春待つ花嫁と妖狐の蜜契

多茶

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 警察の事情聴取を受けながら常に頭の片隅に祖母のことがあったが、家を飛び出そうとしていた頃よりかはいくらか冷静になっていた。
 時間外の受付を通り、通い慣れた病室へ向かう。
 ベッドを仕切る薄いカーテンには青い早朝の陽差しが透けていた。
 祖母の部屋は六人部屋だが、同室の患者はまだ眠っているようで、どのカーテンの奥からも人が起きている気配はしない。
 蒔麻は静かに窓際のベッドを開けた。叔父が付き添っているものとばかり思っていたが、そこにいたのは《蒔麻》だった。
 パイプ椅子に座り、祖母の手を握っている。
 驚いて突っ立っていると、蒔麻に気づいたもう一人の蒔麻が唇の前に指を立てた。

「叔父さんは休店の支度があるからって、始発で家に帰ったよ。すぐ戻ってくるって言ってたけど」

 小声でそう教えてくれた《蒔麻》は、立ち上がると阿生に姿を戻した。
 肩の力が抜け、思わず泣きそうになる。
 どうして蒔麻の姿をしていたのかとは聞かなかった。阿生と祖母の顔を交互に見ていると、連絡を受けてから家で何があったのか話したい気持ちさえ霧散していた。

「来てくれてたんですね」
「うん。立ち寄ったとき、そろそろみたいだったから」
「祖母とは話せましたか?」

 阿生が首を振る。

「でも目を覚ますと思うよ。蒔麻くんが来てくれたから。明美さん、蒔麻くんを待ってたと思う」
「そんな……」

 京都に戻ってきてから毎日のように見舞いいに来たが、祖母が目を覚ますことはなかった。サイドワゴンに置いた花瓶の花だけが増えていった。叔父や看護師は話せているというのに、祖母は自分を避けているのではないかと思っていたくらいだ。
 それでも、阿生にそう言われると本当に祖母と話せるような気がした。
 ベッドに近づき、そっと祖母の手を握る。痩せてカサカサしているが温かい。
 触れているとホッとして、押し込めていた感情が溢れ出してしまう。阿生の手に背中を支えられ、蒔麻は肩で息を吸った。

「……おばあちゃん」

 起きてほしくて声をかけた。
 両親の死後、新しい家で苦労はしなかった。祖母もときどき遊びに来てくれて、蒔麻を神社に近づけさせなかっただけで、連絡をすれば一人孫として気に掛けてくれた。
 それでも、養子に出された事実は幼い蒔麻に自分はいらない子なのだと思わせた。どうやったら、祖母にとって必要な子になれるのかと考えていた。
 最後まで祖母が必要とする孫にはなれなかったことを謝りたい。
 呼びかける声に涙が混じる。

「おばあ──」

 握っていた手がわずかに力を取り戻し、蒔麻はベッドにしがみつくように立ち上がった。
 祖母の目が蒔麻を捉え、目尻に皺を寄せる。

「ああ、来とったの」

 掠れた声は静かにしていないと聞き取れない小ささだった。久しぶりに聞く祖母の声に弾かれたように涙が溢れる。
 大きく頷くと、堰を切って頬を流れた。

「あのお花、蒔麻くんが持ってきてくれたんやって? ありがとうね。起きるたんびに増えとって、看護師さんに教えてもらったわ。おばあちゃんに会いたがっとったって。お礼が遅なってごめんね」
「ううん……。俺のタイミングが悪くって、俺こそ、いろいろごめんね……」

 矢継ぎ早に謝りたくなったが、祖母に「蒔麻くんが何を謝まんの」と笑われて口を噤んだ。

「遠ざけても遠ざけても、私に悲しいことがあるとふらっと顔見してくれて。それになんぼ助けられたか。ええおばあちゃんではなかったのに、蒔麻くんにはそういう力があったんかね」

 何を言われているのかわからなかった。京都に来ても神社に入る勇気がなく、いつも鳥居の下で引き返していた。

 ──ああ、そっか……。

 阿生の手が背中に触れて、理解した。祖母に困ったことがあると阿生が蒔麻のふりをしてくれていたのだろう。
 会いに来て祖母が喜んでくれると知っていたら何度だって会いに来たのに、その一歩を踏み出せなかったことが悔やまれる。
 阿生が祖母の傍にいてくれてよかった。

「蒔麻くんが元気でいてくれるだけでええと思っとったけど、こうやって顔見れんのは嬉しいね」

 喉が詰まった。
 泣き続けていると、祖母に「そない泣き虫やったか?」と苦笑された。

「蒔麻くんを家から引き離したい一心やったけど、一緒におってあげられんでよう苦労させたと思う」
「そんなの何もないよ……」

 祖母の目が後ろの阿生に向けられる。

「これからも守ったってね」
「人間ができる範囲なら」
「ああ、せやった。人になりたいんやったな。あんまり普通なもんやから、二十年一緒におっても忘れるわ」
「おばあちゃん、阿生さんのこと知って──」

 一緒に暮らしていたのだから、祖母が阿生の正体を知っていたのは不思議ではない。
 祖母は蒔麻の言葉に驚いたようだった。今にもまた眠ってしまいそうなのに、振り払うようにして蒔麻の手を握り返して笑顔を作る。

「蒔麻くん、ちょっと阿生と二人にしてくれる?」
「え、ああ、うん」

 ずっと二人でいたのだから積もる話もあるだろう。
 自分よりも阿生との濃い繋がりを感じた気がして寂しかったが、蒔麻は花瓶を抱えて病室を出た。
 しかし、花瓶の水を替えるのに時間はかからず、すぐに戻ってきてしまった。
 盗み聞きなんてよくないと思うが、阿生と祖母の関係も気になっていた。
 叔父の言う《唆されている》という言葉が引っかかっていたのかもしれない。
 祖母の声はうとうとしていたが、病室のすぐ外にいる蒔麻の耳にもはっきり届いた。祖母の言葉を一言も聞き漏らしたくなくて気を張っていた。

「心臓を食べられるっていうんは、どれくらい痛いもんなんやろうか?」
「生きてるうちに食べたりしませんよ」
「ふふっ、さようか。お手柔らかに……頼むわ……」

 手が滑り、廊下に花瓶を床にぶちまけていた。
 驚いた看護師が駆け寄ってくる。
 水がスニーカーを濡らしたが、カーテンから顔を出した阿生を見つめること以外、何もできなかった。

 ──千個目の心臓……。

 阿生が言っていたもうすぐ手に入る千個目の心臓が誰のものか繋がった。
 目の前にいる男が妖怪にしか見えず、蒔麻は何も言えないまま、気づけば阿生の胸ぐらを掴んでいた。
 祖母がふたたび眠ってくれていたのは幸いだった。看護師が止めに入るまで、蒔麻は阿生の首を絞め続けていた。
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