19 / 19
19、名前で呼んで
しおりを挟む
(欲しいものと尋ねられても、なにかしら)
ミリアムには思いつかない。
レオンと毎日いっしょにいられることが、うれしいし。花なら、屋敷の庭にたくさん咲いている。レースのついた白い手袋も、フリルのついも日傘はおとなっぽくて憧れるけれど。
日頃は麦わら帽子をかぶっている十二歳のミリアムにはまだ似合わない。
「そうだわ」
ひらめいた。いちばんほしいもの。
「おっ。思いついたか?」
「はい。ぜひお兄さまにお願いしたいことがあります」
「貴重なものかな、それは」
レオンが背筋を伸ばす。
「もし舶来の品なら、取り寄せるのに時間がかかるかもしれないが」
「いいえ、すぐに用意できるものですよ」
「海岸通りの店に売っている?」
ふるふるとミリアムは首をふった。
ベリーがふんだんにのったケーキはすでに食べ終わり、銀のフォークはお皿にのせてある。
ミリアムは深呼吸をした。
「名前で呼んでいただきたいの」
「ストランド男爵令嬢」
即答だ。
「ちがうの。それは家名のほうでしょ。わたしが呼んでほしいのはファーストネーム、です」
「いや、さすがにそれは。たしかに以前も、きみはそう言っていたが」
寄宿制の男子校出身のレオンには、女性を名前で呼ぶという考えがそもそもないらしい。
「でも、いちど名前で呼んでくださったわ」
「いつ?」
「男が乱入してきたときです」
「あー、ああ」
今日の昼間のことは、すでに遠い記憶になってしまっているのか。テラスの天井に答えでも書いてあるものなのか、レオンは視線を上げた。
(ほんとうは寝言でも呼んでくださったけれど、それは数のうちに入らないと思うから、内緒)
「呼んだかな?」
「呼びましたよ」
「あれは非常事態だからな。とっさのことだ」
「まぁ。なんでもいいってお兄さまはおっしゃったわ。ミリアムの頼みを聞いていただけないの?」
「うっ」
レオンはくちごもった。
おさない少女が、強面の青年に詰め寄っているものだから、道行く人たちが興味深そうに視線をむける。
店員さんは、素知らぬふりをしてくれているけれど。
(でも、この機会をのがすわけにはいかないもの)
「わかった……わかったから」
そう答えてからも、レオンの口はなかなか動かなかった。
すこし唇をひらいたかと思うと、すぐに閉じてしまう。
退屈したのか、足もとで丸まっているブルーノが、ふあぁと大きなあくびをした。
まるで「なーんでそんな簡単なことができないの?」と、呆れているかのよう。
(がんばって。お兄さま)
心のなかで応援しているつもりが、ミリアムは両手をお祈りの形に組んでいた。
「ミ……ミリ」
(あとすこし。もうすこし)
「ミリア……」
(あとは「ム」だけです)
とうとう道行く人たちが、立ちどまってしまった。けれど緊張しているレオンは、テラス席から海が見えなくなったことにも気づかない。
きつくまぶたを閉じて、レオンは左右のこぶしをテーブルの上で握っている。
「ミリアムっ」
「はいっ」
まるで怒鳴るような大声だったけれど。ミリアムの目には、うれしい涙がにじんでいた。
まるでさざ波のように、観衆の拍手が聞こえる。
まだ目を開けることのできないレオンの顔は赤い。
きっと通りすがりの人たちに見られていることを知ったら、恥ずかしくて悶え死んでしまうかもしれない。レオンの心が。
でも、今だけは。必死に照れを隠そうとしているお兄さまを見ていたい。
「これで……いいですか? ストランド男爵令嬢」
「あら、ミリアムですよ」
「……ミリアム」
今にも消え入りそうな声だった。
きっとこんなレオンを誰も知らない。自分しかレオンを困らせることもないし、照れさせることもない。
(レオンお兄さま。なんてお可愛らしいの)
いつもお人形のように愛らしいと褒められるばかりのミリアムにとって、初めての感情だった。
カップの底に砂糖がいくつも溶け残っていることに、レオンは今になって気づいたようだ。
常々、ベルガモットなどの香りをつけた紅茶に、砂糖やミルクをいれるのは無粋だと考えているレオンなので、新しいカップを店員に持ってきてもらった。
それと、ミリアムのぶんのケーキをもうひとつ注文する。
カウンターでミリアムが迷いに迷っていたミラベルのタルトだ。
