42 / 77
一章
42、夜の庭【2】
しおりを挟む
「だから、その。最後に俺に会いたかったと……言っていただろう?」
レナーテからの返事はない。というか、ぴくりともしなくなってしまった。
「レナーテ?」
「し、知りません。覚えていません」
「いや、確かに聞こえたのだが」
細い腕のどこにそんな力があるのだと思うほどに、レナーテは俺の胴にしがみついてくる。
彼女の顔が当たっている胸の辺りが少し熱い、ような気がする。
風が出てきたせいで雲に月が隠れたのだろう。辺りが闇に沈んでいく。湖の波の音が遠くから幽かに聞こえる。
波が寄せては返す浜辺にいた白鷺や青鷺は、今は眠っているのだろうか。鳥はどんな夢を見るのだろう。
「レナーテ。顔を上げてくれないか? 顔を見せてほしいんだ」
「嫌です。恥ずかしいの」
「どうして?」
「だって、頬が熱いんですもの。きっと林檎みたいに真っ赤な顔をしているわ」
うん。それは最後に俺に会いたいと言った言葉が、間違っていないと自覚したからだよな。
「じゃあ、無理は言わずにおこう。だが、月も雲に隠れたし、顔だけは見せてほしいんだ」
「わたしの顔、見えませんか」
「ああ、ずいぶんと暗いからなぁ」
レナーテが安心するように呑気な口調で答えたが、実際は見える。
すでに暗闇に目が慣れてしまっているのだから。
だが、俺は今は悪い大人なので、平然と真実を伏せる。
おずおずと顔を上げるレナーテ。さすがに頬が朱に染まっているのまでは、判別できないが。恥ずかしさに潤んだ瞳と、下がった眉。その頼りない表情が愛おしい。
俺は少し膝を屈めて、彼女のひたいにくちづけた。
「確かに熱いな」
「熱が出たんです、きっと。もう部屋に戻ります」
「うん、そうだなぁ。じゃあ、明日はレナーテは一日寝ていた方がいいな」
「え?」
おや? さっき熱があると言ったばかりじゃないか。困った子だな。悪い大人を騙そうだなんて。
「先に寝室に戻っていなさい。俺は薬の用意をしてくるから」
「く、薬はいらないんです。わたしは林檎を食べているから、平気なんです」
林檎にそこまでの病気予防の効果はないと思うが。君の通っていた教会学校の主神は林檎なのか?
「熱を出している妻を放っておくわけにはいかないな。夫として、そんな白状なことはできない」
「……ごめんなさい。熱なんてないの」
レナーテが小さく白状したから、俺は苦笑した。
簡単にばれる嘘をついてはいけないな。君みたいな素直な子は、嘘をつきとおせないのだから。
「俺の姿が見えなくて、不安になったのかい?」
「……はい」
「俺は何処へも行かないよ」
頷きながらも、レナーテは俺の寝間着の袖をきゅっと引っ張る。
「本当にわたしを置いて、何処かへ行ってしまわないでくださいね」
ああ。誓うよ。
君は俺の花嫁であり、家族だ。実家を後にして、ほとんど面識のない俺を信じて嫁いでくれた。
そんな君をどうして置いていくことができよう。
夜は、昼のように蒼穹に覆われていないから。白く潔癖な雲と、清い青空に見張られていないから。
きっと素直になってしまうのだろう。
レナーテは背伸びをして、キスをせがんできた。
「珍しいね。レナーテからとは」
「……いいの」
軽く唇を何度か触れさせた後、俺は深いくちづけを交わした。
柔らかな唇。彼女の頬はまだ熱い。だが、これはさっきの照れではなく、今自分からキスをしたことに対する羞恥心だろう。
まったく、困った子だ。恥ずかしさをこらえても、俺にキスがしたかったとは。俺に触れたかったとは。
「今夜はするつもりはなかったんだよ? レナーテも疲れているだろうし。君に負担をかけたくないんだ」
「わたしが、それを望んでも?」
レナーテ。そんな煽るようなことを言うもんじゃない。でないと、紳士でいられなくなるから。
レナーテからの返事はない。というか、ぴくりともしなくなってしまった。
「レナーテ?」
「し、知りません。覚えていません」
「いや、確かに聞こえたのだが」
細い腕のどこにそんな力があるのだと思うほどに、レナーテは俺の胴にしがみついてくる。
彼女の顔が当たっている胸の辺りが少し熱い、ような気がする。
風が出てきたせいで雲に月が隠れたのだろう。辺りが闇に沈んでいく。湖の波の音が遠くから幽かに聞こえる。
波が寄せては返す浜辺にいた白鷺や青鷺は、今は眠っているのだろうか。鳥はどんな夢を見るのだろう。
「レナーテ。顔を上げてくれないか? 顔を見せてほしいんだ」
「嫌です。恥ずかしいの」
「どうして?」
「だって、頬が熱いんですもの。きっと林檎みたいに真っ赤な顔をしているわ」
うん。それは最後に俺に会いたいと言った言葉が、間違っていないと自覚したからだよな。
「じゃあ、無理は言わずにおこう。だが、月も雲に隠れたし、顔だけは見せてほしいんだ」
「わたしの顔、見えませんか」
「ああ、ずいぶんと暗いからなぁ」
レナーテが安心するように呑気な口調で答えたが、実際は見える。
すでに暗闇に目が慣れてしまっているのだから。
だが、俺は今は悪い大人なので、平然と真実を伏せる。
おずおずと顔を上げるレナーテ。さすがに頬が朱に染まっているのまでは、判別できないが。恥ずかしさに潤んだ瞳と、下がった眉。その頼りない表情が愛おしい。
俺は少し膝を屈めて、彼女のひたいにくちづけた。
「確かに熱いな」
「熱が出たんです、きっと。もう部屋に戻ります」
「うん、そうだなぁ。じゃあ、明日はレナーテは一日寝ていた方がいいな」
「え?」
おや? さっき熱があると言ったばかりじゃないか。困った子だな。悪い大人を騙そうだなんて。
「先に寝室に戻っていなさい。俺は薬の用意をしてくるから」
「く、薬はいらないんです。わたしは林檎を食べているから、平気なんです」
林檎にそこまでの病気予防の効果はないと思うが。君の通っていた教会学校の主神は林檎なのか?
「熱を出している妻を放っておくわけにはいかないな。夫として、そんな白状なことはできない」
「……ごめんなさい。熱なんてないの」
レナーテが小さく白状したから、俺は苦笑した。
簡単にばれる嘘をついてはいけないな。君みたいな素直な子は、嘘をつきとおせないのだから。
「俺の姿が見えなくて、不安になったのかい?」
「……はい」
「俺は何処へも行かないよ」
頷きながらも、レナーテは俺の寝間着の袖をきゅっと引っ張る。
「本当にわたしを置いて、何処かへ行ってしまわないでくださいね」
ああ。誓うよ。
君は俺の花嫁であり、家族だ。実家を後にして、ほとんど面識のない俺を信じて嫁いでくれた。
そんな君をどうして置いていくことができよう。
夜は、昼のように蒼穹に覆われていないから。白く潔癖な雲と、清い青空に見張られていないから。
きっと素直になってしまうのだろう。
レナーテは背伸びをして、キスをせがんできた。
「珍しいね。レナーテからとは」
「……いいの」
軽く唇を何度か触れさせた後、俺は深いくちづけを交わした。
柔らかな唇。彼女の頬はまだ熱い。だが、これはさっきの照れではなく、今自分からキスをしたことに対する羞恥心だろう。
まったく、困った子だ。恥ずかしさをこらえても、俺にキスがしたかったとは。俺に触れたかったとは。
「今夜はするつもりはなかったんだよ? レナーテも疲れているだろうし。君に負担をかけたくないんだ」
「わたしが、それを望んでも?」
レナーテ。そんな煽るようなことを言うもんじゃない。でないと、紳士でいられなくなるから。
1
お気に入りに追加
1,872
あなたにおすすめの小説

皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。

婚約者が他の令嬢に微笑む時、私は惚れ薬を使った
葵 すみれ
恋愛
ポリーヌはある日、婚約者が見知らぬ令嬢と二人きりでいるところを見てしまう。
しかも、彼は見たことがないような微笑みを令嬢に向けていた。
いつも自分には冷たい彼の柔らかい態度に、ポリーヌは愕然とする。
そして、親が決めた婚約ではあったが、いつの間にか彼に恋心を抱いていたことに気づく。
落ち込むポリーヌに、妹がこれを使えと惚れ薬を渡してきた。
迷ったあげく、婚約者に惚れ薬を使うと、彼の態度は一転して溺愛してくるように。
偽りの愛とは知りながらも、ポリーヌは幸福に酔う。
しかし幸せの狭間で、惚れ薬で彼の心を縛っているのだと罪悪感を抱くポリーヌ。
悩んだ末に、惚れ薬の効果を打ち消す薬をもらうことを決意するが……。
※小説家になろうにも掲載しています
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

【電子書籍化進行中】声を失った令嬢は、次期公爵の義理のお兄さまに恋をしました
八重
恋愛
※発売日少し前を目安に作品を引き下げます
修道院で生まれ育ったローゼマリーは、14歳の時火事に巻き込まれる。
その火事の唯一の生き残りとなった彼女は、領主であるヴィルフェルト公爵に拾われ、彼の養子になる。
彼には息子が一人おり、名をラルス・ヴィルフェルトといった。
ラルスは容姿端麗で文武両道の次期公爵として申し分なく、社交界でも評価されていた。
一方、怠惰なシスターが文字を教えなかったため、ローゼマリーは読み書きができなかった。
必死になんとか義理の父や兄に身振り手振りで伝えようとも、なかなか伝わらない。
なぜなら、彼女は火事で声を失ってしまっていたからだ──
そして次第に優しく文字を教えてくれたり、面倒を見てくれるラルスに恋をしてしまって……。
これは、義理の家族の役に立ちたくて頑張りながら、言えない「好き」を内に秘める、そんな物語。
※小説家になろうが先行公開です
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる