幼い令嬢は、婚約者に名前で呼んでもらいたい~お兄さまとおいしいご飯~

絹乃

文字の大きさ
上 下
8 / 19

8、なでてもらいたい

しおりを挟む
 洗い物を終えて、菩提樹の下の草地においたザルに器や皿をいれて乾燥させる。

 お客さま用の椅子は大きくて、ミリアムの足はちょうど地面に届かない。足下ではまるで猫のように、ブルーノがまるくなって眠っている。
 炭の始末を終えたレオンが、となりの椅子に腰をおろした。

「ブルーノは、ストランド男爵令嬢のことがお気に入りだな」
「ずっとくっついてますよ」
「犬は素直だからな」

 午後になり凪の時間で、風はとまっている。夕暮れにはまだ早い時刻だけれど、空の青さは透明さを増していた。
 ちらっと隣のレオンを見あげると、ただ静かに海を眺めている。

(名前で呼んでくれないかな?)

 ひざの上で組んだ両手の指を動かしながら、ミリアムは「呼んで」「ミリアムって呼んで」と念じ続けた。

「ストランド男爵令嬢」
「ちがうー」

 とっさに出てしまった言葉に、ミリアムのほおが熱くなる。

「ちがうって、何が?」
「いいえ。なんにもちがいません。ちがいませんとも、でございます」

 もはや言葉がおかしいことにも、気づいていない。
 レオンは細かいことは気にならない性質なのか「そうか」と、さらっと流す。

 ああ、そんなところも素敵。ねちねちした人って、苦手だもの。

「ストランド男爵令嬢は、俺よりも気遣いができるのだな」
「どういうことですか?」
「女性客のことだよ」

 レオンが上体をかがめて、ブルーノの頭をなでる。耳をぴくりと動かしたけれど、ブルーノは起きることはなかった。

(あ、わたしもなでてもらいたい)

 思わず身をのりだしたミリアムに、レオンは「ん?」と首をかしげる。

「どうかしたのか?」
「いえいえ、なんでもありませんよ」

 言えない。
 名前ですら呼んでもらえないのに、頭をなでてほしいだなんて。

 こほん、と咳払いをしてミリアムは姿勢をただした。
 そもそもレディは咳払いなどしないことに、気づいていない。
 そんなミリアムのことを、レオンはおもしろそうに眺めている。

「マナーは大事です。でも、ときにはお行儀の悪いものも食べてみたい気持ちもわかります」

 だって、マナーに縛られた日々は窮屈でしかたがないから。

 どうにかならないのかしら。
 外でのお食事は、ピクニックなら女性だってできる。
 でも、持参するのはタルトやサンドイッチ、チーズに果物、それにワイン。いくら手で食べるといっても、サンドイッチはそれがあたりまえだから。

 ぼうっと海を眺めていると、水天一碧。海も空も混然となった青いなかに、帆を張る舟がみえた。
 風がないので白い帆の舟は、沖にとまったまま。

「レオンお兄さま。あれです」

 ミリアムは立ちあがった。
 
◇◇◇

 夕暮れ前に家に戻ったミリアムは、メイドに頼んで布を用意してもらった。
 部屋にもってきてもらったのは、あわいむらさきのライラックの花の色の布の束。
 
「なにをなさるんですか? お嬢さま」
「刺繍をするのよ」
「まぁっ」

 なぜかメイドは涙ぐんだ瞳で、ほおを赤らめた。

「奥さまがお喜びになります。刺繍もお勉強も大嫌いなお嬢さまが、みずから刺繍を……御幼少のみぎりからお仕えいたした甲斐があるというもの」

 メイドは涙をハンカチでぬぐった。

「おおげさね」
「でも、ハンカチにしては布が大きすぎませんか? しかもリネンですから、かたいのでは?」
「日よけというか、目隠しというか。柔らかくない方がいいの」
「は?」
「さぁ。ざくざく縫うわよ」

 刺繍はとても繊細なもの。けっしてざくざく縫うものではありません、と口にしたいのをメイドはかろうじてこらえた。

 ミリアムは華奢で、その透けるような白い肌もはちみつ色の瞳も、ラベンダーの瞳も、すべてが彼女をはかなく見せている。

 虚弱なのに、度胸があって力技で押していくかただったわ。
 メイドのため息は、暮れかけた空に消えた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

妹に婚約者を取られましたが、辺境で楽しく暮らしています

今川幸乃
ファンタジー
おいしい物が大好きのオルロンド公爵家の長女エリサは次期国王と目されているケビン王子と婚約していた。 それを羨んだ妹のシシリーは悪い噂を流してエリサとケビンの婚約を破棄させ、自分がケビンの婚約者に収まる。 そしてエリサは田舎・偏屈・頑固と恐れられる辺境伯レリクスの元に厄介払い同然で嫁に出された。 当初は見向きもされないエリサだったが、次第に料理や作物の知識で周囲を驚かせていく。 一方、ケビンは極度のナルシストで、エリサはそれを知っていたからこそシシリーにケビンを譲らなかった。ケビンと結ばれたシシリーはすぐに彼の本性を知り、後悔することになる。