「ひとつ、俺からの頼みも聞いてもらってもいいかな」
次の注文の品が運ばれる前に、レオンがまじめな面持ちで話しはじめた。
ミラベルのタルト。ああ、おとなのお味。
きらめく黄金色の果実のことを考えると、ミリアムの心ははずむ。
「はい、いいですよ」
上の空で返事してしまったのが、間違いだった。
「お兄さま、ではなく、レオンと呼んでほしいのだが」
「えっ? レオンお兄さまとお呼びしていますよ。ほら、お名前じゃないですか」
「まぁ、そうなんだが。ちょっと違うんだよな」
新しいカップが運ばれてきて、レオンの前に置かれる。青い花もようの描かれた磁器は、白く濡れたような光を宿している。
ミリアムの目の前には、念願のミラベルのタルトが。
温めなおしてあるのか、甘く芳醇な香りがふわっと鼻をくすぐる。
「レオンさま、でどうですか?」
「うーん。よそよそしいというか」
「でも、年長者に対して呼び捨てというのは気がひけます」
「俺も、年の離れたお嬢さんを呼び捨てにするのは勇気がいるぞ。ほら、俺のことを名前で呼ばないと、タルトが冷めてしまうぞ」
「う、ううっ」
形勢逆転だ。
なかなか言葉を発することのできないミリアムは、レオンは涼しい顔をして紅茶を飲みながら眺めている。
その琥珀色の瞳は、とても楽しそうに細められた。
ミリアムには思いつかない。
レオンと毎日いっしょにいられることが、うれしいし。花なら、屋敷の庭にたくさん咲いている。レースのついた白い手袋も、フリルのついも日傘はおとなっぽくて憧れるけれど。
日頃は麦わら帽子をかぶっている十二歳のミリアムにはまだ似合わない。
「そうだわ」
ひらめいた。いちばんほしいもの。
「おっ。思いついたか?」
「はい。ぜひお兄さまにお願いしたいことがあります」
「貴重なものかな、それは」
レオンが背筋を伸ばす。
「もし舶来の品なら、取り寄せるのに時間がかかるかもしれないが」
「いいえ、すぐに用意できるものですよ」
「海岸通りの店に売っている?」
ふるふるとミリアムは首をふった。
ベリーがふんだんにのったケーキはすでに食べ終わり、銀のフォークはお皿にのせてある。
ミリアムは深呼吸をした。
「名前で呼んでいただきたいの」
「ストランド男爵令嬢」
即答だ。
「ちがうの。それは家名のほうでしょ。わたしが呼んでほしいのはファーストネーム、です」
「いや、さすがにそれは。たしかに以前も、きみはそう言っていたが」
寄宿制の男子校出身のレオンには、女性を名前で呼ぶという考えがそもそもないらしい。
「でも、いちど名前で呼んでくださったわ」
「いつ?」
「男が乱入してきたときです」
「あー、ああ」
今日の昼間のことは、すでに遠い記憶になってしまっているのか。テラスの天井に答えでも書いてあるものなのか、レオンは視線を上げた。
(ほんとうは寝言でも呼んでくださったけれど、それは数のうちに入らないと思うから、内緒)
「呼んだかな?」
「呼びましたよ」
「あれは非常事態だからな。とっさのことだ」
「まぁ。なんでもいいってお兄さまはおっしゃったわ。ミリアムの頼みを聞いていただけないの?」
「うっ」
レオンはくちごもった。
おさない少女が、強面の青年に詰め寄っているものだから、道行く人たちが興味深そうに視線をむける。
店員さんは、素知らぬふりをしてくれているけれど。
(でも、この機会をのがすわけにはいかないもの)
「わかった……わかったから」
そう答えてからも、レオンの口はなかなか動かなかった。
すこし唇をひらいたかと思うと、すぐに閉じてしまう。
退屈したのか、足もとで丸まっているブルーノが、ふあぁと大きなあくびをした。
まるで「なーんでそんな簡単なことができないの?」と、呆れているかのよう。
(がんばって。お兄さま)
心のなかで応援しているつもりが、ミリアムは両手をお祈りの形に組んでいた。
「ミ……ミリ」
(あとすこし。もうすこし)
「ミリア……」
(あとは「ム」だけです)
とうとう道行く人たちが、立ちどまってしまった。けれど緊張しているレオンは、テラス席から海が見えなくなったことにも気づかない。
きつくまぶたを閉じて、レオンは左右のこぶしをテーブルの上で握っている。
「ミリアムっ」
