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二章
1、朝の目覚め
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玲華は夢を見ていると自覚した。長兄が笑っていたからだ。
陶岳国 の太子である長兄、時威龍に玲華は蒼海皇女を紹介していたのだ。
――まさか玲華が、母親となるとは。して、婿殿は誰だ? 男勝りのそなたを娶るとは、なかなかに剛毅な男だ。
呵々と威龍は笑った。父によく似た彫りの深い面立ちで、がっしりとした体つきをしている。
――何をおっしゃっているんですか? 威龍兄上。わたしの夫は宣皇帝陛下ですよ。
――はて? そうだったかな。愁飛。
威龍に問われたのは、次兄の愁飛だ。玲華と愁飛は母親に似ているので、涼しい顔立ちや線の細さがそっくりだ。
――玲華、覚えていないのですか? あなたは修媛の位を廃され、晴れて自由の身となったではありませんか。冷宮に追いやられることもなく、よかったと私は思っていますよ。
愁飛は柔らかく微笑んだ。今は亡き母親の面影が、次兄に重なる。
――まぁ、何にしろ万事うまくいったということだ。
軽やかに笑った長兄は、バシバシと玲華の背中を叩いた。
いやいや、おかしいでしょ。そんなこと、あり得ないって。
皇后陛下が亡くなって、玲華は蒼海を養育することになったが。九嬪のなかの修媛という立場に変わりはない。
しかも南洛国にとっては、玲華は陶岳国が侵攻せぬようにとの人質である。さらに、父も長兄も知らぬことだが。陶岳国に妙な動きがないか、王都での噂が後宮に流れては来ぬかと玲華は耳をそばだてている。これは次兄である愁飛との約束だ。
ただ、状況は変わった。
皇子である宣凌星が、侍女として玲華の元へやって来たのだ。むろん、名目は見張りだ。皇女である蒼海を正しく育てているかどうか、という。
蒼海は未来を視る力がある。もっとも、ほんのちょっとだけ。子供の言葉なので、未来を語っても断片的であるし、要領を得ないことも多い。それでも蒼海の能力で、幽閉された郭貴妃を救うことができた。
「あれは……素晴らしかったですよ。蒼海さま」
「ほんと? やったぁ!」
玲華の耳もとではしゃぐ声が聞こえた。そして、衝撃。どすん! とお腹に重みを感じる。
「うっ」
やられた。玲華は絶句した。というか息ができない。口から何かが出てきてしまいそう。
「……蒼海さま。そういう起こし方は、よくないと……何度も、言ってる……」
「はぁい。きをつけるね」
嘘だ。蒼海はその約束をすでに五回は破っている。
「やれやれ。とんだおてんば皇女だな」
少し低めの声が聞こえて、ふいに玲華の体は軽くなった。侍女の紫安となった、凌星皇子だ。どうやら玲華のお腹の辺りに乗っかっていた蒼海を持ちあげたようだ。
「やだぁ。おろして、ズーアン。きらいっ」
「こらこら。人を嫌いと言うものではない。蒼海とて、私から『嫌い』と言われたら、つらかろう?」
凌星にわきを抱えられて、足をぶらぶらさせた蒼海は「へいき」と無情に言い放った。
「す、少しくらいはつらいとか、悲しいとか、寂しいとか、ないのか?」
動揺した様子で問いかける凌星の腕から、蒼海はするりと逃げてしまった。そしてまた天蓋付きの寝台である架子牀で上体を起こした玲華に、飛びついてくるのだ。
「説明をしてくれないか? 蒼海皇女。どうして私はダメなのだ?」
凌星は明らかにおろおろとして、視線が泳いでいる。皇子さまは案外、打たれ弱い。
というか、見せかけの立場は侍女だけれど。皇子が皇帝陛下の嬪の寝室に入ってくるのもどうかと思う。まあ、玲華の立場も見せかけで、陛下の渡りもないけれど。
「顔を洗ってきなさい、時修媛。朝食の時間だ」
今のところは主であるはずの玲華に、凌星が命じる。まぁ、もう慣れたけど、と玲華は肩をすくめた。
