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本編
10 藤
しおりを挟む逃げられない密室でふたりきりになり、気分が最悪である。
「あの、いつも誘っていただいて悪いのですが用事があって」
「……あのさぁ」
にやついた顔をひっこめ、渡部は急に真顔になる。それがなんだかとても恐ろしくて、あやめは断るタイミングを間違ってしまったのだと気づいたが遅かった。
「それ嘘だろ。いつもいつも俺に恥かかせて楽しいわけ。お前みたいなやつ、俺がせっかく誘ってやってんのに断るとか頭おかしいんじゃねぇの?」
「っ、すみません、だけど本当に今日は無理なので……!」
エレベーターの扉が開き、逃げるようにして外に出た。ドッドッと恐怖に心臓が打ち付け、胃の中のものが全て出てしまいそうに気持ち悪い。
「待てって」
「きゃ……!」
会社のビルを出たとき、追いかけてきた渡部に腕を掴まれてしまう。ぞわりとした不快感に身体が硬直した。
この人は無理だ。生理的になんて生易しいものじゃない。もはや同じ人として見られない。
「は、はなして……」
「なんだろうな、すっげぇ腹立つ。無理やりにでも言うこと聞かせてやろうか?」
往来だからか小さな声でそんなことを言ってくる。その声も気持ち悪くてたまらない。
大声で助けを呼ぶべきなのに、このことが会社に露呈しても、自分に味方してくれる人はいないのではという考えが過り声が出ない。
泣きそうになりながら首を横に振った。
「あやめちゃん~? 浮気はないわぁ」
横から聞こえてきた声に、パチパチと目を瞬かせた。
見間違いじゃない。ヘラヘラと、あの夜と同じ調子でやってきたのは藤だった。
薄い色付きの丸眼鏡と、大きく空いたピアス。スタイルの良さを際立たせる黒いスキニーにラフなサンダルを合わせ、手足の爪には黒ネイル。
そしてオーバーサイズの白シャツに、ド派手なアニマル柄のパーカーを肩を抜いて着崩している。
そんな、どう見ても穏やかじゃない見た目の男が親しげにあやめの肩を抱いて、渡部はたじろいだ。
「なぁ、アンタずっとあやめちゃんのこと触ってるけど、それやめてくれへん?」
にこにこと軽い調子で話しているが、眼鏡の奥の瞳は少しも笑っていなかった。
渡部は顔を青くして、あやめから手を放す。すみません、と小さく呟きながら。
「お兄ちゃんごめんなぁ? あやめちゃん、今日俺と約束あんねん。なー?」
不穏な雰囲気をひっこめて、藤はあやめに笑いかける。あやめを安心させるようなその仕草に、ようやく深く息を吸うことができた。
あやめが藤の言葉に頷いたのを確認して、彼は「ほな」と渡部の肩へ手を乗せる。そして。
「お前さ。あやめに何かしたら一生女抱けねぇ体にしてやるから」
すれ違いざまに、藤は渡部にだけ聞こえるように低く告げる。
恐怖からか動けずにいる渡部を置き去りにして、あやめは藤が止めていたというタクシーへふたりで乗り込んだ。
しばらくの間車内は無言で、でも手は固く握られたままだった。
だが今日はまだ金曜。約束は月曜日だったはずなのに、急ぎだったという仕事はもう済んだのだろうか。そもそも勤め先なんて話題に出てはいなかったのに、どうして藤はあやめの居場所がわかったのだろう。
だが藤が現れなかったらと思うと恐ろしくて、握られた手のぬくもりに縋りたくなってしまう。
「……急にごめんな。あやめちゃんに早よ会いたくて、死ぬ気で仕事終わらせてきてん。びっくりさせたろう思て待ってたら、なんやもめてたから。無理やり連れてきたみたいになってもうたけど、このあと用事あった?」
「っ、いえ! もう帰るだけだったので……私も早く会いたいと思ってたので、嬉しいです」
恥じらいながらもそう微笑むと、藤は安心したようにシートへもたれかかった。
「よかったー! 行ったわええわ、先約あったらどないしょう思とってん。どっか食いに行くつもりやったけどもうそんな気分やなくなったし……俺の家でもええ?」
藤の家。
それが何を意味するのかつぶさに理解して、あやめは小さく頷いた。
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