1ページ小説

ソラシ。

　希望の音が、美味しそうな匂いを連れてやって来る。
　絶望の中で、膝を抱えて泣いていたあの日の私は、そう思った。
　母の甲高い怒鳴り声と、酒臭い父の暴力。小学生だった私にとって、そんな毎日は怖くてしかたなかった。学校に行けば『安全な時間』が得られるけれど、殴られた次の日は登校もさせてもらえない。
　殴られて出来た痣を誰かが見つけるかもしれないからだ。
　痛みや恐怖で私が泣いても、両親の怒りが増すだけ。助けてくれる人なんていなかった。今にして思えば、誰かに助けてもらえるとも思っていなかったのだろう。次第に私は、泣くことすら忘れてしまった。
　もちろん、食事も満足に得られない。両親はほとんど毎日、私を置いて外で食事をしていた。腹を空かせた私は、新品同然のフライパンを眺めながら、調理していない袋麺を齧る。
　備蓄されている食品がない日は地獄だった。どうしようもない空腹感に、心が飲み込まれ、ただ体を丸めるしかなくなる。自分の膝を抱えていると、お腹が圧迫されて少しだけ空腹が紛れるのだ。
　家に食べるものもなく、両親が外に行ってしまったある日。私は地獄に耐えかねて、おぼつかない足取りで外に出た。周囲の家からは『幸せな夕食』の香りが漂ってくる。
「……いいなぁ」
　夕闇の中で見かける野良猫も、私より幸せそうな顔をしていた。
　疲れ果てた私は、小さな公園のベンチで座り込む。よほど酷い顔だったのか、公園を通りかかった見知らぬ老爺が声をかけてきた。
「嬢ちゃん、どうしたんだ」
「……なんでもない」
「なんでもないってことないだろ。ひどく痩せちまって、もしかして腹減ってんのか？」
「……」
「まぁ、生きてれば言えないことくらいあるわな」
　老爺はそう言ってから、公園を出て行った。両親の姿が頭に浮かび、老爺に助けを求められなかったことを後悔しながら、私はベンチで膝を抱える。
　しばらくそうしていると、公園内に妙な音が入ってきた。幼い私には聞き馴染みのない曲。単純な音階で構成されたラッパのような音だった。
　次第に公園内は美味しそうな匂いで溢れる。老爺が、赤い提灯を掲げた屋台を引いて私に近づいて来たのだ。
「出世払いでいいから、ラーメン食ってきな」
　優しい老爺の笑顔とチャルメラの音が、私に涙を思い出させてくれた。