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12、沼の浄化
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渋るテオドルを説得して、セシリアは森へ入った。
瘴気の沼はあるが、もう危険はなさそうだというイーヴァルの報告を受けたから、認めてくれたともいえる。
「好奇心は身を滅ぼします」
「好奇心じゃないわ。王女として、王宮の敷地内に危険な沼を放置しておくわけにもいかないでしょう」
森の中は足もとが悪いので、セシリアは踵の低いブーツをはいている。
王女としての責任で動いているというよりも、自分の中にいる聖女ビアンカの気持ちが大きいかもしれない。
かつては無意識で瘴気を浄化できていた。けれど、今は意識しなければ力を発揮できない。
(でも、わたくしにビアンカの記憶が戻ったことは、テオドルには内緒にしないとね)
幼い頃に聖女として神殿に上がり、苦労してきたビアンカは勘が鋭かった。そうでなければ、生きられなかった。だが、王女として恵まれて育ったセシリアには、前世ほどの鋭利さはない。
だから、すでにテオドルに自分が何者か知られていることにも、気づいていない。
十六年もの間。テオドルは、セシリアとの必要以上の会話を避けて、徹底してビアンカの存在を隠してきた。
セシリアを守るために。
森の道を進むたびに、緑の匂いが深くなる。
しばらく歩くと、沼にたどり着いた。
「息がしにくいわ」
セシリアはハンカチを出して、鼻と口を覆った。禍々しい気配が満ちている。目を凝らせば、微細な黒い粒が浮遊しているのが分かる。
「長くいると健康を害します。もうご覧になりましたね。戻りますよ」
テオドルはセシリアの肩に手をあてて、来た道を戻らせようとした。
「ちょっと待って」
一目見ただけで帰ろうだなんて。見学に来たわけではないのに。
セシリアは再び沼に向き合った。
「ほんの少しだけ、待っていて。すぐに終わるから」
反対されるかと思ったのに。意外にもテオドルは「私の側を離れないように」とだけ言った。
(これくらいの瘴気なら、聖石がなくとも浄化できるわ)
両手を前に出して、瞼を閉じる。セシリアのてのひらが、透明な光に包まれる。
薔薇水晶の力を借りれば一瞬だ。だが、あれは転生してもなおビアンカと共にあった石なのだから。必要な時にしか使いたくはない。
森の中のうす暗い木々を、黒い沼を、澄んだ光が撫でていく。
見えぬの花びらが触れていくように、幾重にも光が重なる。
「すごい……」
隣でテオドルが息を呑んだ。
セシリアが瞼を開いたとき。そこには青く澄んだ水をたたえた池が生まれていた。
木の葉が一枚、水面に落ちた。音もなく波紋が広がり、消えていく。
「もともとここにあったのは、池だったのね」
「そのようですね」
セシリアが見あげると、テオドルの琥珀の瞳に青が揺らいでいる。
「誰かが呪いで、池を瘴気の沼に変えたのね」
王家の敷地に危険なものを生じさせるなど、あってはならない。
「これまで姫さまは、瘴気の満ちる土地に赴いたことはありませんでしたが。そんなにも簡単に浄化できるのですね」
「え? あ、そうね。うん。偶然かもしれないわ」
テオドルに答えるセシリアの声は、上ずっている。
(しまったわ。つい、ビアンカとしてふるまってしまったわ)
セシリアの人格にビアンカの人格が上書きされたわけでもなく。どちらもが中途半端に混ざり合っている感覚だ。
セシリアにはできず、ビアンカにはできること。冷静に考えれば、区別はできるのに。
「さ、帰りましょ」
自分でも気づかぬうちに、セシリアはテオドルの手を握って歩きだしていた。
あまりにも自然なふるまいは、ビアンカが幼いテオドルの手を引いていた頃と同じだ。
テオドルは指摘することもなく、ただ主について歩いた。
靴の裏で小枝が音を立てる。さっきまでの瘴気がもたらす臭いはもうしない。清々しい朝の森の香りに、さえずる鳥の声が聞こえる。
今では小さくなってしまった、大切な人の背中をテオドルは見つめた。
瘴気の沼はあるが、もう危険はなさそうだというイーヴァルの報告を受けたから、認めてくれたともいえる。
「好奇心は身を滅ぼします」
「好奇心じゃないわ。王女として、王宮の敷地内に危険な沼を放置しておくわけにもいかないでしょう」
森の中は足もとが悪いので、セシリアは踵の低いブーツをはいている。
王女としての責任で動いているというよりも、自分の中にいる聖女ビアンカの気持ちが大きいかもしれない。
かつては無意識で瘴気を浄化できていた。けれど、今は意識しなければ力を発揮できない。
(でも、わたくしにビアンカの記憶が戻ったことは、テオドルには内緒にしないとね)
幼い頃に聖女として神殿に上がり、苦労してきたビアンカは勘が鋭かった。そうでなければ、生きられなかった。だが、王女として恵まれて育ったセシリアには、前世ほどの鋭利さはない。
だから、すでにテオドルに自分が何者か知られていることにも、気づいていない。
十六年もの間。テオドルは、セシリアとの必要以上の会話を避けて、徹底してビアンカの存在を隠してきた。
セシリアを守るために。
森の道を進むたびに、緑の匂いが深くなる。
しばらく歩くと、沼にたどり着いた。
「息がしにくいわ」
セシリアはハンカチを出して、鼻と口を覆った。禍々しい気配が満ちている。目を凝らせば、微細な黒い粒が浮遊しているのが分かる。
「長くいると健康を害します。もうご覧になりましたね。戻りますよ」
テオドルはセシリアの肩に手をあてて、来た道を戻らせようとした。
「ちょっと待って」
一目見ただけで帰ろうだなんて。見学に来たわけではないのに。
セシリアは再び沼に向き合った。
「ほんの少しだけ、待っていて。すぐに終わるから」
反対されるかと思ったのに。意外にもテオドルは「私の側を離れないように」とだけ言った。
(これくらいの瘴気なら、聖石がなくとも浄化できるわ)
両手を前に出して、瞼を閉じる。セシリアのてのひらが、透明な光に包まれる。
薔薇水晶の力を借りれば一瞬だ。だが、あれは転生してもなおビアンカと共にあった石なのだから。必要な時にしか使いたくはない。
森の中のうす暗い木々を、黒い沼を、澄んだ光が撫でていく。
見えぬの花びらが触れていくように、幾重にも光が重なる。
「すごい……」
隣でテオドルが息を呑んだ。
セシリアが瞼を開いたとき。そこには青く澄んだ水をたたえた池が生まれていた。
木の葉が一枚、水面に落ちた。音もなく波紋が広がり、消えていく。
「もともとここにあったのは、池だったのね」
「そのようですね」
セシリアが見あげると、テオドルの琥珀の瞳に青が揺らいでいる。
「誰かが呪いで、池を瘴気の沼に変えたのね」
王家の敷地に危険なものを生じさせるなど、あってはならない。
「これまで姫さまは、瘴気の満ちる土地に赴いたことはありませんでしたが。そんなにも簡単に浄化できるのですね」
「え? あ、そうね。うん。偶然かもしれないわ」
テオドルに答えるセシリアの声は、上ずっている。
(しまったわ。つい、ビアンカとしてふるまってしまったわ)
セシリアの人格にビアンカの人格が上書きされたわけでもなく。どちらもが中途半端に混ざり合っている感覚だ。
セシリアにはできず、ビアンカにはできること。冷静に考えれば、区別はできるのに。
「さ、帰りましょ」
自分でも気づかぬうちに、セシリアはテオドルの手を握って歩きだしていた。
あまりにも自然なふるまいは、ビアンカが幼いテオドルの手を引いていた頃と同じだ。
テオドルは指摘することもなく、ただ主について歩いた。
靴の裏で小枝が音を立てる。さっきまでの瘴気がもたらす臭いはもうしない。清々しい朝の森の香りに、さえずる鳥の声が聞こえる。
今では小さくなってしまった、大切な人の背中をテオドルは見つめた。
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