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第1章 信じること、信じたくないこと

5話 ココア

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 「君は、何があったの?」
「へ?」

ジョンさんにここでの生活の仕方について教えてもらって、一息ついた時にジョンさんに声を掛けられた。何があったというのはどういうことだろうか。

「ここに流れてくる異国人っていうのはさ、心に傷を負った人って決まってるんだ。だから、もし良かったら教えてくれないかなーって。人に話したらどうでも良くなるかもしれないしさ」

 そうなんだ、と思ったのと同時に、ジョンさんも心に傷を負ってここに来たということになることに気づく。ジョンさん、今はこんなに明るいのに、私みたいに心暗い事があったのかと思うと少し切なくなる。

 そんなことを考えていると突然、身体中を誰かに掴まれたような感覚に陥る。もちろん実際に誰かに掴まれたということはない。しかし不気味さを相まって酷く気持ちが悪い。体の力が抜けて膝をついてしまう。
 が、しばらくしたら治まった。恐怖を感じていたので掴まれた感覚は治まっても心臓はバクバク音を立てる。

 「どうかした?」
「あ、大丈夫です。気のせいだったと思います」
 気のせいなんて嘘だ。掴まれた感覚は今でも残っている。ただ、その誰かはいなかったのだから説明しようがない。ほぼ初対面の相手に話すようなことでもない。けど、動悸は治まらない。
「そう?そうは見えないけど……」

 目の前にココアが入ったマグカップが差し出される。湯気が立っていてとても美味しそうだ。ココア好きなんだよね。ジョンさんにお礼を言いながら受け取る。

「温かい飲み物を飲んでいるとさ、ほっとしない?」
「しますね」
一口飲んで、動悸が治まっていたことに気づく。この国にも、ココアがあるんだ。そんなことがとても嬉しい。私が知っていることがあることの安心感。それが更に心を温めてくれる気がした。
 ジョンさんはもう一杯作っていたらしく、私と一緒にココアを飲んでいた。ココアを口にして微笑んで「美味しいね」と語りかけてきた。私も微笑み返して頷く。

「僕さ、故郷に妻がいたんだ。僕が思っていることを言わなくても理解してくれて、落ち込んでいる時は何も言わずココアを出してくれて。あ、ココアは僕と妻の好物なんだけどね」
「はい……」

 どこか遠くを見つめながらジョンさんは語り出した。とても優しい目をしていて、とても奥さんのことを愛していることがわかる。私は掛けてあげられる言葉なんて何も無くて、ただ返事しか出来ない。

「妻は体が弱くてね。けど、つらくてもつらいっていう表情は全く見せない人でね。情けないことに僕はそんなこと全く気づけなくて」
「はい」
「気づいた時には遅かったんだ。ある日突然倒れて、余命は1年だって」
「はい」
「その日から僕は、妻が行きたいって言ったところに連れてって行ったんだ」
「はい」

 ジョンさんの目から涙が溢れる。その横顔を見て、この人はとても美しい人だと思った。身も心も。気づいたら私も涙を流していた。

「イタリアにイギリスに、アメリカや日本にだって行ったよ」
「はい」
「けど、余命1年って言われた命は半年で尽きたんだ。僕が連れ回したからかな」
「……」
「あいつ、最期に『あなたとずっといられて楽しかった。ありがとう』って……」
「はい……」
「とんでもなく後悔したよ。連れ回さなかったらもっと長生きできたんじゃないかって。他にもずっと一緒に居られる方法があったんじゃないかって」
「そんなこと……」
「あるんだ。少なくとも、僕はそう思っていたからここに居るんだ」
「そう、だったんですね」
「うん。君は妻に少し似てるよ」
 そう言って笑って、ジョンさんは語るのを終えた。その笑顔はまるで後悔なんて全くないようで、それでいて私を見て懐かしむような。

 涙がキラリと光った。ジョンさんはこの国に来て幸せそうで、私のこの国に対する不安を拭っていく。……もしかしてそのために話したのだろうか。辛いであろうことも。

「私も好きですよ、ココア」
「そっか」

 私たちはお互いに笑った。
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