそろ……」
海斗は、これ以上話していると、自分も泣いてしまいそうだった。
「海斗? 成功しなくてもいい。多くの人に売れなくてもいい。だけどね、海斗が納得できるまでやってみなさい。愛美ちゃんに恥じないと思える生き方をしなさい。――それから、世界中に届けるのは多分無理だと思う。けどね、絶対に。そう、絶対に。――この街の、あの丘の上にはせめて、あなたの音を響かせてみせなさい!」
「ありがとう、母さん。――――行ってくる」
母の激励に、零れる涙を隠すように、海斗は玄関を出た。
涙を引っ込めようと、上を見上げれば、間抜けないくらい青い空が広がっている。
それはきっと、彼にとっての福音であった。
「――約束したからな」
海斗はギターの中に収めた、幼馴染の遺灰に声を掛ける。
「そろそろ行くか、愛美」
「俺が、必ず。お前を世界一青い空の下に連れていく。――聴かせてやろう、俺たちの音」
海斗は、ギターケースを背負い、イヤフォンを耳に差す。
耳に聴こえる愛美の歌声に背を押され、海斗は走り始めた。
何年も前のこと、幼馴染の女の子がそんなことを言った。
きっとそれが、全ての始まりだった。
懐かしい夢を見たな――――そう思いながら、山城海斗は自分のベッドで目を覚ました。
上体を起こすと、軽く伸びをして身体をほぐす。視線を部屋の隅に向ければ、綺麗に磨かれたサンバーストのレスポール。このギターのために、どれだけの時間をバイトに費やしただろう。
カレンダーに目をやると、バツ印が日付のところに並んでいる。そして今日は、唯一バツ印が付いていない日、三月三一日であった。少しの間、海斗は自分の部屋を感慨深そうな視線で眺めている。何故ならば、今日は彼が生まれ育った町を旅立つ日であったのだから。
まだ、外は暗い。海斗はいつものように、ランニングタイツに履き替え、上から短パンを履き長袖のシャツに袖を通す。枕もとのスマートフォンと愛用のイヤフォンを手に取り、部屋を出た。玄関で、履き古したランニングシューズの紐をきつく縛ると、外に出る。
深呼吸を数回。暫くは戻ってこないであろう、この町の空気を肺に取り込む。静かで、優しく、少しだけ冷たい朝の塊が、肺を満たしていく。上を見上げれば、星々の瞬きが変わらずにそこにある。イヤフォンを耳に差し、いつものプレイリストの再生を始めると、大きく息を吐いて海斗はゆっくりと走り始めた。
走り始めは閑静な住宅街が続く。まだ周囲は暗く、まだらな住宅から漏れる光を頼りにウォーミングアップがてらゆっくりと足を進めていく。心拍数と体温が上がりきるまでは少しきついが、毎日の習慣であり慣れたものだ。
やがて、ようやく身体が温まってきたころには、景色は姿を変え住宅の姿はまばらに、水田や林が増えてきた。少しずつペースを上げていく。
耳元からは、電気信号が空気の振動に変換され、軽快なロックナンバーが聴こえている。左右で異なるディレイタイムのリズミックディレイのかかったギターリフにシンクロするように、呼吸と足のリズムが揃っていく。ハーモニックマキシマイザーで増幅された倍音が、耳朶を打ち気分は高揚していく。
その演奏の中、一際際立つ女性ボーカルの声。
何処までも透き通り、その息遣いは瑞々しく、強い言葉を紡ぐ。
その旋律に、思わず鼓動が高鳴っていることを海斗は自覚していた。
幼馴染の愛美の歌声に、何度脳髄が焼き切れるほど焦がれただろうか。
いつものランニングコースの折り返し地点である、小さな丘に海斗は到達した。少しずつ、空が白んできている。彼女が眠っているであろう丘をぐるりと回ると、家に向けて足を進める。
やがて、その丘から昇るように朝陽が差し込む。海斗は思わず足を止めて振り返った。道路越し、向こう側の歩道に差すその光の中に、栗色の髪をたなびかせた、変わらない姿の愛美が見えた。海斗は、イヤフォンを外して手を振る。彼女もまた、笑顔で手を振っている。
車道を一台のトラックが通り過ぎると、その姿はもう見えなくなっていた。
海斗は、イヤフォンを両耳に差し込むと、また走り始めた。ラストスパートに向けて、さらにペースを上げていく。心拍数は最大心拍の八割くらいまで上がっているだろうか。
