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1. 干滝殿
20. お札
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ところが呪詛状の手がかりがつかめないまま日がたち、私はもう半分諦めながら、真っ暗な天井を見上げていた。
大体、建物の中で隠し場所と言ったら塗籠くらいしかないが、主人の塗籠にあるものといえば貴重品、お宝、見られてはいけないもの、と決まっていて、盗人だったらまずここを狙う。そんなところに隠すだろうか。隠したとして、盗人ほどの技量もない一介の芋ほり人風情が入りこめる場所ではない。私は毎日汗をかいているので、遠くからでも臭うのだ。少しでも近づこうものならたちまち気が付かれてしまう。
それ以前に、本当にこの別宅に呪詛状があるのだろうか。本宅や、どこそこの寺に預けているということはなかろうか。
もういいではないか。せっかく自由を楽しめる機会を与えてもらったのだから、婚儀のお役目や梅太郎の命などという、持ち重りのするものはすべて忘れ、このままひっそり一人の男として生きていけば。鑑みるに、私はすでに励み尽くしたと言えるのではないか。逆境もあったが、一途に祈り信じてきた。そうした生き方の仕上げとしてアメノマルツチ様へ身を捧げようとして受け入れてもらえなかった。それでもあきらめず、もう一度この身を世のため人と人間のために尽くそうとしたが、失敗した。いや、しつつある。
梅太郎は残念だが、そういうことだ。娑婆に出てきてわかったが、どこの誰が燃えるほどの信仰に身を投じているか。荒ぶるまでの信仰がどこに必要か。誰が世のため人のためを第一義として生きているのか。自分の幸せを追求して生きる、その際に世間様には多少ご迷惑をおかけすることもあるかもしれない、でもそこはお互い様、悪かったからあなたのためにもちょっと祈っとくね、とこんな感じではないのか。
私だって少しは悪いことをしてみたい。打たれたら思い切り打ち返し、盗られたら取り返したい。たくさんお金を使ってみたい。恋をしてみたい。体に悪いものを今後の健康に気兼ねなくたらふく食べてみたい。世界の均衡を保つとかなんとかを忘れ、自由に生きてみたい。
例えばはす向かいに住んでいる信心深いお婆さん。気持ちのいい小屋にお爺さんと二人で暮らしている。三人の娘はみな結婚して、巣立っていった。特に三番目の娘さんは晩婚で、先月ようやく嫁入りした。
娘さんがいなくなって淋しいですかと尋ねたところ、年を取って一つ一つの仕事をするのが遅くなったので、一日中家事やら内職、お寺参りに忙しく、あまり寂しがっている暇はないという。親切で、神仏とともに穏やかに生きている感じがする。ところがつい先日、この三番目の娘さんが女性ならではの業病に倒れ、床についたという。男の姿をしている私にもお婆さんは病の様子をつぶさに教えてくれながら、これまでの仕事に加え娘さんのお見舞いも精力的にこなしている。
私が出勤や帰宅の際に道を通るときに声をかけてくれるのだが、長話となることもしばしばだ。仕事に遅刻するので、どのように話を切り上げたら失礼にならないのか模索中である。
「さて、もうそろそろ行かなくては」
「あら、そうですね。滝石さんは忙しいのに、いつも長話になってごめんなさいね。わたしみたいなおばあちゃんは一日中家にいるものだから、人を見るとついおしゃべりしたくなっちゃうの」
「いえいえ、家にいるどころか、しょっちゅうお出かけなさっているのをお見掛けしております。では」
「年をとったからね、毎日は出かけられないの。明日はゆっくりお休みするのよ。でも今日はこれから市場に行って、油を買うの」
「はあ、東市へですか?結構距離がありますけれど、荷物が重たくなるのに大丈夫でしょうか。明日だったら手伝えますよ。今日はもう仕事にいかなけりゃですけれど」
「まあありがとう。優しいわね。東市なんてもう何年も行ってないわ。わたしが行くのはすぐそこの市場よ、行ったことないの?そうか、昼間はいないから知らないのね。ついでに連れて行ってあげるわ」
「あ、今日はこれから仕事で」
「はい。今日は大丈夫よ。重いものは、市の子に家まで運んでもらうんですよ。ほら、この間雨のときに転んで痛めた肩があるから、重いものは持たないようにしているの。明日にする?あなたが明日空いてるなら」
「今日も市へ行って、明日も違う市へ行ってはお手間でしょう」
「滝石さんに行き方をを教えるだけですよ。手間なものですか」
「まだ肩も万全ではないのではないですか?」
「足は健康なの。もしも疲れたら、味噌玉を一つか二つ市の子に渡すと、歩くときに背中を押してくれるのよ。でもあんまり勢いよく押されるとまた転んじゃうから、ゆっくり押しなさい、と初めに言っとくのよ。昔は味噌玉一つで荷物も持ってくれたのに、最近は何でも高くなってね」
