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十二章

9、鼻血じゃありません

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「城の外に出るぞ。走れるな」

 傍らにいるソフィにだけ聞こえるほどに小さな声で、アランは囁いた。
 ソフィは、脱出経路を頭の中に描く。

 弔いの門近くの城壁に上がった時、運河に掛かる橋に見張りがいなかったのは確認済みだ。中から閂を外せば、外に出られるだろう。

 でもレイフの後ろには、馬賊が控えている。落馬で怪我をしたり、馬は逃げてしまっているが。動ける者もいる。
 アランはソフィの盾となり、奴らと戦うだろう。

 見るからに重そうな閂を外し、蝶番ちょうつがいの錆びた門を自分一人の力だけで開けることができるだろうか。

(アランは逃げ切れるの?)

 ソフィは、握りしめた拳に力を込めた。
 とにかく外へ。一刻も早く、一緒に外に出るためには、どうすれば。

(これだわ!)
 
 一瞬目を輝かせたソフィは、すぐに大げさに咳きこんだ。
 そのままよろめいて、アランの足下にしゃがみ込む。
 そこには、まだ雪を染めた彼の血の赤が鮮やかだ。

「お、おい。ソフィ」
「来ちゃダメ。病気がうつるから」

 ソフィは手で口を覆って、咳をする。
 真似とはいえ咳をするのは、きつい。
 さらに体を屈め、顔を雪上の血に近づける。

「仕立て屋さんが言ってたの。感染するから、わたしに近づいちゃいけないって」
「鼻血がうつるのか?」

 ちがーう! これは吐血のつもりなんだってば。
 と、言えるはずもなく。ソフィはちらりとアランを見上げて、咳を続けた。
 とにかく、うつる病気であると、アピールしなければ。

 レイフは、苦しそうに咳きこむソフィに近づこうとして、やはり感染が恐ろしいのか、一定の距離以上は近づいてこない。

 げほ……ごほっ、げほげほっ。ごほ、ごほっ。
 可愛らしい咳じゃ真実味に欠ける、と思って真剣にやっていたら「おぇっ」と吐きそうになった。

 うう、さすがにこれは汚いかも。

 レイフが一歩どころか、数歩下がる。

「誰か、イヴォンネさまを医者へ」

 鼻と口を手で押さえながら、レイフが周囲にいる馬賊に命令する。けれど馬賊は、彼よりもさらに引いた場所にいる。

「大切な人だと主張する割に、あんたは自分で助けないんだな」

 ぐいっとソフィの体が持ち上がった。
 咳きこみすぎた涙で滲んだ視界に、アランの顔が映っている。
 心配しているような、怒っているような、眉根をしかめた表情だ。それも、とても至近距離で。
 まるで子どもの頃に抱えてもらっていたように、片腕で抱き上げられている。

「落ちると危ないから、俺の首にしがみついていろ」
「え、でも」

「早く」と急かされて、おずおずとアランの首に腕をまわす。
 あと少し顔を近づけたら、アランの頬にくっついてしまいそうだ。
 自分の今の状態を考えると、ソフィは顔がかっと熱くなった。

「イヴォンネさま、お顔が赤うございます。お熱があるのでは」

 レイフは明らかにおろおろとしているのに、それでもソフィに近寄ろうとはしない。
 まるで見えない壁があるかのように、一定の距離を保っている。

「もう諦めろ。もし仮にソフィがイヴォンネであったとしても、あんたは自分の方が可愛いんだ。自分を犠牲にすることなんて、できやしないんだよ」
「そんなこと、あるはずがありません!」
「ふーん」

 アランはソフィを抱えたまま、レイフに向かって歩き出した。「ひぃ」と掠れた悲鳴を上げて、レイフが尻もちをつく。
 あわてて立ち上がったが、レイフの動揺の跡は、しっかりと残っていた。

「無理はするもんじゃない。……だろ?」
「わ、私はっ! イヴォンネさまのためならば、この身を投げ出しても惜しくはないっ」

 ひゅん、と風の鳴る音。走りだそうとしたレイフの足下に、背後から矢が射られた。

「見苦しい。もうおやめなさい」

 後方で矢を放ったのは、グンネルだった。
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