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10、ペーパーナイフ
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「あたしを可愛がるって、ベッドでだけでしょう? しかも別に可愛がってもらえてるって思えもしません。旦那さまは、一人で気持ちよく果ててしまって。あたしが我慢していることも、演技していることも気づいてないでしょう? 下手なんですよ、旦那さまは」
「下手?」
ヘルダからの思いがけない指摘に、ブレフトは片方の眉を上げた。
聞き捨てならない。ヘルダはいつも快楽をむさぼっているではないか。なまめかしい声を上げているではないか。
「何を言うんだっ。ケイトはぼくが上手だと褒めてくれる。こんな大きいの初めてだと言ってくれるぞ」
「はっ」
初めて鼻で笑われた。
ヘルダの目に嘲りの色が浮かんでいる。
「旦那さまのは、別に大きくもありませんし。そもそもベッドでも女性に奉仕することもないじゃないですか。新しいメイドのケイトも、そう言っておけば仕事が楽できるし、贅沢できるからですよ」
「なっ!」
怒りのあまり、ブレフトは言葉すら出てこなかった。
顔どころか耳まで熱くなってるのが、自分でも分かった。
「知らなかったんですかーぁ? 自信過剰ですね」
夜のことをあからさまに口にするのは、マナー違反だ。淑女なら言うはずがない。
ブレフトは思い知った。ヘルダが卑しい女だと。たとえ妻の金とはいえ、そんな女に貢いでいたのだと。
ユリアーナは親が決めた結婚相手で。興味すらなかった。彼女が話しかけてきても、無視を決め込んだ。
だって、そうだろう?
ユリアーナだって、親の命令で仕方なく結婚しただけなのだから。夫婦と言っても形だけ。
(だけど……伯爵であるぼくの評判を上げるように、ユリアーナは社交を頑張っていたんだ)
ヘルダと出かけた時のシャツのボタンも、わざわざ上質なものを取り寄せて付け替えてくれた。裁縫はメイドの仕事だが、ユリアーナは手伝いをしたことだろう。
(もしかしてぼくは間違っていたのか?)
自分と妻の年齢がさほど変わらないから。「さすがですね、旦那さま」「すごいですね、旦那さま」と、事あるごとにヘルダのように称賛してくれないから。
(だが、ヘルダの褒め言葉も結局は嘘ばかりだった)
自分は何を見ていたのだろう。
これまで信じていたものが、音を立てて足下から崩れていく気がした。
可愛いヘルダはもういない。いや、元々いなかったのだ。
ならば、もっと若いケイトはどうなんだ。あの笑顔も称賛の言葉も、やはり嘘なのか。
「違う。ぼくは偉いんだ。女たちはぼくに夢中なんだ」
「ケイトが言ってましたよ。旦那さまは、仕事中でも鼻の下を伸ばして見つめてくるから、気持ち悪いって。そうそう、ケイトの入浴中に覗き見したそうですね。でも、あれケイトじゃなくて別の子でしたよ。メイド長に泣きながら相談していました」
お前はただの性欲まみれの変態だ。偉くもないし、爵位など長男だから継いだだけだろう。金と地位がなければ、誰もお前など相手にしない。
細く、吊り上がったヘルダの目が雄弁に告げていた。
「ちがう、ちがう。ちがうっ」
ブレフトの怒鳴る声が、部屋の壁や天井に反響する。
「さっきの言葉を取り消せ!」
「何をですか? 旦那さまが覗き見をすることですか? 下手ってことですか? 大きくないってことですか?」
「性欲まみれの変態って言っただろ!」
「言ってませんよ」
あまりの二人の声の大きさに、執事や使用人たちが部屋に飛び込んでくる。ノックをする余裕もないほどに、急いでドアが開いた。
