春待つ花嫁と妖狐の蜜契

多茶

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 祖母の病院から帰ってくると、賽銭箱の前で叔父が背中を丸めていた。
 毎朝見る光景だ。帰ってきたばかりの頃は、早朝から熱心な背中を見て叔父も神社の次男なのだと微笑ましく思っていたが、参拝の理由を聞いて驚いた。
 阿生の監視──。祖母が入院している間に、阿生がおかしな態度を見せないか目を光らせているのだと。
 蒔麻を呼び戻したのも、神社が阿生に乗っ取られそうだという理由だった。
 それとなく阿生に叔父との関係に探りを入れたが、何かあったわけではないらしい。ただ、警戒されているようだとのんびりした反応が返ってきた。
 阿生は気にも掛けていないようだったが、人が理由もなく疑われているというのは居心地が悪い。
 叔父だって神経質で居続けるのも疲れるだろう。日に日に目の下のクマが濃くなり、やつれていっている。

「叔父さん、おはようございます」
「ああ……」

 振り向いた叔父に、病院から持って帰ってきた汚れ物の袋を掲げて見せる。

「おばあちゃん、今朝は顔色よかったですよ。手もぽかぽかしてて。話はできなかったですけど、看護師さんが昨日少しだけ目を覚ましたって教えてくれました」
「らしいな」

 看護師が言うには、叔父には連絡したそうだが叔父から蒔麻に連絡はなかった。そういうところが寂しいが、疲弊した叔父の顔を見る限り強くは言えない。

「あいつは? お前一人か?」
「阿生さんなら、裏のおじいさんが大根をくれるって言うので連れて行かれました。社務所を開けないといけないので、俺だけ先に」

 そう答えると、叔父は表情に力を取り戻して蒔麻に詰め寄った。
 掴まれた腕が痛い。

「どうしたんですか?」
「お前まで唆されたんちゃうやろな?」
「そ、唆される?」
「あいつと寝とるんやろ? 見境のない男とは思っとったけど、まさか孫まで歯牙に掛けるとは抜かった」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 ふいに市松人形のことが頭をよぎり、監視カメラや盗聴器の可能性まで考えて鳥肌が立った。
 蒔麻が気づかないだけで、早朝だけでなく夜も覗きに来ているのだろうか。思わず叔父の手から逃れるように体を引いた。

「何の話ですか?」
「隠さんでも、お前が男が理由で前の会社におられんくなったんは知っとる」

 叔父は当然のように興信所を使ったと、「それは承知で呼び戻したからええんや」と言った。

「せやけど、あいつと必要以上に親しくなるんは勘弁してくれ……」

 呆れるような溜め息を浴びせられる。

「叔父さんは……、どうしてそこまで阿生さんを敵視するんですか?」

 追いつかない頭で言葉を絞り出した。

「敵視? 阿呆なこと言いなや。あいつのせいで俺は迷惑被っとんねや」
「でも、ありもしない悪口ばっかり……」

 阿生は人を唆すことも誑かすこともしないだろう。
 一緒に暮らして二週間しか経っていないが、氏子の評判も高く、町でも可愛がられている。叔父より蒔麻よりずっと町に受け入れられているように思う。

「迷惑な話や。母さんが死んだらここは潰すつもりなんや。それをええ評判なんか立てられてみ? 外聞が悪いやろうが」
「潰すって……」

 聞いていない。
 神社を手伝える──祖母を喜ばせることができるかもしれないという期待を抱いて京都に戻ってきたのだ。

「おばあちゃんはそれで良いって言ってるんですか?」
「死んだ後のことまで訊いてどないすんねん。下手に訊いて『残せ』言われても困るやろが。死人は何もしてくれへんねんで」
「そうですけど、でも……」

 一度建立した神社は基本的に潰すことはしない。宮司のいなくなった神社には兼任で他の神職が宮司につくか、御魂を移して神社を移設するのが一般的だ。
 そもそも神が不在の神社で移すものもないのかもしれないが、叔父がそれを知る由はない。

 ──俺が継ぎますからって、言えればいいのに……。

 主張したくても、今の蒔麻では唇を噛むことしかできない。

「とにかく、お前に求めとんのはあいつと仲良しこよしになるんやのうて、あいつがこれ以上おかしなことをせんよう見張ることや」

 念押しのように「わかったな?」と言われ、蒔麻は頷くことも首を振ることもできなかった。
 早く叔父の姿が見えなくなることを祈りながら、階段を下りていく後ろ姿を見送った。

「はあ……」

 小さな神社ではあるが、お年寄りのお散歩コースや子どもの遊び場になっていて、地域の人に愛されているのだと嬉しく思っていた。
 薄暗い境内にも関わらず人が寄りつくのは祖母や阿生の仕事ぶりによるもので、たった数週間ではあるが、神職になりたい思いを強くしていたところだった。
 蒔麻は祖母の洗濯物を片し、白い作務衣に着替えた。
 じっとしていると落ち込んでしまう。とにかく体を動かそうと、賽銭箱の鍵を持って社殿に戻った。
 賽銭は収益の一部ではあるが、地域密着型の神社では一年を通しても大きい金額は動かない。
 阿生に教わりながら初めて賽銭箱をあらためた際、一万円札が入っていると驚くという話をされた。

「神様がいるなら、俺も一万円投げ込みたい気分……」

 賽銭の金額にはいろいろな考えがある。御縁にちなんで五円玉がいいという人もいれば、風水的に三色混合がいいから百十五円を入れる人も、五千円札以上でなければ神は声を聞いてくれないという人まで。
 通常、金を《投げる》という行為は忌むべきものだ。相手に金を投げつけるなんて失礼極まりない。しかし、誰かに強要されたわけでも誰かに指示されたわけでもないのに、人は賽銭箱に金を投げる。
 民俗学の観点では、賽銭をおこなう行為は儀式のひとつとされている。村で初穂を捧げていた頃から時が流れ、祈りが個人化されて金を投げるようになった。
 大学で研究をしていた頃、蒔麻は賽銭を投げる行為は神への期待を表していると考えていた。

「あれ?」

 賽銭箱に取り付けた南京錠を外し、中を覗いて驚いた。

「空だ……」

 阿生が回収したのだろうか。
 疑問に思っていると、ちょうどいいところに阿生が大根の袋を抱えて戻ってきた。

「二人だって言ってるのに十本ももらっちゃったよ。何本かは干した方がよさそうだよね」

 苦笑いを浮かべる華やかな顔にはわずかに土がついている。それがなんともミスマッチで、普段の阿生を見ていると妖狐であることを忘れそうになる。
 蒔麻は袖で頬についた土を拭ってやった。

「阿生さん、今朝お賽銭回収しましたか?」
「賽銭? 俺はやってないけど、どうかした?」
「どうかというか、ただ空だったので」

 単に誰も来ていないだけだろうか。しかし、叔父でさえ律儀に賽銭を投げている。一円も入っていないのは変だ。

「もしかして賽銭泥棒じゃ……」

 監視カメラもない神社だ。大金が入っているわけではないが、盗みやすさの難易度があるなら間違いなく初級だろう。
 祖母が不在、神が不在で神社の治安が危ぶまれる。

「警察に連絡した方がいいんでしょうか?」

 蒔麻は青ざめて阿生を見上げた。しかし、阿生は落ち着いた様子で「うーん」とのんびり構えている。

「今まで被害に合ったことはないんですか?」
「……なくはない、かな」
「じょ、常習犯じゃないですか!」

 しかし、通報しようと携帯電話を掴めば、阿生に止められた。

「証拠もないし、警察も呼ばれても困ると思うから。ひとまず様子を見ようと」

 ひとまず様子を見たせいで犯行が常習化しているのではないか。そう突っ込みたくなったが、たしかに被害だけ訴えたところで警察も困るかもしれない。

「とりあえず大根置いてくるね」

 そう言って家に入っていく阿生に、どこか違和感を覚えた。

 ──なんか、逃げられたような気がする。

 はぐらかされた感覚とはまた違う。

「でも証拠なんて……、あっ!」

 その日の夜。蒔麻は社務所に布団を持ち込んだ。部屋の灯りは消し、眩しく光るノートパソコンの画面を睨みながら眠気に耐える。

「ご家族もまさかこんな使い方されると思わなかっただろうな」
「後はお任せしますって話だったので」
「そうだけどね」

 社殿に置いた市松人形の視線の先には、賽銭箱が映っている。暗視カメラではないので鮮明な映像は難しいが、人影くらいは目視できる。叔父が仕掛けたであろうカメラを探したが、家中探しても見つけられなかった。
 気になるところだが、幸い、今晩は体が疼かない。
 徐々に体が慣れてきたのか、最近は体が阿生を求める頻度も落ち着いてきている。それが良いのか悪いのかはわからない。ただ、一人寝を心許ないと感じるのは、立て続けに怪異に襲われたからだと思うことにしている。

「賽銭箱にはいくら入れたの?」

「千円です。あんまり大きい額だと警戒されるかなって思って」
「千円あったら、ふたばの豆餅を四つ買っておつりがくるね」

 背後から茶をすする音が聞こえてくる。

「阿生さん。別に付き合ってくれなくて大丈夫ですよ」
「いやいや。こんな面白いことする子を見逃す手はないよ」

 振り返ることなく、蒔麻は黙って唇を曲げた。
 蒔麻を突き動かしているのは正義感ではない。祖母がいない間も神社をきちんと守りたい責任感だ。

「阿生さんはどうにかしようと思わなかったんですか? 前から起きてるんですよね?」
「ときどき。空っていうのは初めてだけど」
「もしかして犯人にあたりがついてるんですか?」

 隣に移動してきた阿生を見上げたが、その質問は食事というキスではぐらかされた。

「あの、ちょっ……、んっ」

 阿生がパソコンを閉じて奥に押しやる。
 暗闇で濃い影に覆い被さられ、監視をしないといけない最中で困るのに、蒔麻は一方的に求められる状況にくすぐったさを感じた。

「寝ないでずっと起きてるつもり?」
「だって、いつ来るかわからないですし」

 影が揺らぐ。

「そんなに元気が有り余ってるなら、遠慮なく食べても問題ないね」

 耳朶を擽られ、しまったと思った時には腰が抜けていた。

「カメラが……」
「どっちの?」
「……どっちも、です」

 声を振り絞ると「どっちも大丈夫だよ」と笑われた。
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