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一章
39、さくらんぼの勇気【1】
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まだ昼には早く、サンドウィッチを食べようという気にはならない。
だが俺には成し遂げねばならぬ使命があるのだ。
いかん。緊張してきた。
震える指先で籠からガラスの器を取りだす。中には、季節のさくらんぼが入っている。
細い柄はぴんと立ち、朱色の皮は瑞々しく輝いている。
さくらんぼ……何年も食っていないな。子どもの頃以来か? さくらんぼから造る透明な蒸留酒は飲むことがあるが。
こう、なんというかいい年をした男の食い物ではないように思う。
可愛いんだよ、見た目が。存在が。さくらんぼは。
まだ林檎の方がいいよな。フォークに刺せるし。
「エルヴィンさま。どうなさったの?」
じーっとさくらんぼを睨んでいた俺に、レナーテが声をかけてくる。
「あの、だな。さっき俺に林檎を食べてほしいと言っていただろう」
「はい」
「だから、だな。それをさくらんぼで……その」
「ええ。どうぞエルヴィンさま、召し上がってくださいな」
行儀よく膝に手を揃えて、レナーテがにっこりと微笑む。
ちがーう。違うんだ。
君のその手でさくらんぼの柄をつまみ、一粒を俺に……俺の口に。
なんて言えるかっ。
俺は頭を抱えた。
あの、どう言えばいいんですかね。騎士は貴婦人との恋を心に秘めて生きるのが美しいとされているが。
秘めているだけでは駄目なんだ。
あれは時代遅れなんだ。
今の若い騎士は、恋心を密やかに秘めるなんてしないぞ。
だが、俺はそこまで年寄りでもないし若くもない。
「ごめんなさい。エルヴィンさま」
ふいにレナーテに謝られて、俺はきょとんとした。
もしかして、さくらんぼを食べさせてほしいと気づいて、それを頼まれる前に断ったのか?
いや、それも無理はないよな。
俺は、湖畔で林檎を食わせてもらうのを断ったのだから。今更、仕切り直しとか虫のいいことは言えない……よな。
「わたし、分かっていて素知らぬふりをしてしまいました」
「分かっていて?」
「ええ。だってエルヴィンさま、可愛いんですもの。もっと見ていたくなったの」
はい? お嬢さん、何を仰っているのか分かりませんよ。俺に分かるように教えてもらえませんかね。
レナーテは濡れ布巾で手を拭いている。檸檬の精油が垂らしてあるのか、爽やかな香りが辺りに漂った。
大きな虫が花の前の空中で停まっていると思ったら、それはハチドリだった。
虫にしては大きいが、鳥にしては小さすぎるので、よく見間違う。
さくらんぼの柄を、細い指がつまむ。
そしてレナーテは俺に向き直って、それを差しだしてきた。
「エルヴィンさま。お口を開けてくださいな」
「あ、あの……」
いかん。照れる。
押すのはいいが押されるのは苦手だということを、俺はこの年になるまで知らなかった。
「ハチドリしか見ていませんよ」
ええい、勇気を出せ。
俺はぎゅっと目を閉じて口を開いた。
「だめですよ。ちゃんと見ていないと」
「いや、だが。さすがに恥ずかしくて……だな」
「素敵なお顔をレナーテに見せてください」
人のいないところで、という条件に合致した今。俺に拒否権はない。
おずおずと瞼を開いて、さくらんぼとその向こうに見えるレナーテの顔を見る。
彼女の紫水晶の瞳に、まるで初恋に気づいたばかりの頼りない少年のような己の顔が映っていた。
だが俺には成し遂げねばならぬ使命があるのだ。
いかん。緊張してきた。
震える指先で籠からガラスの器を取りだす。中には、季節のさくらんぼが入っている。
細い柄はぴんと立ち、朱色の皮は瑞々しく輝いている。
さくらんぼ……何年も食っていないな。子どもの頃以来か? さくらんぼから造る透明な蒸留酒は飲むことがあるが。
こう、なんというかいい年をした男の食い物ではないように思う。
可愛いんだよ、見た目が。存在が。さくらんぼは。
まだ林檎の方がいいよな。フォークに刺せるし。
「エルヴィンさま。どうなさったの?」
じーっとさくらんぼを睨んでいた俺に、レナーテが声をかけてくる。
「あの、だな。さっき俺に林檎を食べてほしいと言っていただろう」
「はい」
「だから、だな。それをさくらんぼで……その」
「ええ。どうぞエルヴィンさま、召し上がってくださいな」
行儀よく膝に手を揃えて、レナーテがにっこりと微笑む。
ちがーう。違うんだ。
君のその手でさくらんぼの柄をつまみ、一粒を俺に……俺の口に。
なんて言えるかっ。
俺は頭を抱えた。
あの、どう言えばいいんですかね。騎士は貴婦人との恋を心に秘めて生きるのが美しいとされているが。
秘めているだけでは駄目なんだ。
あれは時代遅れなんだ。
今の若い騎士は、恋心を密やかに秘めるなんてしないぞ。
だが、俺はそこまで年寄りでもないし若くもない。
「ごめんなさい。エルヴィンさま」
ふいにレナーテに謝られて、俺はきょとんとした。
もしかして、さくらんぼを食べさせてほしいと気づいて、それを頼まれる前に断ったのか?
いや、それも無理はないよな。
俺は、湖畔で林檎を食わせてもらうのを断ったのだから。今更、仕切り直しとか虫のいいことは言えない……よな。
「わたし、分かっていて素知らぬふりをしてしまいました」
「分かっていて?」
「ええ。だってエルヴィンさま、可愛いんですもの。もっと見ていたくなったの」
はい? お嬢さん、何を仰っているのか分かりませんよ。俺に分かるように教えてもらえませんかね。
レナーテは濡れ布巾で手を拭いている。檸檬の精油が垂らしてあるのか、爽やかな香りが辺りに漂った。
大きな虫が花の前の空中で停まっていると思ったら、それはハチドリだった。
虫にしては大きいが、鳥にしては小さすぎるので、よく見間違う。
さくらんぼの柄を、細い指がつまむ。
そしてレナーテは俺に向き直って、それを差しだしてきた。
「エルヴィンさま。お口を開けてくださいな」
「あ、あの……」
いかん。照れる。
押すのはいいが押されるのは苦手だということを、俺はこの年になるまで知らなかった。
「ハチドリしか見ていませんよ」
ええい、勇気を出せ。
俺はぎゅっと目を閉じて口を開いた。
「だめですよ。ちゃんと見ていないと」
「いや、だが。さすがに恥ずかしくて……だな」
「素敵なお顔をレナーテに見せてください」
人のいないところで、という条件に合致した今。俺に拒否権はない。
おずおずと瞼を開いて、さくらんぼとその向こうに見えるレナーテの顔を見る。
彼女の紫水晶の瞳に、まるで初恋に気づいたばかりの頼りない少年のような己の顔が映っていた。
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