「そうですか。でも押してもらえるならいいですね。また体を悪くしたら大変ですからね」
「そうなの。あの時はひどかったわ。私が転んでも夫は耳が聞こえないものだから、さっさと歩いて行ってしまって」
「もう大分良くなったんですか」
こう聞いたらまた話が続くことがわかっているのに、聞かないといけないような気がしてついつい質問を重ねてしまい、遅刻して塩自に投げ飛ばされるのだ。
ちなみに、私の仮住まいは大副別邸に隣接する敷地に建つ長屋にあった。大副が使用人のために用意した長屋だが、実際に大副邸に勤めるのは私だけであった。私の住んでいる部屋のちょうど裏側に女の人が住んでいた。ご亭主と子供に先立たれ、自身も病気でふさぎ込んでいる人だ。朝ちょこっと様子を覗いて帰りにまた覗くと、同じ姿勢で寝ている。ひょっとしたら死んでしまったのかも、と慌てて近づくと、乾いた目でこちらを見る。この視線に毎回背筋が冷えるような思いをする。この人は例のはす向かいのお婆さんがせっせと食べ物やら薬草やらを差し入れてくれるのを、大してありがたがる素振りもなく受け取っている。そして夜になると、私の部屋には聞こえてくるのだ。彼女が神仏を恨み、はす向かいのお婆さんや近所の人々、私も含まれるが、とにかくすべての人を呪う声と、むしゃむしゃと差し入れの食事を咀嚼する音が。そしておそらくその音が聞こえているのであろう、私の長屋の斜め裏、つまりこのかわいそうな女性の隣に住んでいる、これまた信心深い貧乏なおばさんが、隣人に罰が当たらないようにと神仏に祈る声も聞こえてくる。
つまり何が言いたかったのかというと、みんなそれぞれの信仰を持ちながら、悲喜こもごも、自分の人生を歩んでいる。自分の生き方を返上してまで神仏に身を捧げず、自分の幸せを追求しつつ、自発的に祈りながら生きる。思った通りに生きていけない場合はこれを自発的に呪う、こういうのが普通である。他者から、祈りなさい、神仏に身を捧げなさい、そういうふうに生まれついたのだから、と無理無理押し付けられるものではないのだ。
しかし今私は、上記のようにつらつらと考えてみて、やはり今まで通りの道を進もう、と改めて思った。じゃあ何だったの、今の考察は、ということになるけれども、身の回りにいるこういった人々は、なんと皆けなげなことだろう。儚く生き、報われることもあれば報われぬこともある。
うむ。我々のいる世間や自然は、かくも険しくも美しい。咲き誇る桜にまばゆい日差し、秋の夕暮れ。神さびて灰色がかった神殿から還俗し、目に映るものごとの輪郭は極彩色に縁どられているようじゃないか。こういった美しいもののために私にできるもっとも大きな貢献といえば、夫婦御供となり天下泰平を祈ることだ。大きな役回りを頂いて、大変結構なことである。私は自分の考えにすっかり満足して、少しばかり目頭を熱くした。夜は感傷的になっていかん。
神仏を忘れて欲望の向くままに生きてみたいというのは、神祇伯の屋敷を出てから折々に私の頭をかすめるようになった思考である。悪だくみが渦巻く大副の屋敷の邪な空気が、私の気力を奪おうとしているのかもしれない。あるいは私を監督する人のいない束の間の自由に羽を伸ばしすぎているのだろう。はあー、なんていうのだったっけ。栩栩然として浮世の男なり。いえ、私は男ではないし、ひらひら舞う蝶でもない。
こういう世間の誘惑に負けそうになっていることこそが逆境である。もうひと踏ん張りだ。頑張るのよ、滝石。もとい遠の君。負けるな、私。さ、早く眠るのよ、私。夜遅くなると余計なことばかり考えて、しっかりした判断ができなくなるのだから。
翌日になった。さてと、本日も滝石として立派にふるまいつつ、滝石と遠の君、二人分の役目を全うすべく働こう。
床下、天井裏といった、臭い人物でも入り込める場所はすでに探索済みだ。天井裏はもしかすると見落としがあるかもしれないが、ざっと探った感じではなかった。蛇と鼠がわんさかいたのでさらっと探索して終わってしまったのだ。もう行きたくないので、そこにはないことを祈るしかない。あとは畳の下などといった調度に紛れ込ませるのみで、これも芋ほり人の出る幕はあまりない。芋ほり人が怪しまれずにできることってあまりないのよ、神祇伯はそこのところをきちんとわかっていないんじゃなかろうか。もっとも、神祇伯が私のことをあてにしている素振りもなく、ここに来てから特に進捗をうかがうでもなくなしのつぶてである。私がここで早速正体がばれてつるし上げられているとか、あるいは女であることがばれてむごい目にあっているとか、風邪をひいているとか、そういう可能性だってあるのにも関わらず。あの人は何を考えているのだろうか、それとも何も考えていなくてただのんきなのか、まったくの謎である。
とにかく、いまいち頼りにならない神祇伯であるからこそ、私が頑張らねばならないのである。諦めている場合ではない。
呪詛状、呪詛状、と心に唱えながら過ごしていると、その日の昼頃、ようやくそれっぽいものが見つかった。それは台盤所あたりで何か食べ物がもらえないかとうろうろしていたときのことだった。こう言うととても卑しく聞こえて嫌なのだが、このごろの私はいつだってお腹を空かせている。きっとこれまで大した運動もせずに生きてきたのが、ここに来て朝から晩まで牛馬のごとく働かされ、体が一気に目覚めてしまったのだろう。
もちろん、武士は食わねど高楊枝、私はあからさまに口で空腹は訴えないものの、いつも作業をしながら盛大にお腹を鳴らしている。そうすると、人々はとっておきのお菓子やおつまみといった、とてもおいしいものを恵んでくれるのだ。大副はけしからんやつだが、大副邸にいる人たちは心に神仏を抱えている。
だがあまり飽食に甘んじては罰が当たるかもしれないので、私は台盤所で捨てようとしている余った食材をもらって、それを食べている。食べ物を救うことになるし、甘いものを食べるよりは太らないのではなかろうか。そうそう、これも最近訪れた変化だが、胸のあたりが膨らみを持ってきて、つい最近まで男として生きてきた私としては何やら決まりが悪いのだ。お腹は減るのでいろいろと口に入れていたいが、日々肉付いていく体の変形は止めたい、飽食は戒むべきだが、できれば栄養があって、体に良くておいしいものを取り入れたい、私は要求が多いのである。
すっかり話が逸れた。さて、呪詛状だが、その台盤所から見える、北の対の屋の柱の上の方に貼られていた。何と書いてあるのかは達筆すぎて読めないが、何やら不穏な空気をまとっているのは、元神子の私にはわかることである。まさか呪詛状が衆目を集める場所に貼ってあるとは考えにくいが、もしかすると敢えて堂々とそこに貼り付けることで、うさん臭さをはぐらかそうとしているのかもしれない。やるね、大副。私だって、もしもいけないものを隠すとしたらそういう大胆な手段をとるかもしれない。
そこでとりあえずその呪詛状を検分しようと、私は掃除ということで北の対の屋のその柱に近づくことにした。
「まったく、どうしてそのようなところに泥がはねるのじゃ」
北の対にはあまり身分の高くない女が住んでいるという。いわゆる、大副の愛人である。愛人がいるくせに西の対にも中の君を置いて、そっちにも手をだすなんて、どんな色男気取りなのだ、あのかぼちゃ男は。その愛人の侍女、だいぶんお年寄りの方が出てきて、私の作業を見守っている。
「幾多郎君が泥団子を投げて遊んでいますから、流れ玉が当たったのかもしれませんな」
私はさりげなく言っておいた。
幾多郎というのは、大副の愛人の長男で生意気で意地悪で指の力が強い、鼻垂らしの悪童である。齢八歳とのことだが、すれ違いざまに人の背中を木の棒で思い切り叩くわ、履物を隠すわ、所かまわずつねってくるわ、てんでしつけがなっていないのである。ただいま私の体には、この小僧につけられた青あざが四つ、この小僧から逃れるため藪に入ってじっと隠れていたときにできた虫刺されが二十一、痛々し気に刻まれている。
幾多郎には先日、遊びを装って泥の団子を投げつけておいた。すると案の定、この小僧は以降私を見かけるたびに泥団子を投げつけてくるようになった。しゃらくさいが、こちらの思うつぼである。実のところはこの柱は私が泥団子を投げつけて汚しておいたのだが、幾多郎のせいにしておこうと思ってあらかじめそんな風に泥団子投げを仕込んでおいたのである。すべてはお役目のため、私は小僧にいじめられながらも着々と準備を怠らないのである。
「幾多郎君も、そんなことばかりして。一度きちんとお方様に言っていただかねばならぬの」
「はて、言っただけで足りますかな。なんといっても、男の子ですからね」
「じゃ、どうするのじゃ」
「それはまあ、仕置きとして真っ暗で気持ちの悪い場所に閉じ込めるとか、尻を二十回くらい叩くとかしないと、治りませんよ、ああいった子供の性分は」
「痴れ者が。そこいらの童ではなし、大副様のお子じゃぞ。そんな乱暴なしつけができるか。お前もしや、下人風情が、真弓様のご出自を軽んじて、そんなことを言いおるのか」
真弓様とは、幾多郎の母親である。この北の対にまだ若いが枝ぶりのをかしい檀弓の木があるので、そう呼んでいる。
「滅相もない。しかし、世によく聞くことでは、人の上に立つ者になるからこそ、きちんとしつけられ、ときに痛みを知るべきだと。ちょうど先日も野良で犬を追っていました時にそのような話を耳にして、はっと胸を突かれたのです。確かに、それくらいの荒療治で道を教え込まなければ、本宅の太郎坊様にはかないませんからね。いえ、口はばったいことを申し上げました」
「野良で犬を追うなど、童でもなしに。しかもどうやったら犬を追っていてそんな話が耳に入るのだ。大方、さぼって昼寝でもしていたのであろう。しかし今、太郎坊様と言ったな」
「ふふふ。本宅では、大副様の真の後継ぎになんなんとするお子様に、それはそれは厳しいご教育をお授けしていると聞き及んでおります」
「ほう。太郎坊様が厳しくご教育されていると」
「何といってもご嫡男でいらっしゃいますからな。しかしながら、少々乱暴者といえども、度量で言えば幾多郎君が一番と、大殿様はお考えになっているとか。乱暴者のままではどうしようもありますまいが、お根性が入れ替わったら、まさに幾多郎君こそが後継ぎになるやもしれませんな」
「そうかそうか。滝石は、若いのにしっかりした考えを持っているの。本当に、そうかもしれん。やはり幾多郎様も厳しくお育てになった方がいいと、お方様に申し上げてみるかの」
「いっそ、尻がちぎれ飛ぶくらい容赦なく叩いてください」
いひひ。あいつめ、少し思い知るがいい。
女はほっほっ、と笑うと、私のうなじを骨ばった指でそっとなぞった。むむ、これはまた、滝石の色男効果であろうか。
「若いのぅ、ほっほ」
続いて飛んでくる指先を避けるため、私は急いで柱に腕を回すと、えっちらおっちらとよじ登って行った。それから少し離れたところで油を売っている丸まろを大声で呼び、箒を手渡してもらう。上から盛大に埃を飛び散らかさせると、老女はさっさと母屋に退散していった。
蜘蛛の巣を払い、こびりついた泥を拭きながらそっとその札をはがそうとした。が、丁寧に糊付けされていて、はがれそうにない。少し力を入れて引っ張ったところ、端の方が破れてしまい、大いに慌てた。なんか祟りなどがあったら嫌だな。
慌てたので、私は柱の上で重心を失ってしまった。かろうじて柱にとりついて頭からの転落は避けたが、結構な勢いで柱を滑り落ちていった。
だが思っていたより衝撃は少なく済んだ。
運のいいことに、ちょうど下に丸まろがいたのだ。この男が下敷きとなってくれたので、衝撃が随分和らいだ。ここにきて丸まろの強運が私に回ってきたのかもしれない。
「助かったよ、ありがとう」
「重い!」
まだもう少し札を観察したいので、私は再度柱にとりついて登ろうとした。すると尻の下の丸まろが、私の足を抑える。そして危なっかしくて見てられないから、自分が登ると言い出した。
「なんだぁ急に?優しくしてもこの芋のつるはあげないよ」
「いらん、そんなもん」
「うそだよ。一本はあげるよ。おいしいよ」
「いらねぇったら。それより俺の上からどけ。重い」
「重い重いって、ありがたく思いなよ。このおごれる百骸九竅を一身に受けて」
「おごれる百骸だと?」
「百の骨と九つの穴。目、耳、鼻……。あれ、十かな?いやややや、九だ。つまり体のことさ」
「わがままバディってこと?骨を二百に砕かれたくなければ早くどけ」
「じゃあさ、あの上の方にあるお札、はがしてくれないか?」
「お札?」
「さっきあれもきれいに剥がしといてって、あのお婆さんが言ってたんだ」
丸まろはうさん臭そうにお札を見上げてから、特に何も言わないままするすると柱を登っていった。なんと、身ごなしが軽いではないか。
「足の裏が湿ってるから登りやすいんだな。顔つきからして油足っぽそうだと思ってたんだ。おい、破らないようにしろよ」
私が言ったか言わないかのとき、紙の破ける音がして、切れ端がはらはらと空しく目の前を落ちていった。
「ちょっと!丁寧にやれよ」
「いけね。油足が滑って手元が狂った」
丸まろはさっと降りてくると、細かく千切れたお札の残骸と蜘蛛の巣だらけの箒をこちらに投げてよこした。
「な、なんてことを!」
「破いちゃった。めんごめんご」
「大副様の大切なお札かもしれんのに。なんてこった」
「大切なもんなら、人頼みにしないで自分できちんと始末をつけねばならんよ」
「頼んでないのにお前が勝手に登ったんじゃないか」
「お前は人にものを頼む態度がなってない」
「だから頼んでないったら。あーあ、もう」
破れた切れ端を寄せ集めて知識を総動員して読んでみると、どうも呪詛状ではないようだ。むしろ呪いの力が及ばないようにしている、魔除けの札のようだった。きっと大副はこれまでにも後ろ暗いことをし、恨みもそれなりに買っているのだろう。こういうお札は神職または仏道に帰依する者、あるいは陰陽師などにお願いして書いて何等かの祈祷などをしてもらった際に受け取るものだ。祈祷については結構なお金を積んで依頼するものなので、このお札が破れたことが大副に露見した場合、私にはお咎めがあるだろう。大副別邸を解雇される可能性もある。解雇されたら今回の潜入任務を棄権せざるを得ず、梅太郎の命も救うことはできない。奴は呪われて死ぬ。
「たかが紙だろ、捨てといてやるよ」
丸まろは無造作にお札をわしづかみにして、懐に突っ込んだ。もはやくしゃくしゃである。
「なんてことだ」
私は再びそう言うと頭を抱えたが、丸まろはさっさと簀子縁を降りて詰所へと戻っていく。
