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盛夏

記憶

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「――――えっ」

 大きな口を開き、静華を食らおうとした瞬間、強い光が放たれた。

「っ、や、弥狐君!?」

 目の前には、お札を片手に持っている弥狐の姿。
 お札からは神々しい光が放たれ、化け物を下がらせる。

 ジュワァァという音が聞こえる。
 化け物をよく見ると、黒い煙が立ち上り、溶けていた。

 逃げるように部屋から出て行こうとしたが、襖が開かれた瞬間に拳が繰り出され、大きな顔のはなっぷしをへし折られる。
 畳に倒れ込むと、弥狐がチャンスを逃すものかというように駆け出し、お札を額に張り付けた。

『ギャァァァァァァアアアアアア!!!!!』

 耳が痛くなるような程の悲痛の叫び声が辺りに響き、静華は耳を塞ぐ。
 だが、鼓膜が破れんばかりの叫び声は聞こえ続け、顔を歪め苦しむ。

 そんな時、誰かの手が耳を抑えている自身の手と重なった。
 瞬間、鼓膜を揺らす音が半分以上カットされた。

 安心していると、化け物はお札に吸い込まれるようにいなくなり、いつもの部屋の光景に戻る。
 息を切らしながら唖然としていると、後ろから低い妖艶な声が聞こえ、振り向いた。

『大丈夫かのぉ~、静華の少女や』

 後ろに立っていたのは、あやかしの長である九尾。
 狐面は顔の横に逸らしており、赤い瞳に静華の困惑の表情が映し出される。

 何が何やらわからず固まっていると、後ろから声をかけられ振り向いた。

『弥狐君…………』

 人間の姿に擬態している姿ではなく、あやかし姿の弥狐。
 朱色の瞳が冷たく光っており、静華は体を強張らせた。

『怖がらなくても大丈夫じゃよ。少々、戦闘後だから気が立っているだけじゃ。いつもと同じ、弥狐君じゃよ』

 静華の頭に乗っかるのは、暖かな手。
 優しく撫でられ、安心感を覚える。

 少しすると、弥狐も落ち着け始め、いつもの彼に戻った。

『怖がらせてしまったな、すまない』

「いや、私の方こそ。ありがとう、ございました」

 二人にお礼を言って、静華は流れ出る汗をグイッと拭った。

 元々汗でべたついていたため、気持ち悪い。
 今すぐにでもお風呂に入って全てを洗い流したい。

 そんな事を思っていると、一つの疑問が浮上した。

「そういえば、翔君とお母さんは大丈夫かな」

『それは問題ないぞ』

 すぐ、静華の疑問に九尾が答えた。
 何故かと問いかけるように見上げると、腕を組み教える。

『今回の件は、静華じゃから現れてしまった悪霊じゃ。我々、人外と接し過ぎた結果じゃな』

「それは、翔君も一緒なんじゃ…………」

 静華より、翔の方が弥狐と遊んでいる。
 もし、今の話が本当なのなら、翔も危ない。

『あのような悪霊が近寄るのは、人間の負の感情を感じ取ってなんじゃよ。じゃから、天真爛漫な翔の少年には寄り付かん。逆に浄化されちまうからのぉ』

 今の言葉に安堵の息を吐く。
 自然に入っていた力が抜け、その場にへたり込む。

 そんな静華の隣に、弥狐が移動した。

『怪我はないか?』

「う、うん、弥狐君と九尾さんのおかげで助かったよ。怪我もない、本当にありがとう」

 困惑気味に礼を言うと、弥狐は安心したように笑みを浮かべ『良かった』と、零す。

『それにしても、ここまで大きな悪霊を呼び寄せるとは……。これは、少々考えんといかんのぉ~』

 九尾が『うーん』と首を傾げ、考え込んでしまった。

 ――――何を考えているんだろう。

 待っていると、九尾が弥狐を見て悲し気に目を細めた。

『弥狐や、これからは人間と関わらん方が良いかもしれぬぞ』

「え、な、なんでですか!?」

 弥狐より先に反応したのは、意外にも静華だった。
 驚きの声を上げ、九尾を見上げる。

『わかりました。深く、関わり過ぎたという事ですね』

『あぁ、そうじゃ』

 弥狐がすぐに納得した事にも、静華は驚く。
 なんで納得したのか。なぜ、そんなことを言われないといけないのか。

 九尾が静華に近付くと、手を伸ばし頭へと乗せた。

『理由は一つ、我らの気配が人間についてしまったんじゃよ。そうなれば、人ならざるものが近寄り、今のような事が多く起きてしまう。それに、主は、人の負の感情を植えてしまっておる。悪霊が近づきやすくなり、危険じゃ。それなら、我らと共に行動しない方が良いのじゃよ』

「負の感情って、私は…………」

『負の感情とは、怒りや悲しみ、悩みなども負の感情に含まれる。主は、何か大きな悩みを抱えているじゃろう』

 九尾の赤い瞳に見られ、静華はこれ以上口を開くことが出来ない。
 なにか反論したいのに、図星を突かれてしまい、言葉を詰まらせる。

『悩みは、人間にとって失ってはいけない感情じゃ。じゃが、弱みでもある。悪霊は、弱みに付け込み、襲い掛かる。少しでも危険を減らすには、こうするしかないんじゃ。翔の少年には悪い事をするが、大丈夫じゃろう』

「な、何をするつもり、なんですか?」

『我らと関わった者の記憶をいじり、我らの記憶だけを取り除く』

 そんな事を言われ、静華の瞳は大きく開かれた。
 反論しようと口を開いた瞬間に、瞼が重くなり体から力が抜ける。

 ――――嫌だ、嫌だのに、抗えない。

 そのまま意識を失い、静華の倒れる体を、九尾は優しく支えた。

『――――行きましょうか』

『あぁ。じゃが、よく納得したのぉ。また、一人の生活に戻るんじゃよ?』

『問題ありません。元々、人間に縋るのが間違いだったのです。それに、一人ではないですよ』

 弥狐は、九尾と目を合わせず背中を向ける。
 そのまま、上に少し体を浮かせたかと思うと、一瞬のうちに姿を消した。

 残った九尾は、静華を布団に寝かせ、頭を一撫ですると、同じくその場から姿を消す。

 その場には、何事もなかったかのように何も残らず、静華の寝息だけが部屋の中に聞こえていた。
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