「でも、自覚はあるんですね。ご自分が性欲だらけの変態って」
ヘルダの言葉が、さらにブレフトの燃え盛る怒りの炎に油を注いだ。
ブレフトの手が、机の上を探る。封筒、便箋、ペン。蓋の開いたインク壺が倒れた。インクがこぼれて、手紙や書類を青黒い色に染めていく。
深夜の色のインクで染まったブレフトの手が、ペーパーナイフに触れた。
細いナイフを振り上げて、ブレフトがヘルダに襲い掛かる。
ヘルダやメイド達の悲鳴。「旦那さま」と叫ぶ執事の声。ドアの前の人垣をかき分けて、部屋に入ってくる影があった。
「いい加減になさいませ」
ぶわっとした風圧をブレフトは感じた。目の前が真っ暗になる。
「早く押さえてください」
命じる声は鋭いが、女性のものだった。布に包まれて視界の閉ざされた中、ブレフトの手からペーパーナイフが落ちた。
カシン、と美しい足がナイフを踏みつけるのが、床の布の間から見えた。
「ユリアーナ? ユリアーナなのか?」
どうやらコートハンガーに掛かっていた、外套を頭からかぶせられたのだと、ブレフトは気づいた。
「あたし、殺されそうになったんです。旦那さまが、あたしを刺そうとしたんです。あたし、何も悪くないのに。真実を言っただけなのに」
取り乱したヘルダが泣き叫んでいる。
「ヘルダを連れて行ってちょうだい。落ち着かせてあげて」
「はい。奥さま」
聞こえてくる会話に、ブレフトはユリアーナの手際の良さを知った。
「事件ではあるけれど、ヘルダは怪我をしていません。もちろんクラーセン家の家名に傷はつきますが、殺人には至っていません。今後、この二人を近づけないようにしてください」
(ユリアーナは、この家を守ろうとしてくれているのか?)
外套と床の狭い視界で、しなやかな指がペーペーナイフを拾うのが見えた。
(ぼくは……ユリアーナに守られていたのか?)
青黒いインクに染まった手で、ブレフトは顔を覆った。
気づかなかった。知らなかった。
夫は妻を利用して、言うことを聞かせるのが当然だった。
それを当たり前の権利として考えていた。ユリアーナだって人間なのに。若いメイドに対するほどの、思いやりもかけることがなかった。
「下手?」
ヘルダからの思いがけない指摘に、ブレフトは片方の眉を上げた。
聞き捨てならない。ヘルダはいつも快楽をむさぼっているではないか。なまめかしい声を上げているではないか。
「何を言うんだっ。ケイトはぼくが上手だと褒めてくれる。こんな大きいの初めてだと言ってくれるぞ」
「はっ」
初めて鼻で笑われた。
ヘルダの目に嘲りの色が浮かんでいる。
「旦那さまのは、別に大きくもありませんし。そもそもベッドでも女性に奉仕することもないじゃないですか。新しいメイドのケイトも、そう言っておけば仕事が楽できるし、贅沢できるからですよ」
「なっ!」
怒りのあまり、ブレフトは言葉すら出てこなかった。
顔どころか耳まで熱くなってるのが、自分でも分かった。
「知らなかったんですかーぁ? 自信過剰ですね」
夜のことをあからさまに口にするのは、マナー違反だ。淑女なら言うはずがない。
ブレフトは思い知った。ヘルダが卑しい女だと。たとえ妻の金とはいえ、そんな女に貢いでいたのだと。
ユリアーナは親が決めた結婚相手で。興味すらなかった。彼女が話しかけてきても、無視を決め込んだ。
だって、そうだろう?
ユリアーナだって、親の命令で仕方なく結婚しただけなのだから。夫婦と言っても形だけ。
(だけど……伯爵であるぼくの評判を上げるように、ユリアーナは社交を頑張っていたんだ)
ヘルダと出かけた時のシャツのボタンも、わざわざ上質なものを取り寄せて付け替えてくれた。裁縫はメイドの仕事だが、ユリアーナは手伝いをしたことだろう。
(もしかしてぼくは間違っていたのか?)