とにかくここはひとまずとんずらして、このお札についてはしらばっくれるしかない。後のことは、おいおい考えよう。
大体、建物の中で隠し場所と言ったら塗籠くらいしかないが、主人の塗籠にあるものといえば貴重品、お宝、見られてはいけないもの、と決まっていて、盗人だったらまずここを狙う。そんなところに隠すだろうか。隠したとして、盗人ほどの技量もない一介の芋ほり人風情が入りこめる場所ではない。私は毎日汗をかいているので、遠くからでも臭うのだ。少しでも近づこうものならたちまち気が付かれてしまう。
それ以前に、本当にこの別宅に呪詛状があるのだろうか。本宅や、どこそこの寺に預けているということはなかろうか。
もういいではないか。せっかく自由を楽しめる機会を与えてもらったのだから、婚儀のお役目や梅太郎の命などという、持ち重りのするものはすべて忘れ、このままひっそり一人の男として生きていけば。鑑みるに、私はすでに励み尽くしたと言えるのではないか。逆境もあったが、一途に祈り信じてきた。そうした生き方の仕上げとしてアメノマルツチ様へ身を捧げようとして受け入れてもらえなかった。それでもあきらめず、もう一度この身を世のため人と人間のために尽くそうとしたが、失敗した。いや、しつつある。
梅太郎は残念だが、そういうことだ。娑婆に出てきてわかったが、どこの誰が燃えるほどの信仰に身を投じているか。荒ぶるまでの信仰がどこに必要か。誰が世のため人のためを第一義として生きているのか。自分の幸せを追求して生きる、その際に世間様には多少ご迷惑をおかけすることもあるかもしれない、でもそこはお互い様、悪かったからあなたのためにもちょっと祈っとくね、とこんな感じではないのか。
私だって少しは悪いことをしてみたい。打たれたら思い切り打ち返し、盗られたら取り返したい。たくさんお金を使ってみたい。恋をしてみたい。体に悪いものを今後の健康に気兼ねなくたらふく食べてみたい。世界の均衡を保つとかなんとかを忘れ、自由に生きてみたい。
例えばはす向かいに住んでいる信心深いお婆さん。気持ちのいい小屋にお爺さんと二人で暮らしている。三人の娘はみな結婚して、巣立っていった。特に三番目の娘さんは晩婚で、先月ようやく嫁入りした。
娘さんがいなくなって淋しいですかと尋ねたところ、年を取って一つ一つの仕事をするのが遅くなったので、一日中家事やら内職、お寺参りに忙しく、あまり寂しがっている暇はないという。親切で、神仏とともに穏やかに生きている感じがする。ところがつい先日、この三番目の娘さんが女性ならではの業病に倒れ、床についたという。男の姿をしている私にもお婆さんは病の様子をつぶさに教えてくれながら、これまでの仕事に加え娘さんのお見舞いも精力的にこなしている。
私が出勤や帰宅の際に道を通るときに声をかけてくれるのだが、長話となることもしばしばだ。仕事に遅刻するので、どのように話を切り上げたら失礼にならないのか模索中である。
「さて、もうそろそろ行かなくては」
「あら、そうですね。滝石さんは忙しいのに、いつも長話になってごめんなさいね。わたしみたいなおばあちゃんは一日中家にいるものだから、人を見るとついおしゃべりしたくなっちゃうの」
「いえいえ、家にいるどころか、しょっちゅうお出かけなさっているのをお見掛けしております。では」
「年をとったからね、毎日は出かけられないの。明日はゆっくりお休みするのよ。でも今日はこれから市場に行って、油を買うの」
「はあ、東市へですか?結構距離がありますけれど、荷物が重たくなるのに大丈夫でしょうか。明日だったら手伝えますよ。今日はもう仕事にいかなけりゃですけれど」
「まあありがとう。優しいわね。東市なんてもう何年も行ってないわ。わたしが行くのはすぐそこの市場よ、行ったことないの?そうか、昼間はいないから知らないのね。ついでに連れて行ってあげるわ」
「あ、今日はこれから仕事で」
「はい。今日は大丈夫よ。重いものは、市の子に家まで運んでもらうんですよ。ほら、この間雨のときに転んで痛めた肩があるから、重いものは持たないようにしているの。明日にする?あなたが明日空いてるなら」
「今日も市へ行って、明日も違う市へ行ってはお手間でしょう」
「滝石さんに行き方をを教えるだけですよ。手間なものですか」
「まだ肩も万全ではないのではないですか?」
「足は健康なの。もしも疲れたら、味噌玉を一つか二つ市の子に渡すと、歩くときに背中を押してくれるのよ。でもあんまり勢いよく押されるとまた転んじゃうから、ゆっくり押しなさい、と初めに言っとくのよ。昔は味噌玉一つで荷物も持ってくれたのに、最近は何でも高くなってね」
「そうですか。でも押してもらえるならいいですね。また体を悪くしたら大変ですからね」
「そうなの。あの時はひどかったわ。私が転んでも夫は耳が聞こえないものだから、さっさと歩いて行ってしまって」