「はいっ」
まるで怒鳴るような大声だったけれど。ミリアムの目には、うれしい涙がにじんでいた。
まるでさざ波のように、観衆の拍手が聞こえる。
まだ目を開けることのできないレオンの顔は赤い。
きっと通りすがりの人たちに見られていることを知ったら、恥ずかしくて悶え死んでしまうかもしれない。レオンの心が。
でも、今だけは。必死に照れを隠そうとしているお兄さまを見ていたい。
「これで……いいですか? ストランド男爵令嬢」
「あら、ミリアムですよ」
「……ミリアム」
今にも消え入りそうな声だった。
きっとこんなレオンを誰も知らない。自分しかレオンを困らせることもないし、照れさせることもない。
(レオンお兄さま。なんてお可愛らしいの)
いつもお人形のように愛らしいと褒められるばかりのミリアムにとって、初めての感情だった。
カップの底に砂糖がいくつも溶け残っていることに、レオンは今になって気づいたようだ。
常々、ベルガモットなどの香りをつけた紅茶に、砂糖やミルクをいれるのは無粋だと考えているレオンなので、新しいカップを店員に持ってきてもらった。
それと、ミリアムのぶんのケーキをもうひとつ注文する。
カウンターでミリアムが迷いに迷っていたミラベルのタルトだ。
「ひとつ、俺からの頼みも聞いてもらってもいいかな」
次の注文の品が運ばれる前に、レオンがまじめな面持ちで話しはじめた。
ミラベルのタルト。ああ、おとなのお味。
きらめく黄金色の果実のことを考えると、ミリアムの心ははずむ。
「はい、いいですよ」
上の空で返事してしまったのが、間違いだった。
「お兄さま、ではなく、レオンと呼んでほしいのだが」
「えっ? レオンお兄さまとお呼びしていますよ。ほら、お名前じゃないですか」
「まぁ、そうなんだが。ちょっと違うんだよな」
新しいカップが運ばれてきて、レオンの前に置かれる。青い花もようの描かれた磁器は、白く濡れたような光を宿している。
ミリアムの目の前には、念願のミラベルのタルトが。
温めなおしてあるのか、甘く芳醇な香りがふわっと鼻をくすぐる。
「レオンさま、でどうですか?」
「うーん。よそよそしいというか」
「でも、年長者に対して呼び捨てというのは気がひけます」
「俺も、年の離れたお嬢さんを呼び捨てにするのは勇気がいるぞ。ほら、俺のことを名前で呼ばないと、タルトが冷めてしまうぞ」
「う、ううっ」
形勢逆転だ。
なかなか言葉を発することのできないミリアムは、レオンは涼しい顔をして紅茶を飲みながら眺めている。
その琥珀色の瞳は、とても楽しそうに細められた。
0
お気に入りに追加
623
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(3件)
あなたにおすすめの小説
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
氷のメイドが辞職を伝えたらご主人様が何度も一緒にお出かけするようになりました
まさかの
恋愛
「結婚しようかと思います」
あまり表情に出ない氷のメイドとして噂されるサラサの一言が家族団欒としていた空気をぶち壊した。
ただそれは田舎に戻って結婚相手を探すというだけのことだった。
それに安心した伯爵の奥様が伯爵家の一人息子のオックスが成人するまでの一年間は残ってほしいという頼みを受け、いつものようにオックスのお世話をするサラサ。
するとどうしてかオックスは真面目に勉強を始め、社会勉強と評してサラサと一緒に何度もお出かけをするようになった。
好みの宝石を聞かれたり、ドレスを着せられたり、さらには何度も自分の好きな料理を食べさせてもらったりしながらも、あくまでも社会勉強と言い続けるオックス。
二人の甘酸っぱい日々と夫婦になるまでの物語。
【完結】長い眠りのその後で
maruko
恋愛
伯爵令嬢のアディルは王宮魔術師団の副団長サンディル・メイナードと結婚しました。
でも婚約してから婚姻まで一度も会えず、婚姻式でも、新居に向かう馬車の中でも目も合わせない旦那様。
いくら政略結婚でも幸せになりたいって思ってもいいでしょう?
このまま幸せになれるのかしらと思ってたら⋯⋯アレッ?旦那様が2人!!
どうして旦那様はずっと眠ってるの?
唖然としたけど強制的に旦那様の為に動かないと行けないみたい。
しょうがないアディル頑張りまーす!!
複雑な家庭環境で育って、醒めた目で世間を見ているアディルが幸せになるまでの物語です
全50話(2話分は登場人物と時系列の整理含む)
※他サイトでも投稿しております
ご都合主義、誤字脱字、未熟者ですが優しい目線で読んで頂けますと幸いです
料理スキルで完璧な料理が作れるようになったから、異世界を満喫します
黒木 楓
恋愛
隣の部屋の住人というだけで、女子高生2人が行った異世界転移の儀式に私、アカネは巻き込まれてしまう。
どうやら儀式は成功したみたいで、女子高生2人は聖女や賢者といったスキルを手に入れたらしい。
巻き込まれた私のスキルは「料理」スキルだけど、それは手順を省略して完璧な料理が作れる凄いスキルだった。
転生者で1人だけ立場が悪かった私は、こき使われることを恐れてスキルの力を隠しながら過ごしていた。
そうしていたら「お前は不要だ」と言われて城から追い出されたけど――こうなったらもう、異世界を満喫するしかないでしょう。
転生おばさんは有能な侍女
吉田ルネ
恋愛
五十四才の人生あきらめモードのおばさんが転生した先は、可憐なお嬢さまの侍女でした
え? 婚約者が浮気? え? 国家転覆の陰謀?
転生おばさんは忙しい
そして、新しい恋の予感……
てへ
豊富な(?)人生経験をもとに、お嬢さまをおたすけするぞ!
王太子エンドを迎えたはずのヒロインが今更私の婚約者を攻略しようとしているけどさせません
黒木メイ
恋愛
日本人だった頃の記憶があるクロエ。
でも、この世界が乙女ゲームに似た世界だとは知らなかった。
知ったのはヒロインらしき人物が落とした『攻略ノート』のおかげ。
学園も卒業して、ヒロインは王太子エンドを無事に迎えたはずなんだけど……何故か今になってヒロインが私の婚約者に近づいてきた。
いったい、何を考えているの?!
仕方ない。現実を見せてあげましょう。
と、いうわけでクロエは婚約者であるダニエルに告げた。
「しばらくの間、実家に帰らせていただきます」
突然告げられたクロエ至上主義なダニエルは顔面蒼白。
普段使わない頭を使ってクロエに戻ってきてもらう為に奮闘する。
※わりと見切り発車です。すみません。
※小説家になろう様にも掲載。(7/21異世界転生恋愛日間1位)
行き遅れにされた女騎士団長はやんごとなきお方に愛される
めもぐあい
恋愛
「ババアは、早く辞めたらいいのにな。辞めれる要素がないから無理か? ギャハハ」
ーーおーい。しっかり本人に聞こえてますからねー。今度の遠征の時、覚えてろよ!!
テレーズ・リヴィエ、31歳。騎士団の第4師団長で、テイム担当の魔物の騎士。
『テレーズを陰日向になって守る会』なる組織を、他の師団長達が作っていたらしく、お陰で恋愛経験0。
新人訓練に潜入していた、王弟のマクシムに外堀を埋められ、いつの間にか女性騎士団の団長に祭り上げられ、マクシムとは公認の仲に。
アラサー女騎士が、いつの間にかやんごとなきお方に愛されている話。
【完結】せっかくモブに転生したのに、まわりが濃すぎて逆に目立つんですけど
monaca
恋愛
前世で目立って嫌だったわたしは、女神に「モブに転生させて」とお願いした。
でも、なんだか周りの人間がおかしい。
どいつもこいつも、妙にキャラの濃いのが揃っている。
これ、普通にしているわたしのほうが、逆に目立ってるんじゃない?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
続きが読みたいです。是非!
canaさま、感想ありがとうございます。そう仰ってくださると、とてもうれしいです。
なんだか可愛いお話でほこほこします。海辺の素敵なレストランと年の離れた婚約者。翻弄されるのは実はどちらなのか。続きが楽しみです。
松竹梅さま、感想ありがとうございます。これは、なかなか鋭くていらっしゃいますね。
読みながらホッコリしてます(*'▽'*)
ブルーノは、お利口さんなワンちゃんですね😊
サラサさま、感想ありがとうございます。ブルーノは、周囲の雰囲気を察して気をつかうタイプなのかも。