部屋に運ばれてきた朝食は、大餅と豆醤だ。大餅は小麦粉を練り、平たく焼いたものだ。葱を入れた塩味のものもあるが。今朝は胡麻と砂糖が入った甘い大餅だ。
「焼きたてですから、お早くお召し上がりください」
卓の上に朝食を並べながら、侍女頭の任春が言葉を添える。
「やきたて。さくさく、だよ」
「そうですね。蒼海さま。温かいうちにいただきましょう」
「うん」と、蒼海は笑顔で玲華に答えた。
玲華は両手で裂くように、大餅をちぎった。かりっと焼けた表面と、層になった中の生地が見るからにおいしそうだ。蒼海は、そのままちぎらずに大餅にかじりついている。
「蒼海さま。こうやって、一口ずつの大きさにしましょうね」
「もごもご」
蒼海は咀嚼をしながら頷いているが。「やはりちゃんと躾けた方がいいんだろうな」という気持ちと「せっかくおいしく食べているんだから。このままでも」という相反する気持ちが、玲華の中でせめぎ合う。
「あのね、リンホアさまも、たべて、たべて。おいしいよ」
口の周りに胡麻をつけたまま、蒼海は満面の笑顔を浮かべる。黒翡翠の瞳が細められて、これでもかと愛らしさをふりまいている。
か、かわいい。玲華は、大餅を口に運ぶのも忘れて、蒼海に見とれてしまった。
思えば蒼海は、とにかく玲華に食べさせたがる。
少しでも食が進まないと「リンホアさま、たべないと『めっ』だよ」と口を尖らせたり。暑さに弱い玲華に「レンチュンがね、のみなさいって、いったの」と涼茶を勧めてくれる。
実際は玲華が保護者であるのに。まるで蒼海の方が、玲華の面倒を見ているかのようだ。
まぁ、任春は主である玲華に決して「飲みなさい」とは命じないのだが。きっと蒼海が、暑気あたりに参っている玲華を案じて涼茶を用意するように頼んでくれたのだろう。
(もしかして。皇后娘娘が、蒼海さまの健康を考慮して食事や涼茶を勧めていた、その名残かもしれない)
玲華は皇后の玲玉宮に、お茶に招かれたことはよくあったが。皇后と蒼海の食事に同席したことはない。自分の知らぬ母子の和やかな関係が、かつて確かにあったのだ。
それは蒼海にとってこの上ない幸福な時間であり。今も蒼海はその時を再現しようとしてくれている。自分を好いてくれているから。
皇后はもういないが。彼女の思いはたしかに蒼海に受け継がれている。
ほわっと玲華の心は温かくなった。
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――まさか玲華が、母親となるとは。して、婿殿は誰だ? 男勝りのそなたを娶るとは、なかなかに剛毅な男だ。
呵々と威龍は笑った。父によく似た彫りの深い面立ちで、がっしりとした体つきをしている。
――何をおっしゃっているんですか? 威龍兄上。わたしの夫は宣皇帝陛下ですよ。
――はて? そうだったかな。愁飛。
威龍に問われたのは、次兄の愁飛だ。玲華と愁飛は母親に似ているので、涼しい顔立ちや線の細さがそっくりだ。
――玲華、覚えていないのですか? あなたは修媛の位を廃され、晴れて自由の身となったではありませんか。冷宮に追いやられることもなく、よかったと私は思っていますよ。
愁飛は柔らかく微笑んだ。今は亡き母親の面影が、次兄に重なる。
――まぁ、何にしろ万事うまくいったということだ。
軽やかに笑った長兄は、バシバシと玲華の背中を叩いた。
いやいや、おかしいでしょ。そんなこと、あり得ないって。
皇后陛下が亡くなって、玲華は蒼海を養育することになったが。九嬪のなかの修媛という立場に変わりはない。
しかも南洛国にとっては、玲華は陶岳国が侵攻せぬようにとの人質である。さらに、父も長兄も知らぬことだが。陶岳国に妙な動きがないか、王都での噂が後宮に流れては来ぬかと玲華は耳をそばだてている。これは次兄である愁飛との約束だ。
ただ、状況は変わった。
皇子である宣凌星が、侍女として玲華の元へやって来たのだ。むろん、名目は見張りだ。皇女である蒼海を正しく育てているかどうか、という。