暫く走り続けて、家まで残り一キロ地点。海斗はお気に入りの曲に切り替えると、ラストスパートに入る。この曲が終わるまでの四分弱、それまでに家に着くのが目標だ。曲のテンポに合わせて上がっていく両足のリズム。呼吸もまた、呼応するように強く、正確に。そう心がける。
「ただいま」
小さい声で、そう言いながら海斗は家の玄関を開けた。軽くストレッチを行い、プロテインで栄養補給をすると、シャワーで汗を流した。
シャワーを上がるころには、母親がすでに朝食を準備してくれていたようだ。普段通りの会話を交わしながら、暫くはお預けになる母の手料理を楽しんだ海斗は、部屋に戻り最後の荷造りを始めた。
大きなスーツケースには既にパンパンになるほどの必要なものが詰め込まれている。
海斗は、机の上にある小さな瓶を手に取った。手のひらにも余裕をもって納まる小さな瓶には、彼女の欠片が詰まっている。貼られた、変わらない姿の愛美と、少し幼い自分の写真。
そのまま、レスポールを手に取ると、裏返し慎重にドライバーでねじを回し裏蓋を開ける。中にはポットや配線が詰まっている。
(そういえば愛美と、抵抗のカーブがとか、線材が、とかよく話してたよな)
海斗は微笑みながら、その小瓶をその中に入れると、裏蓋のねじをきつく締めた。
そして、軽くそのギターを爪弾きながら、初めてこのギターで愛美と演奏した時のことを思い出す。
海斗がピックで弦をはじいた瞬間に、ピックアップのコイルが微弱な電流を生み、ジャックに刺さったシールドを通り、その信号がアンプに伝わる。アンプリファイアの真空管で増幅された信号は、スピーカーを震わせ、海斗の心を震わせた。
あの瞬間に、きっと自分の人生は決まってしまったんだと、海斗は思う。そっとレスポールをハードケースに収納すると、スーツケースとギターケースを持って玄関に向かった。
「そろそろ行くの?」
母親がそう声を掛けた。シングルマザーでよくここまで放蕩息子を育ててくれた。感謝の念に堪えない。そしてこれから、さらに迷惑を掛けることになるかもしれない。
「ああ、今までありがとう」
「海斗、頑張るのよ。それにしても、愛美ちゃんがあんな遺言を遺すなんてね……」
「いいんだ。それが俺の望むことだから」
「知ってる。ほんとに愛美ちゃんは、アンタなんかには勿体ない、いい子だったわ。それが、あんなに苦しんで死なないといけないなんて、本当、残酷よね」
「……そうだな」
「ほんとはアンタ、向こうの両親に背負うなって止められなかったら愛美ちゃんと籍を入れるつもりだったんでしょ? 十八のくせに」
「それはもういいだろ――」
「そうね、もう、終わったことだもんね。海斗なんかが看取っても、あんなに安らかな顔だった……ぅぅ、なんで、なんで、愛美ちゃんだったのよ……」
そう言って、母はあふれる涙を拭う。
「なあ、そろそろ……」
海斗は、これ以上話していると、自分も泣いてしまいそうだった。
「海斗? 成功しなくてもいい。多くの人に売れなくてもいい。だけどね、海斗が納得できるまでやってみなさい。愛美ちゃんに恥じないと思える生き方をしなさい。――それから、世界中に届けるのは多分無理だと思う。けどね、絶対に。そう、絶対に。――この街の、あの丘の上にはせめて、あなたの音を響かせてみせなさい!」
「ありがとう、母さん。――――行ってくる」
母の激励に、零れる涙を隠すように、海斗は玄関を出た。
涙を引っ込めようと、上を見上げれば、間抜けないくらい青い空が広がっている。
それはきっと、彼にとっての福音であった。
「――約束したからな」
海斗はギターの中に収めた、幼馴染の遺灰に声を掛ける。
「そろそろ行くか、愛美」
「俺が、必ず。お前を世界一青い空の下に連れていく。――聴かせてやろう、俺たちの音」
海斗は、ギターケースを背負い、イヤフォンを耳に差す。
耳に聴こえる愛美の歌声に背を押され、海斗は走り始めた。
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