「もう大分良くなったんですか」
こう聞いたらまた話が続くことがわかっているのに、聞かないといけないような気がしてついつい質問を重ねてしまい、遅刻して塩自に投げ飛ばされるのだ。
ちなみに、私の仮住まいは大副別邸に隣接する敷地に建つ長屋にあった。大副が使用人のために用意した長屋だが、実際に大副邸に勤めるのは私だけであった。私の住んでいる部屋のちょうど裏側に女の人が住んでいた。ご亭主と子供に先立たれ、自身も病気でふさぎ込んでいる人だ。朝ちょこっと様子を覗いて帰りにまた覗くと、同じ姿勢で寝ている。ひょっとしたら死んでしまったのかも、と慌てて近づくと、乾いた目でこちらを見る。この視線に毎回背筋が冷えるような思いをする。この人は例のはす向かいのお婆さんがせっせと食べ物やら薬草やらを差し入れてくれるのを、大してありがたがる素振りもなく受け取っている。そして夜になると、私の部屋には聞こえてくるのだ。彼女が神仏を恨み、はす向かいのお婆さんや近所の人々、私も含まれるが、とにかくすべての人を呪う声と、むしゃむしゃと差し入れの食事を咀嚼する音が。そしておそらくその音が聞こえているのであろう、私の長屋の斜め裏、つまりこのかわいそうな女性の隣に住んでいる、これまた信心深い貧乏なおばさんが、隣人に罰が当たらないようにと神仏に祈る声も聞こえてくる。
つまり何が言いたかったのかというと、みんなそれぞれの信仰を持ちながら、悲喜こもごも、自分の人生を歩んでいる。自分の生き方を返上してまで神仏に身を捧げず、自分の幸せを追求しつつ、自発的に祈りながら生きる。思った通りに生きていけない場合はこれを自発的に呪う、こういうのが普通である。他者から、祈りなさい、神仏に身を捧げなさい、そういうふうに生まれついたのだから、と無理無理押し付けられるものではないのだ。
しかし今私は、上記のようにつらつらと考えてみて、やはり今まで通りの道を進もう、と改めて思った。じゃあ何だったの、今の考察は、ということになるけれども、身の回りにいるこういった人々は、なんと皆けなげなことだろう。儚く生き、報われることもあれば報われぬこともある。
うむ。我々のいる世間や自然は、かくも険しくも美しい。咲き誇る桜にまばゆい日差し、秋の夕暮れ。神さびて灰色がかった神殿から還俗し、目に映るものごとの輪郭は極彩色に縁どられているようじゃないか。こういった美しいもののために私にできるもっとも大きな貢献といえば、夫婦御供となり天下泰平を祈ることだ。大きな役回りを頂いて、大変結構なことである。私は自分の考えにすっかり満足して、少しばかり目頭を熱くした。夜は感傷的になっていかん。
神仏を忘れて欲望の向くままに生きてみたいというのは、神祇伯の屋敷を出てから折々に私の頭をかすめるようになった思考である。悪だくみが渦巻く大副の屋敷の邪な空気が、私の気力を奪おうとしているのかもしれない。あるいは私を監督する人のいない束の間の自由に羽を伸ばしすぎているのだろう。はあー、なんていうのだったっけ。栩栩然として浮世の男なり。いえ、私は男ではないし、ひらひら舞う蝶でもない。
こういう世間の誘惑に負けそうになっていることこそが逆境である。もうひと踏ん張りだ。頑張るのよ、滝石。もとい遠の君。負けるな、私。さ、早く眠るのよ、私。夜遅くなると余計なことばかり考えて、しっかりした判断ができなくなるのだから。
翌日になった。さてと、本日も滝石として立派にふるまいつつ、滝石と遠の君、二人分の役目を全うすべく働こう。
床下、天井裏といった、臭い人物でも入り込める場所はすでに探索済みだ。天井裏はもしかすると見落としがあるかもしれないが、ざっと探った感じではなかった。蛇と鼠がわんさかいたのでさらっと探索して終わってしまったのだ。もう行きたくないので、そこにはないことを祈るしかない。あとは畳の下などといった調度に紛れ込ませるのみで、これも芋ほり人の出る幕はあまりない。芋ほり人が怪しまれずにできることってあまりないのよ、神祇伯はそこのところをきちんとわかっていないんじゃなかろうか。もっとも、神祇伯が私のことをあてにしている素振りもなく、ここに来てから特に進捗をうかがうでもなくなしのつぶてである。私がここで早速正体がばれてつるし上げられているとか、あるいは女であることがばれてむごい目にあっているとか、風邪をひいているとか、そういう可能性だってあるのにも関わらず。あの人は何を考えているのだろうか、それとも何も考えていなくてただのんきなのか、まったくの謎である。
とにかく、いまいち頼りにならない神祇伯であるからこそ、私が頑張らねばならないのである。諦めている場合ではない。
