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07 不安

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 鬼の形相でミミと共に書類を捌き、思ったよりも早く作業を終えることができた。
 外はすっかりと陽が落ちて、冷たい空気に背中が丸まってしまう。

 賢王と称えられる国王の施策と優秀な衛兵のおかげで、城下の治安は驚くほど良い。人通りも多く、明るく道を照らしてくれる街灯がいくつも並び、こうしてユフェたち女性だけでも堂々と徒歩で帰宅することができる。
 その中をふたりで急に発生した業務の愚痴を言い合い歩いている最中に、視界の端に煌めく金糸を捉えた。

「あれ……?」
「ん? あ、ユフェの旦那じゃない? なんか、もめてる?」

 城の門を出たところで、ユフェはふと足を止めた。
 少し先にある細い路地の入口。とっくに帰宅したと思っていたフレッドが、そこで誰かと話をしている。
 ……そしてその相手は、女性のようだった。

 はっきりと視界に映るふたりの姿に、一瞬で頭が真っ白になった。
 もしユフェを待ってくれていたのだとしたら、そんな逢引でもするように、こそこそと路地に隠れるような真似はしないだろうと思ったからだ。

(あ、逢引って、そんな)

 勝手に最低な状況を想像して、ユフェは指先から全身が冷たくなっていく。
 そんなことはあるはずないと笑おうとするのに、強張った表情筋はぴくりとも動かない。

「相手女じゃん。浮気……ではないだろうけど、ちょっと確認でもしておきましょうか」
「えぇっ!? そんな、ダメよ盗み聞きなんて」

 と言いながらも、面白がっているミミに手を引かれ、こっそりふたりに近づき、街路樹の陰から様子を窺った。
 フレッドが対峙している相手はユフェよりも小柄で、可愛らしく守ってあげたくなるような雰囲気の女性だった。

「ねぇ、だからもういいでしょ? フレッド、王都になんて行く気はないってずっと言ってたじゃない。早く帰ってきて。ね?」

 媚びるような甘ったるい声が鼻につく。
 瞳を潤ませて見上げられれば、どんな男でもコロッといってしまいそうだ。ただし、女性ウケはすこぶる悪そうでイラッとする。

「っは。なんで」
「だって、皆帰ってこないのかなって言ってるよ。ねぇどうしちゃったの? 今のあなた、全然フレッドらしくないよ」

 昔のほうがもっとかっこよかったと、女性はフレッドの腕を両手で掴む。が、すぐに鬱陶しそうに振りほどかれていた。
 嫌悪感を露わにして、フレッドは蔑むような視線を女性に向ける。

「皆って誰。適当なこと言いやがって。大体、俺の何でもない奴に帰ってこいだのなんだの言われたって迷惑でしかねぇわ」
「だって」
「向こうの同僚や連れには説明して、円満に移籍してんだよ。それをなに今更」
「だって……! ずっと好きだったんだもん。そんなの、諦めきれないよ」

 悲痛に響く女性の言葉に、ユフェの胸をもやもやとした形容しがたい不快感が襲う。

(フレッドは、私のなのに)

 毎日毎日機嫌よくユフェに引っ付きまわっていたから忘れてしまっていたが、フレッドはモテる。そして、彼女と出会う前のフレッドを、ユフェは知らない。それがひどくユフェの心をかき乱していた。
 それに目の前の女性に対するフレッドの態度は、随分と冷たく無愛想で、ユフェの知っている彼とは全く雰囲気が違う。そこに立っている彼は、本当にユフェの恋人なのだろうか。

「冗談だろう。もういいからとっとと帰れ。大体、俺には今彼女がいるから」
「な……! それこそ冗談でしょう?! どれだけ言い寄られても、誰とも付き合わなかったじゃん!」
「だからそれくらい本気なんだって。もういいだろ。二度と俺に話しかけんな」

