7 / 7
7、光栄やわ
しおりを挟む
「もう、ぜんぜん店に来てくれないんだから。顔を忘れちゃうところだったわ」
俺に声をかけてきたのは、クラブで働いとう女性やった。
名前は覚えてへん。弟分の付き合いで、何回か店に行ったことがある程度やったから。
生白い肌に、白いビキニやから。全体的にぼやけて見える。
「いや、ここで営業されても困るんやけど」
俺は、お嬢の方に目を向けながら一歩下がった。
「あら。花隈さんったら、子ども連れなんだ。へーぇ、姪っ子さん?」
急に女が、俺の腕に手を絡めてきた。
「かわいそーぉ。せっかくのお休みなんでしょ。子守りを押しつけられてるの?」
「別に子守りやないし、姪っ子でもない」
「ねぇ、そこの君。もう四年生か五年生くらいなんでしょ? 家にはひとりで帰れるわよね」
でかい胸が、俺の腕に押しつけられる。海に似合わん、きつい香水のにおいがした。
こいつ、人の話をぜんぜん聞いてへん。
「ジブン、客と一緒に来てんねんやろ。さっさと戻りぃや」
「えーぇ。あんなジジイ、待たせといていいわよぉ。そうだ、花隈さんのこと『花ちゃん』って呼んでもいーい?」
甘ったるい声が、俺の耳もとで囁く。
日傘の下で、お嬢が傷ついた顔をしたんが分かった。竹でできた柄の部分を、両手できゅっと握りしめてる。
「花ちゃん。今夜、店に来てよ」
「行かへん」
べったりとした声に、肌を舐められた気がした。気持ち悪い。
女に「花ちゃん」と呼ばれるんが、こないにも寒気がするとは思わんかった。
「ちょっと、そこのあなた。いつまでいるの? 駅はあっちよ」
女は松林の向こうの通りを指さした。こいつは女の形をした夜や。
お嬢の足が、わずかに動く。
あかん。もう限界や。
「離せや。勝手に俺に触れてええって、誰が言うた」
俺の口から出てきた声は低く、凄味があった。女が喉の奥で短く「ひっ」と声を上げる。
「で……でも。子守りで疲れてるだろうから、あたしが癒してあげようと思って」
「しつこい」
俺は女の手を振りほどいた。握られてた腕が、じっとりと湿って気持ちが悪い。
お嬢の日傘が、砂浜に落ちる。
「わ、わたし。帰るから、平気だから」
背中を向けて、お嬢は走りだした。俺は日傘を拾い、お嬢を追いかける。
砂に足が取られて進みにくい。けど、それは相手も同じこと。
腕をのばして、お嬢の背後からウェストの部分を持ちあげる。
「きゃあ」
細い体は軽々と宙に浮いた。黒髪がなびいて、淡い水色と白のワンピースの裾がひらめく。
海から渡ってきた風に、ハマヒルガオがそよと揺れた。
「逃げたらあかんでしょ」
右腕にお嬢を座らせて、俺はため息をついた。彼女が三歳くらいの頃に、ようしてた格好や。お嬢自身も慣れたもんで、自然に俺の首に両腕をまわしている。
「迷子になったら、どないするん。人出も多いねんで」
「だって。花ちゃんに子守りをさせてしまったんだもの」
やっぱりそこか。
お嬢の声は、か細くて。強烈な日光に、今にも彼女ごと消えてしまいそうに思えた。眉を下げて、見るからにしょんぼりしている。
「俺は子守りや思てないですよ。もし子守りやったら、休日出勤の手当てを請求するし」
「でも、わたしと一緒じゃ楽しくないでしょ」
媚を売ってきたり、スキンシップと称してしなだれかかってくる店のおねーちゃんとおるのは、全然楽しいことあらへんのやけど。
けど、それは清らかなお嬢に聞かせる話やない。
「楽しいですよ」
「気をつかってるもん」
「つこてませんて」
俺の両頬を、お嬢が手で挟んだ。
「ちょっと困りますわ。こんな人前で」
なんでやろ。お嬢に対してやと、文句ですら声が明るくなるんが分かる。
「困らせてるの」
お嬢が俺のサングラスを外す。ちょっと唇を尖らせて、拗ねた顔が間近に見える。
「妬いてくれてるんですか? 光栄やわぁ。お嬢やから特別に、俺のほっぺたにちゅーしてもええですよ」
「ちゅ、ちゅー?」
お嬢の声が上ずった。
「ほら、日傘で隠しといたげますから。花ちゃんは、お嬢のもんですよ。昔も今も、これからもずっと」
真っ白と青の世界のなかで、俺ら二人を柔らかな影が包む。
ふわっと柔らかいもんが、俺の頬をかすめた。
波の音も松林を渡る風の音も、人のざわめきも、音楽も。全部の音が消えた。
お嬢の長い睫毛が、俺のひたいに触れる。
見れば、腕に抱きあげたままのお嬢が、顔どころか耳までも真っ赤に染めていた。
「えー、それだけですか?」
心の中は「うわー、うわー」って、中学生みたいに大騒ぎしてんのに。俺は大人やから、若頭やから。努めて冷静な声を出す。
こくこくと何度もうなずくお嬢は、すでに涙目や。
あんまりからかったらあかんな。
まだ小学生やもんな。
「お嬢。ついでにお願いがあるんです。俺のことを呼んでください」
「花ちゃん。でいいの?」
うんうん、と俺はうなずいた。お嬢の声で「花ちゃん」と呼ばれると、心が弾むんがわかる。
自分の中の、きれいな部分がきらきらと輝くんや。
いちばん大事な女の子にだけ許された呼び名は、特別やった。
「あの、花ちゃん」
「なんですか?」
「そろそろ地面に下してほしいの。さすがにいつまでも抱っこは、恥ずかしいんだけど」
うかがうように、お嬢が俺の顔を覗きこんでくる。
「いくらお嬢でも、その頼みは聞けません」
俺はにっこりと笑顔で、きっぱりと断った。
(了)