呪詛状、呪詛状、と心に唱えながら過ごしていると、その日の昼頃、ようやくそれっぽいものが見つかった。それは台盤所あたりで何か食べ物がもらえないかとうろうろしていたときのことだった。こう言うととても卑しく聞こえて嫌なのだが、このごろの私はいつだってお腹を空かせている。きっとこれまで大した運動もせずに生きてきたのが、ここに来て朝から晩まで牛馬のごとく働かされ、体が一気に目覚めてしまったのだろう。
もちろん、武士は食わねど高楊枝、私はあからさまに口で空腹は訴えないものの、いつも作業をしながら盛大にお腹を鳴らしている。そうすると、人々はとっておきのお菓子やおつまみといった、とてもおいしいものを恵んでくれるのだ。大副はけしからんやつだが、大副邸にいる人たちは心に神仏を抱えている。
だがあまり飽食に甘んじては罰が当たるかもしれないので、私は台盤所で捨てようとしている余った食材をもらって、それを食べている。食べ物を救うことになるし、甘いものを食べるよりは太らないのではなかろうか。そうそう、これも最近訪れた変化だが、胸のあたりが膨らみを持ってきて、つい最近まで男として生きてきた私としては何やら決まりが悪いのだ。お腹は減るのでいろいろと口に入れていたいが、日々肉付いていく体の変形は止めたい、飽食は戒むべきだが、できれば栄養があって、体に良くておいしいものを取り入れたい、私は要求が多いのである。
すっかり話が逸れた。さて、呪詛状だが、その台盤所から見える、北の対の屋の柱の上の方に貼られていた。何と書いてあるのかは達筆すぎて読めないが、何やら不穏な空気をまとっているのは、元神子の私にはわかることである。まさか呪詛状が衆目を集める場所に貼ってあるとは考えにくいが、もしかすると敢えて堂々とそこに貼り付けることで、うさん臭さをはぐらかそうとしているのかもしれない。やるね、大副。私だって、もしもいけないものを隠すとしたらそういう大胆な手段をとるかもしれない。
そこでとりあえずその呪詛状を検分しようと、私は掃除ということで北の対の屋のその柱に近づくことにした。
「まったく、どうしてそのようなところに泥がはねるのじゃ」
北の対にはあまり身分の高くない女が住んでいるという。いわゆる、大副の愛人である。愛人がいるくせに西の対にも中の君を置いて、そっちにも手をだすなんて、どんな色男気取りなのだ、あのかぼちゃ男は。その愛人の侍女、だいぶんお年寄りの方が出てきて、私の作業を見守っている。
「幾多郎君が泥団子を投げて遊んでいますから、流れ玉が当たったのかもしれませんな」
私はさりげなく言っておいた。
幾多郎というのは、大副の愛人の長男で生意気で意地悪で指の力が強い、鼻垂らしの悪童である。齢八歳とのことだが、すれ違いざまに人の背中を木の棒で思い切り叩くわ、履物を隠すわ、所かまわずつねってくるわ、てんでしつけがなっていないのである。ただいま私の体には、この小僧につけられた青あざが四つ、この小僧から逃れるため藪に入ってじっと隠れていたときにできた虫刺されが二十一、痛々し気に刻まれている。
幾多郎には先日、遊びを装って泥の団子を投げつけておいた。すると案の定、この小僧は以降私を見かけるたびに泥団子を投げつけてくるようになった。しゃらくさいが、こちらの思うつぼである。実のところはこの柱は私が泥団子を投げつけて汚しておいたのだが、幾多郎のせいにしておこうと思ってあらかじめそんな風に泥団子投げを仕込んでおいたのである。すべてはお役目のため、私は小僧にいじめられながらも着々と準備を怠らないのである。
「幾多郎君も、そんなことばかりして。一度きちんとお方様に言っていただかねばならぬの」
「はて、言っただけで足りますかな。なんといっても、男の子ですからね」
「じゃ、どうするのじゃ」
「それはまあ、仕置きとして真っ暗で気持ちの悪い場所に閉じ込めるとか、尻を二十回くらい叩くとかしないと、治りませんよ、ああいった子供の性分は」
「痴れ者が。そこいらの童ではなし、大副様のお子じゃぞ。そんな乱暴なしつけができるか。お前もしや、下人風情が、真弓様のご出自を軽んじて、そんなことを言いおるのか」
真弓様とは、幾多郎の母親である。この北の対にまだ若いが枝ぶりのをかしい檀弓の木があるので、そう呼んでいる。
「滅相もない。しかし、世によく聞くことでは、人の上に立つ者になるからこそ、きちんとしつけられ、ときに痛みを知るべきだと。ちょうど先日も野良で犬を追っていました時にそのような話を耳にして、はっと胸を突かれたのです。確かに、それくらいの荒療治で道を教え込まなければ、本宅の太郎坊様にはかないませんからね。いえ、口はばったいことを申し上げました」
「野良で犬を追うなど、童でもなしに。しかもどうやったら犬を追っていてそんな話が耳に入るのだ。大方、さぼって昼寝でもしていたのであろう。しかし今、太郎坊様と言ったな」
「ふふふ。本宅では、大副様の真の後継ぎになんなんとするお子様に、それはそれは厳しいご教育をお授けしていると聞き及んでおります」
「ほう。太郎坊様が厳しくご教育されていると」
「何といってもご嫡男でいらっしゃいますからな。しかしながら、少々乱暴者といえども、度量で言えば幾多郎君が一番と、大殿様はお考えになっているとか。乱暴者のままではどうしようもありますまいが、お根性が入れ替わったら、まさに幾多郎君こそが後継ぎになるやもしれませんな」
「そうかそうか。滝石は、若いのにしっかりした考えを持っているの。本当に、そうかもしれん。やはり幾多郎様も厳しくお育てになった方がいいと、お方様に申し上げてみるかの」
「いっそ、尻がちぎれ飛ぶくらい容赦なく叩いてください」
いひひ。あいつめ、少し思い知るがいい。
女はほっほっ、と笑うと、私のうなじを骨ばった指でそっとなぞった。むむ、これはまた、滝石の色男効果であろうか。
「若いのぅ、ほっほ」
続いて飛んでくる指先を避けるため、私は急いで柱に腕を回すと、えっちらおっちらとよじ登って行った。それから少し離れたところで油を売っている丸まろを大声で呼び、箒を手渡してもらう。上から盛大に埃を飛び散らかさせると、老女はさっさと母屋に退散していった。
蜘蛛の巣を払い、こびりついた泥を拭きながらそっとその札をはがそうとした。が、丁寧に糊付けされていて、はがれそうにない。少し力を入れて引っ張ったところ、端の方が破れてしまい、大いに慌てた。なんか祟りなどがあったら嫌だな。
慌てたので、私は柱の上で重心を失ってしまった。かろうじて柱にとりついて頭からの転落は避けたが、結構な勢いで柱を滑り落ちていった。
だが思っていたより衝撃は少なく済んだ。
運のいいことに、ちょうど下に丸まろがいたのだ。この男が下敷きとなってくれたので、衝撃が随分和らいだ。ここにきて丸まろの強運が私に回ってきたのかもしれない。
「助かったよ、ありがとう」
「重い!」
まだもう少し札を観察したいので、私は再度柱にとりついて登ろうとした。すると尻の下の丸まろが、私の足を抑える。そして危なっかしくて見てられないから、自分が登ると言い出した。
「なんだぁ急に?優しくしてもこの芋のつるはあげないよ」
「いらん、そんなもん」
「うそだよ。一本はあげるよ。おいしいよ」
「いらねぇったら。それより俺の上からどけ。重い」
「重い重いって、ありがたく思いなよ。このおごれる百骸九竅を一身に受けて」
「おごれる百骸だと?」
「百の骨と九つの穴。目、耳、鼻……。あれ、十かな?いやややや、九だ。つまり体のことさ」
「わがままバディってこと?骨を二百に砕かれたくなければ早くどけ」
「じゃあさ、あの上の方にあるお札、はがしてくれないか?」
「お札?」
「さっきあれもきれいに剥がしといてって、あのお婆さんが言ってたんだ」
丸まろはうさん臭そうにお札を見上げてから、特に何も言わないままするすると柱を登っていった。なんと、身ごなしが軽いではないか。
「足の裏が湿ってるから登りやすいんだな。顔つきからして油足っぽそうだと思ってたんだ。おい、破らないようにしろよ」
私が言ったか言わないかのとき、紙の破ける音がして、切れ端がはらはらと空しく目の前を落ちていった。
「ちょっと!丁寧にやれよ」
「いけね。油足が滑って手元が狂った」
丸まろはさっと降りてくると、細かく千切れたお札の残骸と蜘蛛の巣だらけの箒をこちらに投げてよこした。
「な、なんてことを!」
「破いちゃった。めんごめんご」
「大副様の大切なお札かもしれんのに。なんてこった」
「大切なもんなら、人頼みにしないで自分できちんと始末をつけねばならんよ」
「頼んでないのにお前が勝手に登ったんじゃないか」
「お前は人にものを頼む態度がなってない」
「だから頼んでないったら。あーあ、もう」
破れた切れ端を寄せ集めて知識を総動員して読んでみると、どうも呪詛状ではないようだ。むしろ呪いの力が及ばないようにしている、魔除けの札のようだった。きっと大副はこれまでにも後ろ暗いことをし、恨みもそれなりに買っているのだろう。こういうお札は神職または仏道に帰依する者、あるいは陰陽師などにお願いして書いて何等かの祈祷などをしてもらった際に受け取るものだ。祈祷については結構なお金を積んで依頼するものなので、このお札が破れたことが大副に露見した場合、私にはお咎めがあるだろう。大副別邸を解雇される可能性もある。解雇されたら今回の潜入任務を棄権せざるを得ず、梅太郎の命も救うことはできない。奴は呪われて死ぬ。
「たかが紙だろ、捨てといてやるよ」
丸まろは無造作にお札をわしづかみにして、懐に突っ込んだ。もはやくしゃくしゃである。
「なんてことだ」
私は再びそう言うと頭を抱えたが、丸まろはさっさと簀子縁を降りて詰所へと戻っていく。
とにかくここはひとまずとんずらして、このお札についてはしらばっくれるしかない。後のことは、おいおい考えよう。
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