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本編

第5話_爪立てはじめる日常-4

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「エイト先輩の傍にいるのが…僕じゃ、だめですか?」
急なリンの物言いに、影斗エイトは驚いた風に顔を起こし、彼の方へ向く。目が合った鱗の黒い瞳は、まっすぐ影斗を見つめていた。
「きっと、今の先輩の気持ちを一番理解できるのは僕だと思います。先輩がこうして、心の中にしまっておいた気持ちを話すことができたのが、何よりの証拠じゃないですか…?」
「…!」
「僕は、エイト先輩の想いを受け流すような…ないがしろにするようなことはしません。先輩が下さるのと同じくらい、僕も想いを伝えます。…先輩が欲しいと思ってる要求にも、すべて応えてみせます」
ふくよかな紅い口元が、彼へ向けて艶やかに形を変える。表情を固めたまま注視する影斗の眼前で、鱗は静かな口調の中に力強さを滲ませ、言葉を紡ぐ。
「…思いの通わない相手じゃなくて…僕にしておきませんか?」
鱗はゆっくりと小首を傾げながら、影斗へ上目遣いに視線を送った。
2人は、一時黙って見合っていた。
「――…悪い」
しばしの沈黙の後、影斗は低く声を漏らす。
「お前の気持ちには応えられない。お前としちゃ、まだ何も始まってねぇのにって思うかもしれねぇけど…、俺が駄目なんだよ」
そう呟くように言うと、依然見つめてくる鱗へはっきりと視線を返す。
「俺の気持ちが、動く気がしねぇんだ。俺が誰から言い寄られても、…逆にあっちが俺以外の誰かと付き合うことがあったとしても、今までもこれから先も、多分変わらねぇ。…これが、今の煮え切らねぇ関係を4年・・余り続けてきた俺が導き出した結論だ」
抑揚を抑えた、しかしどこか柔らかなトーンで、影斗の言葉は鱗へ向けて一つひとつ重ねられていった。
「……」
影斗の言葉を、鱗は時が止まったように表情を固まらせたまま、無言で受け止めていた。
「…ごめんなさい、突然」
やがて鱗の固まっていた口元が動き、瞬きもしなかった目がゆっくりと三日月形に緩んだ。
「先輩のお話を聞いて…僕も自分の想いを伝えたくなっただけなんです。さっきも言った通り、エイト先輩のお気持ちは僕にもよくわかります。だから…その寂しさを、僕が代わりに少しでも埋められたらって、思っちゃったんです」
「…鱗…」
「先輩の負担になるだけでしたよね…、伝えられただけで満足です」
「…俺の方こそ…悪かった、色々愚痴ぐち言っちまって。お前の気持ちは嬉しかったよ。…ありがとな」
頬を染め、恥ずかしげに笑う鱗に、影斗も表情を和らげてみせた。
「お前なら女でも男でも、すぐいい相手見つけられるぜ。この俺が少し動揺したくらいだからな」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
彼の言葉に満足気に息をつくと、影斗はその黒髪をくしゃっと撫でてやった。そしてスマホを手に取り、蒼矢からの反応が無いことを確認してから胸ポケットへ戻して立ち上がる。
「――じゃ…俺そろそろ行くな」
「また会えますか?」
「おー。俺T大ここちょくちょく来てるし、お前がここに通ってる間は飽きるほど会うと思うぜ」
「嬉しいです…あっ」
シートに腰かけてエンジンをふかし、ヘルメットを被りかけた影斗へ、何事か思いついた鱗は走り寄る。
「? どした?」
「あのっ…失恋の思い出に、バイクのタンデムに乗せてくれませんか?」
「!」
頬を染め、無垢な笑みを浮かべながらふいに所望してきた鱗へ、影斗は少し目を見開いたが、すぐに済まなそうな面差しに変わる。
「…悪い。バイクには心に決めた奴しか乗せねぇって、買った時から通してんだ」
「…そうですか…」
簡単に断られた鱗は、徐々に素の表情に戻していくが、少し尖らせた唇がぷくりと動く。
「――じゃあ、なんで髙城タカシロ先輩は乗れるんですか?」
「…!」
その当然の質問に、影斗は顔を固まらせそうになったがすぐに内情を抑え込み、にやりと笑った。
「ああ…あいつはなんていうか、例外だよ。もう4年・・くらいの付き合いで、長いし。…それに、あいつん家の方に用があることも多いからな。ついでに乗せてやってるだけだよ」
「…そう、なんですね」
「おう。じゃ、またな。今度なんか奢ってやるよ」
ぽつりとした鱗の返しを聞くと、影斗はさらりと話を切り上げて手早くヘルメットを被り、颯爽と正面門から走り去っていった。
「……」
バイクがいなくなった空間を、鱗はその場からしばらく眺めていた。
能面のような表情から、下瞼が長い睫毛を押し上げるように歪む。紅い口元がぴくりと動き、僅かに覗いた歯が、下唇を巻き込むように潰す。
「……」
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