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トロッコ
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今まで、おれは荷を負わされて少しガタつきながらも進んでゆき、到着したら荷を下ろしてもらえた。
帰りもずっしりのときがあるが、身を休めながら戻るときもあった。行っては戻る。その繰り返しだが不満はなかった。
ギリシャ神話にはシーシュポスという男がいるらしい。彼は大きな岩を山頂に向かって運ぶ。あと少しで辿りつきそうになると岩はごろんごろん転がり落ちてゆく。これを永遠に繰り返す罰を彼が与えられたという語だが、おれに言わせればそんなものは罰でもなんでもありゃしない。今までのおれの日々じゃねえか。
日焼けと酒焼けで赤黒い顔のとっつぁん達だって、たまの休みを除けば朝からかかぁの愚痴言いながらおれの背に荷を乗せて何処かへ消えてゆき、また翌朝にやってきて同じことを繰り返す。どうせ家でもかかぁとガキをどなりつけて飯食って酒飲んでベッドに入るだけの毎日だろう。おれやシーシュポスと変りゃしない。
幸せか不幸かそんなものはどうだっていい。とにかくおれには運ぶ荷があった。そのための路がそこにあった。
だけど、今朝はとっつぁん達の様子がおかしかった。赤黒い顔が揃いもそろって青ざめてやがるもんだから「何本の絵の具を混ぜて塗ってきたんだい?」と軽口の一つでも叩いてやろうと思ったのに、トーマス、オスカー、メイソン、ベンジャミン、エドワードにリチャード。こっちを見ずにぞろぞろ線路の上を歩いて行きやがった。
少し遅れてやってきた・・・名前はなんだっけな、三日ばかし前からの新入りだ。新入りに何がはじまるのか聞いてみたら、フィリッパという女がやってきておかしな実験に協力しろと言ってきたそうだ。
「そんなものは断れ。おれたちは暇じゃないんだ」と新入りを叱りつけたが、やつは黙って首を振りながら線路脇を歩いてゆき、そして分岐器の切替レバーの前で立ち止まった。二股に別れた線路の切り替えはベテランのリチャードの役目のはずだ。新入りのくせに生意気な。
「誰かそのバカを蹴り飛ばしてリチャードを連れてこい」と分岐の向こうへ叫んだが、何の返事も無い。
目を凝らしてよく見てみると、正面の線路でトーマスが頭を抱えてしゃがみこみ、オスカーは十字を切って天を仰いでいる。その向こうにまだ何人かいるようだ。もう片方の線路ではリチャードが静かに身を横たえていた。
何をしている。仕事はどうした。実験だかなんだか知らねえがおれたちはうまくやってきた。よそ者の女がなんだってんだ。
すると、見知らぬ女が大きな看板を引きずりながらやって来た。こいつがフィリッパだろう。看板にはごちゃごちゃと文字が並んでいる。わずらわしいが読むことにした。
【トロッコの制御が不能になりました。このままでは前方の5人がトロッコに轢き殺されてしまいます。分岐器のそばにいる人がトロッコの進路を切り替えれば5人が助かります。しかし、切り替えた先の線路には1人がいるのでトロッコに轢き殺されてしまいます。彼は進路を切り替えるべきでしょうか】
驚いて「制御が不能」の文字にもう一度目をやった。その瞬間ドンッという衝撃が走った。
おれが轟音をあげている。大気が豪風になる。新入りがレバーに手をかけている姿を捉えた。正面には分岐の向こうで慟哭するトーマスがいる。そういえばトーマスと初めて会ったとき、おれにノアという名前を付けてくれたんだっけ。
―おまえはゴフェルの木でつくられている。洪水があったらおれとかかぁと倅を乗せてアララト山の上に運んでおくれ。
トーマスを乗せて走りさえすれば、オスカー、メイソン、ベンジャミン、エドワードを轢き殺し終わった後に、神はおれ達を祝福して空に虹をかけてくれるのだろうか。
新入りが力いっぱいレバーを押した。さて、これでトーマスを乗せることも殺すこともなくなった。そして何十秒かのうちにおれはリチャードを轢き殺すだろう。今日は空っぽのおれが、リチャードの日々を終わらせる路を進んでいる。これは革命だ。リチャードの肋骨をめりめりと圧してその命を刹那に支配する。おれたちの退屈な永遠よ、さらば。
___________
空っぽの小さな暴走トロッコは軽かったからだろうか、物凄い速さでリチャードにぶつかって派手に脱線した。リチャードは左腕に小さな傷を負い、ポンと横転して使い物にならなくなったトロッコを忌々しそうに眺めた。トーマスたちと新入りがやってきて、トロッコをバラバラに分解して得た木を燃やしながら、代わりのトロッコはいくらでもあると笑い合った。