 冷たく言い放ち、鋭く見下ろし睨みつけたフレッドが恐ろしかったのか、女性は泣きながら立ち去ってしまった。
 フレッドがきっぱりと恋人であるユフェの存在を公言してくれ、少しは安堵したが、それでも随分と衝撃的なやり取りに動けなくなってしまう。

(フレッドが女の子から言い寄られるのは仕方がない、として。どういうこと? 口調もまるで違うし、なんだかすごく、別人みたいだった)

 氷のように冷めたまなざし。
 少しだけ眉を下げ、甘えたようにユフェにボタン付けをねだる彼の姿とは、到底結びつかない。

(どうして? 私、騙されてる……? なんのために?)

 もしそうだとして、その理由が思いつかない。
 安定した職と給金はあるけれど、平民の中の平民であるユフェに彼を養う財力はないし、大して若くもないユフェの身体が目当てだとも思えない。

(とんでもなく溺れさせておいて、手酷く振る、とか?)

 そんな凝った復讐のような真似をされるほど、誰かに恨みを買った覚えはない。元カレだって、別れたいと言ってきたのは向こうのほうだ。

(…………私、また振られるの……?)

 過去の出来事が、ユフェの自尊心を奪っていく。
 フレッドは彼女がいると言ってくれていた。それが全てなのに。

「ねえ、大丈夫?」

 さすがのミミも黙ったままのユフェを心配して、小さく声を掛けてくれる。
 大丈夫だと言おうとするが、ぐるぐるとよくわからない感情があふれ、言葉になってくれなかった。

「……ユフェ?」

 寒空の下、驚いたように恋人の名前を呼ぶフレッドの声は、先ほどの苛ついた低い声色とは違い、どこか嬉しそうだった。

「仕事終わったんだ? 俺もちょっとだけ残ってたんだ。一緒に帰ろう」
「フレッ、ド……」

 いつもと変わらぬ声で、表情で。何事もなかったかのように語りかけてくる。
 けれどもユフェは、硬い表情を崩せない。

「ユフェ、どうしたの? 気分でも悪い?」
「──っ!」

 心配そうに伸ばされた手を、拒絶するように振り払ったのは無意識だった。

「え……」
「っ、ちが、わざとじゃ」

 呆然と弾かれた手を下ろしたフレッドを見て、これみよがしにミミは大きなため息をつく。

「はぁぁぁぁぁぁっ。アンタ、さっきの女なに。ユフェといる時と随分キャラが違うじゃない」
「ミミ……」
「ユフェも。何か言いたいことがあるなら今言っときな」
「…………ミミさん。悪いけど、ユフェとふたりにしてくれる?」
「は? できるわけなくない? こんなおかしな二面性のありそうな男に、親友を預けられるわけないでしょ」

 そう言ってふたりの間に割り込むミミは、とても頼もしい。

「とりあえず、今日は私がユフェを」
「ごめん、ミミ」
「え?」

 親友の言葉はとても嬉しかった。けれど明日は休日だ。今日を逃せば、このモヤモヤとわだかまった気持ちはどこへも行くことはできず、陰鬱としたまま数日を過ごすことになるだろう。
 どうなってしまうのか少し恐ろしいけれど、フレッドと話をしなければいけない気がする。
 ……それに、数時間前まで確かに感じていた幸せを、嘘にしてしまいたくなかった。

「フレッドと、一緒に帰る。……どういうことか、説明してくれる?」
「もちろん。嘘はつかないし、なにを聞かれてもちゃんと答えられるよ。ミミさんも、そこは安心して。俺はユフェを大事にしたいだけだから」
「……そう。ユフェがいいなら、それで。ユフェ、話してもダメだと思ったらうちに来な。何時になってもいいから」

 盛大なため息を吐き出して、ミミはそっとユフェに耳打ちした。そして一度フレッドを睨みつけてから自慢の黒髪をなびかせ、あっという間に街路の向こうに消えたのだった。
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