自分と妻の年齢がさほど変わらないから。「さすがですね、旦那さま」「すごいですね、旦那さま」と、事あるごとにヘルダのように称賛してくれないから。
(だが、ヘルダの褒め言葉も結局は嘘ばかりだった)
自分は何を見ていたのだろう。
これまで信じていたものが、音を立てて足下から崩れていく気がした。
可愛いヘルダはもういない。いや、元々いなかったのだ。
ならば、もっと若いケイトはどうなんだ。あの笑顔も称賛の言葉も、やはり嘘なのか。
「違う。ぼくは偉いんだ。女たちはぼくに夢中なんだ」
「ケイトが言ってましたよ。旦那さまは、仕事中でも鼻の下を伸ばして見つめてくるから、気持ち悪いって。そうそう、ケイトの入浴中に覗き見したそうですね。でも、あれケイトじゃなくて別の子でしたよ。メイド長に泣きながら相談していました」
お前はただの性欲まみれの変態だ。偉くもないし、爵位など長男だから継いだだけだろう。金と地位がなければ、誰もお前など相手にしない。
細く、吊り上がったヘルダの目が雄弁に告げていた。
「ちがう、ちがう。ちがうっ」
ブレフトの怒鳴る声が、部屋の壁や天井に反響する。
「さっきの言葉を取り消せ!」
「何をですか? 旦那さまが覗き見をすることですか? 下手ってことですか? 大きくないってことですか?」
「性欲まみれの変態って言っただろ!」
「言ってませんよ」
あまりの二人の声の大きさに、執事や使用人たちが部屋に飛び込んでくる。ノックをする余裕もないほどに、急いでドアが開いた。
「でも、自覚はあるんですね。ご自分が性欲だらけの変態って」
ヘルダの言葉が、さらにブレフトの燃え盛る怒りの炎に油を注いだ。
ブレフトの手が、机の上を探る。封筒、便箋、ペン。蓋の開いたインク壺が倒れた。インクがこぼれて、手紙や書類を青黒い色に染めていく。
深夜の色のインクで染まったブレフトの手が、ペーパーナイフに触れた。
細いナイフを振り上げて、ブレフトがヘルダに襲い掛かる。
ヘルダやメイド達の悲鳴。「旦那さま」と叫ぶ執事の声。ドアの前の人垣をかき分けて、部屋に入ってくる影があった。
「いい加減になさいませ」
ぶわっとした風圧をブレフトは感じた。目の前が真っ暗になる。
「早く押さえてください」
命じる声は鋭いが、女性のものだった。布に包まれて視界の閉ざされた中、ブレフトの手からペーパーナイフが落ちた。
カシン、と美しい足がナイフを踏みつけるのが、床の布の間から見えた。
「ユリアーナ? ユリアーナなのか?」
どうやらコートハンガーに掛かっていた、外套を頭からかぶせられたのだと、ブレフトは気づいた。
「あたし、殺されそうになったんです。旦那さまが、あたしを刺そうとしたんです。あたし、何も悪くないのに。真実を言っただけなのに」
取り乱したヘルダが泣き叫んでいる。
「ヘルダを連れて行ってちょうだい。落ち着かせてあげて」
「はい。奥さま」
聞こえてくる会話に、ブレフトはユリアーナの手際の良さを知った。
「事件ではあるけれど、ヘルダは怪我をしていません。もちろんクラーセン家の家名に傷はつきますが、殺人には至っていません。今後、この二人を近づけないようにしてください」
(ユリアーナは、この家を守ろうとしてくれているのか?)
外套と床の狭い視界で、しなやかな指がペーペーナイフを拾うのが見えた。
(ぼくは……ユリアーナに守られていたのか?)
青黒いインクに染まった手で、ブレフトは顔を覆った。
気づかなかった。知らなかった。
夫は妻を利用して、言うことを聞かせるのが当然だった。
それを当たり前の権利として考えていた。ユリアーナだって人間なのに。若いメイドに対するほどの、思いやりもかけることがなかった。
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