【完結】婚約者を譲れと言うなら譲ります。私が欲しいのはアナタの婚約者なので。

海野凛久
恋愛
【書籍絶賛発売中】 クラリンス侯爵家の長女・マリーアンネは、幼いころから王太子の婚約者と定められ、育てられてきた。 しかしそんなある日、とあるパーティーで、妹から婚約者の地位を譲るように迫られる。 失意に打ちひしがれるかと思われたマリーアンネだったが―― これは、初恋を実らせようと奮闘する、とある令嬢の物語――。 ※第14回恋愛小説大賞で特別賞頂きました!応援くださった皆様、ありがとうございました! ※主人公の名前を『マリ』から『マリーアンネ』へ変更しました。

拾った仔猫の中身は、私に嘘の婚約破棄を言い渡した王太子さまでした。面倒なので放置したいのですが、仔猫が気になるので救出作戦を実行します。

石河 翠
恋愛
婚約者に婚約破棄をつきつけられた公爵令嬢のマーシャ。おバカな王子の相手をせずに済むと喜んだ彼女は、家に帰る途中なんとも不細工な猫を拾う。 助けを求めてくる猫を見捨てられず、家に連れて帰ることに。まるで言葉がわかるかのように賢い猫の相手をしていると、なんと猫の中身はあの王太子だと判明する。猫と王子の入れ替わりにびっくりする主人公。 バカは傀儡にされるくらいでちょうどいいが、可愛い猫が周囲に無理難題を言われるなんてあんまりだという理由で救出作戦を実行することになるが……。 もふもふを愛するヒロインと、かまってもらえないせいでいじけ気味の面倒くさいヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は写真ACより pp7さまの作品をお借りしております。

【番外編】小さな姫さまは護衛騎士に恋してる

絹乃
恋愛
主従でありながら結婚式を挙げた護衛騎士のアレクと王女マルティナ。戸惑い照れつつも新婚2人のいちゃいちゃ、ラブラブの日々。また彼らの周囲の人々の日常を穏やかに優しく綴ります。※不定期更新です。一応Rをつけておきます。

芋女の私になぜか完璧貴公子の伯爵令息が声をかけてきます。

ありま氷炎
恋愛
貧乏男爵令嬢のマギーは、学園を好成績で卒業し文官になることを夢見ている。 そんな彼女は学園では浮いた存在。野暮ったい容姿からも芋女と陰で呼ばれていた。 しかしある日、女子に人気の伯爵令息が声をかけてきて。そこから始まる彼女の物語。

体を乗っ取られ、意地悪な妹になりましたが、婚約者の王太子は真実の愛に気づいたようです

絹乃
恋愛
王太子妃になることが決定している侯爵令嬢のユーリアは、突然、ウエキという女性の魂に体を乗っ取られる。ウエキは、ユーリアの婚約者である王太子だけではなく、姉の婚約者の騎士までも自分のものにしようとする。これは体を乗っ取られて未来を奪われたユーリアが、大切なものを取り戻して、幸せになるお話です。

冷徹公に嫁いだ可哀想なお姫様

さくたろう
恋愛
 役立たずだと家族から虐げられている半身不随の姫アンジェリカ。味方になってくれるのは従兄弟のノースだけだった。  ある日、姉のジュリエッタの代わりに大陸の覇者、冷徹公の異名を持つ王マイロ・カースに嫁ぐことになる。  恐ろしくて震えるアンジェリカだが、マイロは想像よりもはるかに優しい人だった。アンジェリカはマイロに心を開いていき、マイロもまた、心が美しいアンジェリカに癒されていく。 ※小説家になろう様にも掲載しています いつか設定を少し変えて、長編にしたいなぁと思っているお話ですが、ひとまず短編のまま投稿しました。

ケダモノ王子との婚約を強制された令嬢の身代わりにされましたが、彼に溺愛されて私は幸せです。

ぽんぽこ@書籍発売中!!
恋愛
「ミーア=キャッツレイ。そなたを我が息子、シルヴィニアス王子の婚約者とする!」 王城で開かれたパーティに参加していたミーアは、国王によって婚約を一方的に決められてしまう。 その婚約者は神獣の血を引く者、シルヴィニアス。 彼は第二王子にもかかわらず、次期国王となる運命にあった。 一夜にして王妃候補となったミーアは、他の令嬢たちから羨望の眼差しを向けられる。 しかし当のミーアは、王太子との婚約を拒んでしまう。なぜならば、彼女にはすでに別の婚約者がいたのだ。 それでも国王はミーアの恋を許さず、婚約を破棄してしまう。 娘を嫁に出したくない侯爵。 幼馴染に想いを寄せる令嬢。 親に捨てられ、救われた少女。 家族の愛に飢えた、呪われた王子。 そして玉座を狙う者たち……。 それぞれの思いや企みが交錯する中で、神獣の力を持つ王子と身代わりの少女は真実の愛を見つけることができるのか――!? 表紙イラスト/イトノコ(@misokooekaki)様より

処理中です...