俺に声をかけてきたのは、クラブで働いとう女性やった。
名前は覚えてへん。弟分の付き合いで、何回か店に行ったことがある程度やったから。
生白い肌に、白いビキニやから。全体的にぼやけて見える。
「いや、ここで営業されても困るんやけど」
俺は、お嬢の方に目を向けながら一歩下がった。
「あら。花隈さんったら、子ども連れなんだ。へーぇ、姪っ子さん?」
急に女が、俺の腕に手を絡めてきた。
「かわいそーぉ。せっかくのお休みなんでしょ。子守りを押しつけられてるの?」
「別に子守りやないし、姪っ子でもない」
「ねぇ、そこの君。もう四年生か五年生くらいなんでしょ? 家にはひとりで帰れるわよね」
でかい胸が、俺の腕に押しつけられる。海に似合わん、きつい香水のにおいがした。
こいつ、人の話をぜんぜん聞いてへん。
「ジブン、客と一緒に来てんねんやろ。さっさと戻りぃや」
「えーぇ。あんなジジイ、待たせといていいわよぉ。そうだ、花隈さんのこと『花ちゃん』って呼んでもいーい?」
甘ったるい声が、俺の耳もとで囁く。
日傘の下で、お嬢が傷ついた顔をしたんが分かった。竹でできた柄の部分を、両手できゅっと握りしめてる。
「花ちゃん。今夜、店に来てよ」
「行かへん」
べったりとした声に、肌を舐められた気がした。気持ち悪い。
女に「花ちゃん」と呼ばれるんが、こないにも寒気がするとは思わんかった。
「ちょっと、そこのあなた。いつまでいるの? 駅はあっちよ」
女は松林の向こうの通りを指さした。こいつは女の形をした夜や。
お嬢の足が、わずかに動く。
あかん。もう限界や。
「離せや。勝手に俺に触れてええって、誰が言うた」
俺の口から出てきた声は低く、凄味があった。女が喉の奥で短く「ひっ」と声を上げる。
「で……でも。子守りで疲れてるだろうから、あたしが癒してあげようと思って」
「しつこい」
俺は女の手を振りほどいた。握られてた腕が、じっとりと湿って気持ちが悪い。
お嬢の日傘が、砂浜に落ちる。
「わ、わたし。帰るから、平気だから」
背中を向けて、お嬢は走りだした。俺は日傘を拾い、お嬢を追いかける。
砂に足が取られて進みにくい。けど、それは相手も同じこと。
腕をのばして、お嬢の背後からウェストの部分を持ちあげる。
「きゃあ」
細い体は軽々と宙に浮いた。黒髪がなびいて、淡い水色と白のワンピースの裾がひらめく。
海から渡ってきた風に、ハマヒルガオがそよと揺れた。
「逃げたらあかんでしょ」
右腕にお嬢を座らせて、俺はため息をついた。彼女が三歳くらいの頃に、ようしてた格好や。お嬢自身も慣れたもんで、自然に俺の首に両腕をまわしている。
「迷子になったら、どないするん。人出も多いねんで」
「だって。花ちゃんに子守りをさせてしまったんだもの」
やっぱりそこか。
お嬢の声は、か細くて。強烈な日光に、今にも彼女ごと消えてしまいそうに思えた。眉を下げて、見るからにしょんぼりしている。
「俺は子守りや思てないですよ。もし子守りやったら、休日出勤の手当てを請求するし」
「でも、わたしと一緒じゃ楽しくないでしょ」
媚を売ってきたり、スキンシップと称してしなだれかかってくる店のおねーちゃんとおるのは、全然楽しいことあらへんのやけど。
けど、それは清らかなお嬢に聞かせる話やない。
「楽しいですよ」
「気をつかってるもん」
「つこてませんて」
俺の両頬を、お嬢が手で挟んだ。
「ちょっと困りますわ。こんな人前で」
なんでやろ。お嬢に対してやと、文句ですら声が明るくなるんが分かる。
「困らせてるの」
お嬢が俺のサングラスを外す。ちょっと唇を尖らせて、拗ねた顔が間近に見える。
「妬いてくれてるんですか? 光栄やわぁ。お嬢やから特別に、俺のほっぺたにちゅーしてもええですよ」
「ちゅ、ちゅー?」
お嬢の声が上ずった。
「ほら、日傘で隠しといたげますから。花ちゃんは、お嬢のもんですよ。昔も今も、これからもずっと」
真っ白と青の世界のなかで、俺ら二人を柔らかな影が包む。
ふわっと柔らかいもんが、俺の頬をかすめた。
波の音も松林を渡る風の音も、人のざわめきも、音楽も。全部の音が消えた。
お嬢の長い睫毛が、俺のひたいに触れる。
見れば、腕に抱きあげたままのお嬢が、顔どころか耳までも真っ赤に染めていた。
「えー、それだけですか?」
心の中は「うわー、うわー」って、中学生みたいに大騒ぎしてんのに。俺は大人やから、若頭やから。努めて冷静な声を出す。
こくこくと何度もうなずくお嬢は、すでに涙目や。
あんまりからかったらあかんな。
まだ小学生やもんな。
「お嬢。ついでにお願いがあるんです。俺のことを呼んでください」
「花ちゃん。でいいの?」
うんうん、と俺はうなずいた。お嬢の声で「花ちゃん」と呼ばれると、心が弾むんがわかる。
自分の中の、きれいな部分がきらきらと輝くんや。
いちばん大事な女の子にだけ許された呼び名は、特別やった。
「あの、花ちゃん」
「なんですか?」
「そろそろ地面に下してほしいの。さすがにいつまでも抱っこは、恥ずかしいんだけど」
うかがうように、お嬢が俺の顔を覗きこんでくる。
「いくらお嬢でも、その頼みは聞けません」
俺はにっこりと笑顔で、きっぱりと断った。
(了)
7
お気に入りに追加
232
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説


