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15、ナイフ
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十日後。聖なるお酒ができあがった。
夜明け前に、ハーブのエキスが溶けこんだお酒を、わたしは自室のテーブルに置いた。
最近のウエキは、午前中からお酒を飲むことが増えた。
「おかしいわよね。わたしは、誰よりもあなたのことが嫌いなのに。誰よりもあなたのことを考えているわ」
わたしの予想通り、ウエキは聖なるお酒を毎日のように飲んだ。「変な味」と文句を言いながらも、お酒であれば構わないらしい。
そして、ウエキは沈みこむことが多くなった。
「あの時だって、ミスはあたしのせいじゃないのに。どうして、いっつもあたしを悪者にするのよ」
「あーあ、いいわよね。若い子は。泣けば許されると思ってるんだから。あたしが泣いたって、誰も庇ってくれないし。見て見ぬふりをするくせに」
「パワハラされたって、言ったのに。どうしてパワハラされたあたしが説教されるのよ。あたしのどこが悪いのよ」
最初の頃は怒鳴っていた声が、聖女のお酒の量が増えるたびにか細くなっていく。
ウエキは、過去の嫌なことばかりを反芻しているようだった。
「あーあ。久しぶりにクルミに会いたくなっちゃった。めったに会わないけど、実家に戻れば、あの子はあたしに尻尾をちぎれんばかりに振ってくれるのよね」
ふと、短毛で茶色い、ふさふさの巻いた尻尾の犬が見えた気がした。
薄暮に染まった空は、庭の木々や花を静かな青に染めている。
夕暮れの風に乗って、美しい弦楽器の音色が聞こえた。
アマリアお姉さまが、すっと立ってバイオリンを奏でているのが、窓から見える。もう庭師も仕事を終えて、庭にはお姉さまだけだ。
「ああいう華奢な奴は、すぐに弱さをアピールするのよ。どこにいっても、繊細ぶった奴が、あたしを追い詰めていく。『上木さんは人の心が分からないのよ』って。周囲の人間に守られて、あたしを一方的に責め立てて」
許さない、とウエキの脳内に濁った声が響いた。
机の引き出しにしまってあるナイフを、ウエキは取りだした。
わたしが刃の部分に布を何重にも巻いておいたことに、ウエキは気づかない。
「あんたのせいで。あんたらのせいで」
ぶつぶつと呟きながら、ウエキは階段を駆け下りる。
酔っぱらったウエキは、何度か足を踏み外しそうになった。
(止まりなさいっ)
そう命じても、この体は今はウエキの意識に支配されている。わたしの言葉も意思も届きはしない。
使用人たちが、荒れ狂ったウエキを止めようとした。
けれど、日ごろの怠惰な彼女からは想像もできないほどの動きの速さで、ウエキはすり抜けた。
外に出たウエキは、庭へと走った。スカートの裾をひるがえし、アマリアお姉さまへと向かう。
「あんたはあたしの姉なんでしょ。だったら、これが夢じゃないって。どうして真っ先に知らせないのよ。あんたが、あたしを陥れたいから、教えなかったんでしょ」
ウエキは、ナイフに巻かれていた布を外した。
アマリアお姉さまは、恐怖のあまり立ち尽くしている。
地面に落ちていくバイオリンと弓。ナイフから外された白い布を、風がさらった。
お姉さまの胸に、ウエキがナイフを突きたてようとする。
(やめなさいっ)
わたしは叫んだ。
その時、ひときわ強い風が起こった。黒いマントが、風をはらんで翻る。
黒い袖に包まれた腕が、お姉さまをかばった。
「エリクさまっ!」
お姉さまの声が、庭に響く。エリクさまの腕が、ナイフを防いだ。
「なんてことを。お怪我は?」
「大丈夫だ。怪我はない」
地面に落ちたナイフを、エリクさまが見据えている。そこにあるはず刀身は、存在しなかった。木製のハンドル部分だけが残り、その先に残っているのは折れた板だった。
(よかった)
わたしは、ほっと息をついた。
わたしの部屋からは見えなかっただけで、アマリアお姉さまはおひとりではなかったのだ。
ウエキが事件を起こす前に、彼女が寝ている間にわたしはナイフを入れ替えておいた。
古くなり壊れたナイフを、屋敷の裏にあるゴミ置き場から拾ってきた。ハンドルだけしかなかったので、危険でもないしちょうど良かったけれど。
刀身がないので、板をくっつけておいた。それから布をぐるぐる巻いて、ウエキにばれぬように小細工を施したのだ。
大雑把なウエキは、ナイフのハンドルそのものが違うことも、自分では巻いたはずのない布に関しても気に留めなかった。
「なによ。なんなのよっ」
ウエキは絶叫した。酒臭い息が、夕暮れの風に溶けた。
夜明け前に、ハーブのエキスが溶けこんだお酒を、わたしは自室のテーブルに置いた。
最近のウエキは、午前中からお酒を飲むことが増えた。
「おかしいわよね。わたしは、誰よりもあなたのことが嫌いなのに。誰よりもあなたのことを考えているわ」
わたしの予想通り、ウエキは聖なるお酒を毎日のように飲んだ。「変な味」と文句を言いながらも、お酒であれば構わないらしい。
そして、ウエキは沈みこむことが多くなった。
「あの時だって、ミスはあたしのせいじゃないのに。どうして、いっつもあたしを悪者にするのよ」
「あーあ、いいわよね。若い子は。泣けば許されると思ってるんだから。あたしが泣いたって、誰も庇ってくれないし。見て見ぬふりをするくせに」
「パワハラされたって、言ったのに。どうしてパワハラされたあたしが説教されるのよ。あたしのどこが悪いのよ」
最初の頃は怒鳴っていた声が、聖女のお酒の量が増えるたびにか細くなっていく。
ウエキは、過去の嫌なことばかりを反芻しているようだった。
「あーあ。久しぶりにクルミに会いたくなっちゃった。めったに会わないけど、実家に戻れば、あの子はあたしに尻尾をちぎれんばかりに振ってくれるのよね」
ふと、短毛で茶色い、ふさふさの巻いた尻尾の犬が見えた気がした。
薄暮に染まった空は、庭の木々や花を静かな青に染めている。
夕暮れの風に乗って、美しい弦楽器の音色が聞こえた。
アマリアお姉さまが、すっと立ってバイオリンを奏でているのが、窓から見える。もう庭師も仕事を終えて、庭にはお姉さまだけだ。
「ああいう華奢な奴は、すぐに弱さをアピールするのよ。どこにいっても、繊細ぶった奴が、あたしを追い詰めていく。『上木さんは人の心が分からないのよ』って。周囲の人間に守られて、あたしを一方的に責め立てて」
許さない、とウエキの脳内に濁った声が響いた。
机の引き出しにしまってあるナイフを、ウエキは取りだした。
わたしが刃の部分に布を何重にも巻いておいたことに、ウエキは気づかない。
「あんたのせいで。あんたらのせいで」
ぶつぶつと呟きながら、ウエキは階段を駆け下りる。
酔っぱらったウエキは、何度か足を踏み外しそうになった。
(止まりなさいっ)
そう命じても、この体は今はウエキの意識に支配されている。わたしの言葉も意思も届きはしない。
使用人たちが、荒れ狂ったウエキを止めようとした。
けれど、日ごろの怠惰な彼女からは想像もできないほどの動きの速さで、ウエキはすり抜けた。
外に出たウエキは、庭へと走った。スカートの裾をひるがえし、アマリアお姉さまへと向かう。
「あんたはあたしの姉なんでしょ。だったら、これが夢じゃないって。どうして真っ先に知らせないのよ。あんたが、あたしを陥れたいから、教えなかったんでしょ」
ウエキは、ナイフに巻かれていた布を外した。
アマリアお姉さまは、恐怖のあまり立ち尽くしている。
地面に落ちていくバイオリンと弓。ナイフから外された白い布を、風がさらった。
お姉さまの胸に、ウエキがナイフを突きたてようとする。
(やめなさいっ)
わたしは叫んだ。
その時、ひときわ強い風が起こった。黒いマントが、風をはらんで翻る。
黒い袖に包まれた腕が、お姉さまをかばった。
「エリクさまっ!」
お姉さまの声が、庭に響く。エリクさまの腕が、ナイフを防いだ。
「なんてことを。お怪我は?」
「大丈夫だ。怪我はない」
地面に落ちたナイフを、エリクさまが見据えている。そこにあるはず刀身は、存在しなかった。木製のハンドル部分だけが残り、その先に残っているのは折れた板だった。
(よかった)
わたしは、ほっと息をついた。
わたしの部屋からは見えなかっただけで、アマリアお姉さまはおひとりではなかったのだ。
ウエキが事件を起こす前に、彼女が寝ている間にわたしはナイフを入れ替えておいた。
古くなり壊れたナイフを、屋敷の裏にあるゴミ置き場から拾ってきた。ハンドルだけしかなかったので、危険でもないしちょうど良かったけれど。
刀身がないので、板をくっつけておいた。それから布をぐるぐる巻いて、ウエキにばれぬように小細工を施したのだ。
大雑把なウエキは、ナイフのハンドルそのものが違うことも、自分では巻いたはずのない布に関しても気に留めなかった。
「なによ。なんなのよっ」
ウエキは絶叫した。酒臭い息が、夕暮れの風に溶けた。
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