春待つ花嫁と妖狐の蜜契

多茶

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 祖母を看取り、後のことは叔父に任せて家に戻った。
 昼前から降り始めた雨は本格化し、家に着く頃には季節外れの土砂降りに変わっていた。境内の砂地は泥濘んでおり、スニーカーやズボンの裾に泥水が跳ねる。
 病室から追い出された阿生は先に帰っているはずだが、社務所は閉まったままだった。こんな天候では参拝客もいないだろうが、日中にも関わらず雨戸が下ろされた社務所の窓は寂れた印象を与える。
 母屋の玄関は黒く汚れたままだった。わずかな死臭を感じて、中へ入るのを躊躇う。
 たった半日。いろんなことがありすぎた。悲しみや恐怖が疲れに変わっていく。
 息を止め、引き戸のサッシを掴んでいると中から阿生が顔を出した。

「傘を差さずに帰ってきたの?」

 警戒する蒔麻に残念そうな顔をする。

「風邪ひくよ。お風呂に入っておいで」

 半日前なら素直に従っていた。しかし、今は風呂を用意してくれたことにさえ、何か裏があるのではないかと邪推してしまう。

「訊きたいことがあります」
「ダメだよ。先にお風呂」

 睨みつけると阿生が折れた。

「わかった。お風呂で聞くよ」

 強引に腕を引かれ、濡れた靴下のまま風呂場に連れられた。
 蒔麻が湯船に浸かるのを見届けないと気が済まないようで、阿生の前で服を脱いで浴槽を跨いだ。羞恥よりも事情を説明してほしい怒りが勝る。

「どんな事情があっても許せないと思います」

 天井から落ちてくる水滴が跳ねる音に混じって、蒔麻の声が反響する。

「心臓を食べるつもりの相手の孫を、よく花嫁になんてできましたね」

 蒔麻がどんな思いをするかわからなかったのだろうか。そう考えながら、頭の片隅で自分のことを慮ってほしい厚かましさが嫌になる。それでも、阿生を責めずにいられなかった。

「妖怪は残忍だって言ってたの、自分のことだったんですね」

 蒔麻が何を言っても、阿生は浴槽の縁に黙って座っている。

「どうして……。どうして、祖母だったんですか? 二十年前なら俺の心臓でもよかったのに……」
「老い先短い方が早く心臓が手に入るから」
「……っ!」

 自分で訊いていても、答えを聞くと阿生に湯を浴びせずにいられなくなった。

「ひどい……」
「妖はそんなものだって言っただろう。それに、明美さんとは心臓を差し出す代わりに君を保護する契約をした。お互いにメリットのあることだよ。妖の前で人間は非力だから」

 だから阿生は蒔麻を助けたのか。花嫁にしたのも全部、祖母との契約があったから。

「君が妖を見なくて済んでるのも、その年まで食われずに済んだのも、全部明美さんのおかげだよ」
「え?」

 頬を掴まれ、無理やり鏡の方に顔を向けられた。水蒸気で曇った鏡が拭われると、蒔麻の後ろに阿生の顔が映る。

「目、俺と同じなのわかる?」

 火花を散らして浴室の電球が消えた。
 暗闇で光る目が四つ──。

「妖が視えないよう目に細工をした」
「どういう……」
「血なんだろうね。君は視える子で、妖に脅かされては泣き叫んで──妖は人間が嫌がることが好きって言ったろう? 小さい頃はいつも君を食おうと舌舐めずりする雑魚を引き連れてた」

 記憶にない話だ。

「養子に行く前、明美さんに頼まれて妖に関わる記憶を消した。ああ、明美さんが君を養子に出したのは俺から遠ざけるためだったよ。いくら契約していても、妖が約束を守ると思えなかったんだろうね」

 ずっと祖母に疎まれていると思っていた。
 何も知らなかった自分が嫌になる。
 鏡の中の蒔麻は眉を潜め、阿生に縋るような表情で涙を流していた。

「だったら俺の心臓にしてください。全部俺のためだったって言うのなら、殺してもいいから、だから、おばあちゃんの心臓は食べないで……」

 最後くらい祖母のために何かしたい。その一心だった。

「君の心臓はいらない」
「……そんな、でもおばあちゃんのは……」
「人間になっても君がいないんじゃ寂しいし。かと言って、明美さんの心臓も食べない」

 阿生は「人間のいう情なのかな」と独りごちた。

「人間に愛されるには人間になるしかないと思ってきたけど、愛されなくても妖でいれば人間を守れる。まだしばらくはそれも悪くない」

 冷えた肩に温かい湯が掛けられる。
 阿生を責めることで保っていた平常心が崩れていく。蒔麻は泣き顔を隠すように水面に顔を伏せた。

「溺れるよ!」

 慌てた阿生に抱え上げられるが、自力で立つ気にもなれず、支えられるまま温かい胸に顔を埋めた。

「……俺にかけた術、解いてください」
「婚姻契約は解けない」
「目、だけでもいいから……」

 祖母を失った悲しみと阿生への怒りを昇華しきれないまま、一方的に契約を破棄させた罪悪感に押しつぶされそうだった。

「部屋へ行こうか。少し顔が赤くなってる」

 こんなときでも蒔麻の体は容赦なく疼いた。
 灯りもつけないまま蒔麻の部屋に入り、引っ張り出した敷き布団の上に座る阿生に跨がった。
 阿生の突き上げは穏やかで、いつものように肩や背中にしがみつかずに済んだ。そのかわり果てるには物足りない緩い快感が長く続くため、蒔麻は体を揺すられながら啜り泣いた。

「んぅ…っ、ん、あ…っ、はやく終わって……」
「ごめん。もう少し付き合って」
「あっ、やぁっ、乳首、摘ままないで……っ」

 阿生の手から逃げるように体をくねらせる。
 今日に限って阿生は人間の姿を保ったままだ。妖狐を突き放した蒔麻への気遣いなのかもしれないが、その優しさは阿生の夢を先延ばしにさせた蒔麻を落ち込ませた。
 他人を責めるなんてしたくない。しかし、阿生を責めなければ一人ではこのやりきれなさを抱えきれない。

「ふ…ぁっ、う……んっ、うぅ……」

 蒔麻は涙を拭いながら阿生を盗み見た。向かい合って座っていても、真っ直ぐ目を見るなんてできなかった。
 そこには好きになりかけていた男がいる。
 責めているはずなのに縋りつきたい。
 どこまでも自分本位で恥ずかしい。

「っ、ごめん、なさい……」

 蒔麻は阿生の胸にもたれかかった。
 何に謝っているのかは自分でもわからなかった。

「っ、ごめ……っなさい……」
「前にも言ったけど、妖は人間が嫌がることを好む。信じるに足りない。術を使えば君を簡単に騙せるし傷つけることもできる。そんな相手に気遣う必要はないよ」

 阿生の人間好きがそう言わせるのだろうか。妖怪を貶めさせるつもりはなかったのに。
 阿生は蒔麻の体を緩く抱き、布団の上に倒れた。必然的に覆い被さる恰好になり、蒔麻は阿生の温もりに身を委ねながら気が済むまで泣き続けた。
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