虚弱なヤクザの駆け込み寺
菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。
「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」
「脅してる場合ですか?」
ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。
※なろう、カクヨムでも投稿

大人な軍人の許嫁に、抱き上げられています
真風月花
恋愛
大正浪漫の恋物語。婚約者に子ども扱いされてしまうわたしは、大人びた格好で彼との逢引きに出かけました。今日こそは、手を繋ぐのだと固い決意を胸に。

ヤクザと私と。~養子じゃなく嫁でした
瀬名。
恋愛
大学1年生の冬。母子家庭の私は、母に逃げられました。
家も取り押さえられ、帰る場所もない。
まず、借金返済をしてないから、私も逃げないとやばい。
…そんな時、借金取りにきた私を買ってくれたのは。
ヤクザの若頭でした。
*この話はフィクションです
現実ではあり得ませんが、物語の過程としてむちゃくちゃしてます
ツッコミたくてイラつく人はお帰りください
またこの話を鵜呑みにする読者がいたとしても私は一切の責任を負いませんのでご了承ください*


幸薄女神は狙われる
古亜
恋愛
広告会社で働くOLの藤倉橙子は、自他共に認める不幸体質。
日常的に小さな不幸を浴び続ける彼女はある日、命を狙われていたヤクザを偶然守ってしまった。
お礼にとやたら高い鞄を送られ困惑していたが、その後は特に何もなく、普通の日々を過ごしていた彼女に突如見合い話が持ち上がる。
断りたい。でもいい方法がない。
そんな時に思い出したのは、あのヤクザのことだった。
ラブコメだと思って書いてます。ほっこり・じんわり大賞に間に合いませんでした。

寒い夜だから、夫の腕に閉じ込められました
絹乃
恋愛
学生なのに結婚したわたしは、夫と同じベッドで眠っています。でも、キスすらもちゃんとしたことがないんです。ほんとはわたし、キスされたいんです。でも言えるはずがありません。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
はじめまして。
このお話、大好きです❤️
他のお話も含めて、今後も楽しみにしています😊
感想ありがとうございます。そう仰ってくださると、とても嬉しいです。励みになります。