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8、言い訳

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 翌朝。
 ホテルの外は深い霧が降りていた。寝不足のブレフトは大きなあくびをする。

 ベッドで少々無理をさせすぎたらしい。ヘルダは歩くのもおっくうそうだ。

「旦那さまぁ。どうしても散歩に行かないとダメなんですか? 朝食もまだなんですけど」
「ダメだ。メイドであるお前とぼくが、こんな街中で日中は散歩などできないだろう? せっかくの機会なんだ」
「オペラは大丈夫なのに?」
「あれはメイドの情操教育という名目が立つ。だが朝の七時に一緒にいる男女は、情事の後だとばれるだろう?」

 メイドのしつけならばともかく、情操教育など聞いたこともない。もしあったとしても、当主が直々に施すものでもないだろう。
 ブレフトは自分でも、無理のある言い訳だと感じた。

「じゃあ、なおさら出かけなきゃいいじゃないですか」

 ヘルダはぶつぶつと文句を言う。
 化粧もほとんどしていないから、ヘルダの顔は土色をしていた。

 辺りは乳白色に閉ざされて、公園の木々がシルエットのように黒く見える。
 これくらい視界が悪ければ、人目も気にならない。しかも朝早いのだから、公園にほとんど人はいない。

「どうだ? 一緒に散歩をしていると、仲睦まじい夫婦のように思えないか?」
「もっと寝ていたいです。せっかくの休みなんだから」
「ほら、噴水があるぞ。近くに行ってみないか?」
「別にどうでもいいです」

 ブレフトはヘルダの腕をつかんだが、彼女はだるそうに主の手を払った。

(おかしい。ヘルダはもっと可愛くて、愛想がよくて。ぼくに尽くしてくれるのに。なんで今日は機嫌が悪いんだ?)

 オペラだって観せてやった。高い店で食事もさせてやった。ホテルは目立たぬように、路地裏の小さなところを選んだが。それでも朝まで抱いてやったし、こうして散歩にも連れて行ってやっている。

 なにが気に食わないというのだろう。

「おや、もしかして。クラーセン伯爵ではありませんか」

 ふと声をかけられて、ブレフトは立ちどまった。
 霧のなかから二人連れが近づいてくる。空中を漂う、微細な水の粒の中から現れたのは子爵夫妻だった。彼らの背後には、供が控えている。

「伯爵も奥さまと散歩でいらっしゃいますか? いやぁ、うちの妻も健康の為と言って歩きたがるのですが、なにしろ昼間の公園は人が多いですから」

 子爵に挨拶をしながら、ブレフトはヘルダを自分の背中で隠した。

「供もつけずに、大丈夫ですか?」
「ほんの近くに泊まっていたもので」

 しまった。この辺りは子爵のタウンハウスの近くだったか。

「あら? ユリアーナさまではありませんのね」

 気づいたのは子爵夫人だった。風が吹いて、少し霧が晴れたせいかもしれない。

「あの、こちらはユリアーナのメイドです。妻にプレゼントを買いに来たのですが。まだ朝が早くて店も開いていなくて、時間つぶしに散歩をしていたんですよ」
「それは素晴らしい。奥さまもお喜びになるでしょうな」

 子爵は満面の笑みを浮かべたが。夫人は怪訝そうに目を細めて、ヘルダを見据えている。

「メイドの服ではありませんのね。ショールをかけていらっしゃるけれど。たいそう胸元の開いたドレスですね。まるで夜に出かける時のような格好ですわ」

 これだから年をとった女は嫌いだ。ブレフトは舌打ちしたい気持ちだった。

「今日は暑くなると聞いていましたし。ユリアーナへの贈り物を選ぶのも時間がかかるかもしれませんから」
「そうですか」

 決して納得していない様子だけれど。夫人は、子爵に「これ、追及するものではない」とたしなめられて、渋々といった様子で口を閉ざした。

「それにしても良いボタンですな」

 子爵は、ブレフトの胸もとに目を留めた。
 ボタン? と思ってジャケットに触れると「いえ、シャツの方ですよ」と子爵は言った。

「珍しいボタンですな。ほら、朝陽を受けてしっとりと光って見えます」

 胸元は自分では見えないので、ブレフトはジャケットの袖をめくった。確かにボタンが虹色に見える。しかも派手ではなく、落ちついた輝きだ。
 ぱっと見た感じでは白なのに。動いて光を浴びると、濡れたような虹が現れる。

(そうだ!)

 ブレフトは閃いた。

「このボタンを選んで買ってきたのが、こちらのメイドなんですよ。ユリアーナに彼女のセンスを少しでも分けてやろうかと思って。それで、プレゼントの見立てに連れてきたんです」
「なるほど。伯爵は奥さま思いでいらっしゃる。しかもメイドも洗練されているとは。いやぁ、羨ましい限りです」

 子爵とブレフトの笑い声が、静かな公園に響く。
 夫人は何も言わない。ヘルダも黙っている。

「それでは」と挨拶をして、子爵夫妻は立ち去った。
 水洩れのような噴水の音に重なって、夫人の声が切れ切れに届いた。

「あのボタンは南洋のものです。特別な貝……たしか夜光貝から作られているもので、輸入しなければ手に入りません。以前、夜会でユリアーナさまがお買い求めになったと、耳にしましたわ」

 そろそろ馬車が迎えに来ることだろう、とブレフトはホテルに戻ることにした。
 その時だった。

「余計なことを言わないでください」

 地の底から響くような恨みがましい声で、ヘルダが言ったのだ。

「あんなの、すぐにばれます。もう、ばれています」
「何が気に入らないんだ? ヘルダ、お前のことを褒めてやったのに」
「なんで分からないんですか? あたしはメイドなんですよ。平民なんです。そのボタンが特別なものだって、あたしは知りませんでした。適当に持ちあげられても、迷惑です」

 先に歩きはじめたヘルダが、霧のなかでふり返った。

「なぜだい? 黙ってうなずいていれば、分かりゃしないことさ。輸入しているなら、そのあたりの店に出回っていることだろうし」

 ブレフトが言い募っても、ヘルダは「分かってないわね」という嘲りの表情を浮かべた。

(こいつ、面倒くさい女だな)

 そんな考えが、初めてブレフトの頭をよぎった。
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