春待つ花嫁と妖狐の蜜契

多茶

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 心臓を失っても、気を失う瞬間まで阿生が好きだった。
 恋をすると胸がときめくと言うし、実際に蒔麻も心臓をどきどきさせていたはずだが、人の心というのは心臓ではないみたいだ。

「ん……」

 目を覚ますと自室の布団の上だった。見慣れた天井。見慣れた家具。記憶にはないがしっかりパジャマに着替えている。

「ぁ、れ……?」

 薄いカーテンの向こうはまだ夜で、一瞬、長い夢でも見ていたのかと疑った。
 記憶では吽助に心臓をくり抜かれたが、胸に手を当ててみても傷一つない。しかし、いくら胸に手をあてても鼓動は伝わってこない。首に触れても脈がない。ただ、いつもの寝起きと同じように手のひらは温かかった。
 蒔麻は体を起こし、両腕を擦りながら居間へ向かった。
 居間ではフクと鎌倉がこたつを分け合って眠っていた。フクは鎌倉の抱き枕にされていたが、二人とも表情は穏やかで、二人を起こさないよう部屋を見渡す。
 阿生は自室だろうか。
 そう考えて、直感的に拝殿にいる気がした。
 電気の一つもつけず玄関へ急ぎ、つっかけサンダルを足に引っかけて引き戸を開ける。

「っ!」

 瞬間。月明かりとともに桜の花びらが玄関に舞い込み、思わず呆けた声が出た。
 三月ではあるが、桜が咲くにはまだ寒い。しかし、境内に植えられた桜の木はすべて満開を迎えていた。
 不思議に思いながら、夢のような光景の中を拝殿へ向かう。
 怖くはなかった。神社の雰囲気は神によって変わると聞いたが、阿生が鎮守神になったから美しいのだろうか。それとも、今見えている景色が現実ではないから幻想的なのか。
 阿生は拝殿から下りてくるところだった。

「阿生さ……」

 舌が上手くまわらなかった。大きな声を出すと喉の奥から鉄の臭いが込み上げてくる。

「阿生さん」

 蒔麻に気づいた阿生はひどく驚いた顔をしていた。
 裸足で駆け寄ってきた阿生に抱かれ、背中に手を回すと感極まって泣きそうになった。無事でよかった。

「あの、この桜は阿生さんが?」

 綺麗ですね。そう続ける前に、阿生はようやく顔を見せてくれた。
 片目が白い布製の眼帯で覆われている。

「この桜は蒔麻くんが咲かせたものだよ。桜が咲いていたおかげで、蒔麻くんが目を覚ますまで何とか耐えられた」
「え?」
「境内の雰囲気は鎮守神に影響される。自然信仰をルーツとする神であれば包み込むような空気に、怨霊から神格化した神であれば張り詰めた空気に」

 蒔麻は手のひらが透けていないことを確かめ、そのまま胸に手を当てた。
 心臓が見当たらないのは気のせいではなかった。
 阿生がその場で両膝をついた。
 蒔麻の手を取り、祈るように額を重ねる。眉間にしわを寄せ、まるで懺悔でも始めるようだった。

「阿生さん、あの……」
「今、ここの鎮守神は蒔麻くんだ」
「あ……」
「心臓がない人間を生かし続けるには、神の座を引き継ぐより他に思いつかなかった」

 そういえば、人間であろうと神の役割をもつ限り死なないと鎌倉が言っていた。

「いや、生かし続けるというと違うな……。君を失いたくなかった……。神でいる限り心臓がなくても死にはしない。老いることもない。ただ、鎮守神に就くということは今まで以上に妖に狙われる──まともな死に方ができないかもしれない」

 それがどういうことなのかすぐに想像できなかったが、阿生の悲痛な表情を見ていると「だとしても」と口をついていた。

「生かしてくれてありがとうございます。意識を失う前、阿生さんの顔が悲しそうに見えて、そうさせたのが俺だとしたらって焦ったんです。洞窟に行ったのは阿生さんを抱き締めたかったからなのに」
「……どうして?」
「五百年前、阿生さんは悪狐を妖怪のまま岩に閉じ込めたって聞きました。あと一人分の心臓を食わせれば、人間にして殺すこともできたのに」

 あと一人の人間も見殺しにできない人間好きの妖狐を愛しいと思った。同時に、その後も多くの人間が犠牲になったことを悔やんでいるだろうとも。だから、蒔麻を放っておけなかったのだろうと。

「どう言葉をかけていいかわからないけど、今すぐ阿生さんの傍に行きたいと思ったんです」

 二人の間の隙間を詰めるように、阿生を抱き締めた。
 今まで自分から人に抱きつくなんてできなかった。しかし今は、どう思われようと阿生が愛しい。

「――俺を眷属にしてもらえないでしょうか」
「え?」
「婚姻契約があるからじゃない。俺に蒔麻くんを守らせてほしい」
「人間になる夢はいいんですか……?」
「妖でいれば蒔麻くんを守れる。それに、人間になろうとしていたのは人間でなければ人間から愛されないと思ってのことで。蒔麻くんは妖狐と知っても受け入れてくれた」

 蒔麻は何度も頷いた。

「はい。ずっと、一緒にいてほしいです」

 言葉にするといっそう阿生への気持ちが募った。
 蒔麻の心の内を表すように、視界を埋め尽くすほどの桜の花びらが境内を舞った。
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