これがフィリッパ・ルース・フットが提起したかの有名な「トロッコ問題」の考察の一つでないことは言うまでもない。
帰りもずっしりのときがあるが、身を休めながら戻るときもあった。行っては戻る。その繰り返しだが不満はなかった。
ギリシャ神話にはシーシュポスという男がいるらしい。彼は大きな岩を山頂に向かって運ぶ。あと少しで辿りつきそうになると岩はごろんごろん転がり落ちてゆく。これを永遠に繰り返す罰を彼が与えられたという語だが、おれに言わせればそんなものは罰でもなんでもありゃしない。今までのおれの日々じゃねえか。
日焼けと酒焼けで赤黒い顔のとっつぁん達だって、たまの休みを除けば朝からかかぁの愚痴言いながらおれの背に荷を乗せて何処かへ消えてゆき、また翌朝にやってきて同じことを繰り返す。どうせ家でもかかぁとガキをどなりつけて飯食って酒飲んでベッドに入るだけの毎日だろう。おれやシーシュポスと変りゃしない。
幸せか不幸かそんなものはどうだっていい。とにかくおれには運ぶ荷があった。そのための路がそこにあった。
だけど、今朝はとっつぁん達の様子がおかしかった。赤黒い顔が揃いもそろって青ざめてやがるもんだから「何本の絵の具を混ぜて塗ってきたんだい?」と軽口の一つでも叩いてやろうと思ったのに、トーマス、オスカー、メイソン、ベンジャミン、エドワードにリチャード。こっちを見ずにぞろぞろ線路の上を歩いて行きやがった。
少し遅れてやってきた・・・名前はなんだっけな、三日ばかし前からの新入りだ。新入りに何がはじまるのか聞いてみたら、フィリッパという女がやってきておかしな実験に協力しろと言ってきたそうだ。
「そんなものは断れ。おれたちは暇じゃないんだ」と新入りを叱りつけたが、やつは黙って首を振りながら線路脇を歩いてゆき、そして分岐器の切替レバーの前で立ち止まった。二股に別れた線路の切り替えはベテランのリチャードの役目のはずだ。新入りのくせに生意気な。
「誰かそのバカを蹴り飛ばしてリチャードを連れてこい」と分岐の向こうへ叫んだが、何の返事も無い。
目を凝らしてよく見てみると、正面の線路でトーマスが頭を抱えてしゃがみこみ、オスカーは十字を切って天を仰いでいる。その向こうにまだ何人かいるようだ。もう片方の線路ではリチャードが静かに身を横たえていた。
何をしている。仕事はどうした。実験だかなんだか知らねえがおれたちはうまくやってきた。よそ者の女がなんだってんだ。
すると、見知らぬ女が大きな看板を引きずりながらやって来た。こいつがフィリッパだろう。看板にはごちゃごちゃと文字が並んでいる。わずらわしいが読むことにした。
【トロッコの制御が不能になりました。このままでは前方の5人がトロッコに轢き殺されてしまいます。分岐器のそばにいる人がトロッコの進路を切り替えれば5人が助かります。しかし、切り替えた先の線路には1人がいるのでトロッコに轢き殺されてしまいます。彼は進路を切り替えるべきでしょうか】
驚いて「制御が不能」の文字にもう一度目をやった。その瞬間ドンッという衝撃が走った。
おれが轟音をあげている。大気が豪風になる。新入りがレバーに手をかけている姿を捉えた。正面には分岐の向こうで慟哭するトーマスがいる。そういえばトーマスと初めて会ったとき、おれにノアという名前を付けてくれたんだっけ。
―おまえはゴフェルの木でつくられている。洪水があったらおれとかかぁと倅を乗せてアララト山の上に運んでおくれ。
トーマスを乗せて走りさえすれば、オスカー、メイソン、ベンジャミン、エドワードを轢き殺し終わった後に、神はおれ達を祝福して空に虹をかけてくれるのだろうか。
新入りが力いっぱいレバーを押した。さて、これでトーマスを乗せることも殺すこともなくなった。そして何十秒かのうちにおれはリチャードを轢き殺すだろう。今日は空っぽのおれが、リチャードの日々を終わらせる路を進んでいる。これは革命だ。リチャードの肋骨をめりめりと圧してその命を刹那に支配する。おれたちの退屈な永遠よ、さらば。
___________
空っぽの小さな暴走トロッコは軽かったからだろうか、物凄い速さでリチャードにぶつかって派手に脱線した。リチャードは左腕に小さな傷を負い、ポンと横転して使い物にならなくなったトロッコを忌々しそうに眺めた。トーマスたちと新入りがやってきて、トロッコをバラバラに分解して得た木を燃やしながら、代わりのトロッコはいくらでもあると笑い合った。
これがフィリッパ・ルース・フットが提起したかの有名な「トロッコ問題」の考察の一つでないことは言うまでもない。
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