蒼海は未来を視る力がある。もっとも、ほんのちょっとだけ。子供の言葉なので、未来を語っても断片的であるし、要領を得ないことも多い。それでも蒼海の能力で、幽閉された郭貴妃を救うことができた。
「あれは……素晴らしかったですよ。蒼海さま」
「ほんと? やったぁ!」
玲華の耳もとではしゃぐ声が聞こえた。そして、衝撃。どすん! とお腹に重みを感じる。
「うっ」
やられた。玲華は絶句した。というか息ができない。口から何かが出てきてしまいそう。
「……蒼海さま。そういう起こし方は、よくないと……何度も、言ってる……」
「はぁい。きをつけるね」
嘘だ。蒼海はその約束をすでに五回は破っている。
「やれやれ。とんだおてんば皇女だな」
少し低めの声が聞こえて、ふいに玲華の体は軽くなった。侍女の紫安となった、凌星皇子だ。どうやら玲華のお腹の辺りに乗っかっていた蒼海を持ちあげたようだ。
「やだぁ。おろして、ズーアン。きらいっ」
「こらこら。人を嫌いと言うものではない。蒼海とて、私から『嫌い』と言われたら、つらかろう?」
凌星にわきを抱えられて、足をぶらぶらさせた蒼海は「へいき」と無情に言い放った。
「す、少しくらいはつらいとか、悲しいとか、寂しいとか、ないのか?」
動揺した様子で問いかける凌星の腕から、蒼海はするりと逃げてしまった。そしてまた天蓋付きの寝台である架子牀で上体を起こした玲華に、飛びついてくるのだ。
「説明をしてくれないか? 蒼海皇女。どうして私はダメなのだ?」
凌星は明らかにおろおろとして、視線が泳いでいる。皇子さまは案外、打たれ弱い。
というか、見せかけの立場は侍女だけれど。皇子が皇帝陛下の嬪の寝室に入ってくるのもどうかと思う。まあ、玲華の立場も見せかけで、陛下の渡りもないけれど。
「顔を洗ってきなさい、時修媛。朝食の時間だ」
今のところは主であるはずの玲華に、凌星が命じる。まぁ、もう慣れたけど、と玲華は肩をすくめた。
部屋に運ばれてきた朝食は、大餅と豆醤だ。大餅は小麦粉を練り、平たく焼いたものだ。葱を入れた塩味のものもあるが。今朝は胡麻と砂糖が入った甘い大餅だ。
「焼きたてですから、お早くお召し上がりください」
卓の上に朝食を並べながら、侍女頭の任春が言葉を添える。
「やきたて。さくさく、だよ」
「そうですね。蒼海さま。温かいうちにいただきましょう」
「うん」と、蒼海は笑顔で玲華に答えた。
玲華は両手で裂くように、大餅をちぎった。かりっと焼けた表面と、層になった中の生地が見るからにおいしそうだ。蒼海は、そのままちぎらずに大餅にかじりついている。
「蒼海さま。こうやって、一口ずつの大きさにしましょうね」
「もごもご」
蒼海は咀嚼をしながら頷いているが。「やはりちゃんと躾けた方がいいんだろうな」という気持ちと「せっかくおいしく食べているんだから。このままでも」という相反する気持ちが、玲華の中でせめぎ合う。
「あのね、リンホアさまも、たべて、たべて。おいしいよ」
口の周りに胡麻をつけたまま、蒼海は満面の笑顔を浮かべる。黒翡翠の瞳が細められて、これでもかと愛らしさをふりまいている。
か、かわいい。玲華は、大餅を口に運ぶのも忘れて、蒼海に見とれてしまった。
思えば蒼海は、とにかく玲華に食べさせたがる。
少しでも食が進まないと「リンホアさま、たべないと『めっ』だよ」と口を尖らせたり。暑さに弱い玲華に「レンチュンがね、のみなさいって、いったの」と涼茶を勧めてくれる。
実際は玲華が保護者であるのに。まるで蒼海の方が、玲華の面倒を見ているかのようだ。
まぁ、任春は主である玲華に決して「飲みなさい」とは命じないのだが。きっと蒼海が、暑気あたりに参っている玲華を案じて涼茶を用意するように頼んでくれたのだろう。
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