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十章

6、身代わりのエルヴェーラ

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「誰かの命を奪えば泣く人がいること、苦しむ人がいることに考えが及ばなかった。自分の家族に同じことをされたら、怒り狂うでしょうに。愚かね……」

 グンネルの言葉には、いつものような力がなかった。

「反省してるから、許してって言うつもりなの? 母さんを殺していながら?」

 ベアタが雪に足をめり込ませながら、グンネルの元へ向かった。手にはナイフを握りしめて。

 けれど、ベアタは切っ先をグンネルには向けない。何度も右腕を上げようとしては、また手を下ろす。

「仇を討たないの?」
「……もうやめてほしい、敵に気遣われたくなんかない。嫌なんだよ。また自分が誰かを殺しそうになるのが。死んでなくて、ほっとして。でも、そいつが生きてるのがやっぱり許せなくて……こんな気持ち、知らない。知りたくなかった!」

 徐々にベアタの声は大きくなり、最後は闇を震わせるほどに叫んだ。

「あたしは! あの子を殺そうとした。もう少し力を入れたら、きっと死んでた。なのに、あの子はあたしを逃がして……」

 それがソフィのことだと瞬時に分かったアランは、緊張で身を硬くした。
 握りしめた右の拳を、左手でかろうじて押さえ込む。
 そうしないと、今にもベアタを殴り飛ばしてしまいそうだった。

 それだけはいけない。ソフィはベアタを逃がしたんだ。あの子の気持ちを無にするのか。
 俺がベアタを殴るのならば、きっとソフィは俺の前に立ち塞がるだろう。

 今も、押さえた拳が小刻みに震えている。

(落ち着け、落ち着くんだ。きっと死んでた、と言うのならば、ソフィは無事だ)

 もしソフィに危害を加えたのがレイフなら、力任せに殴り飛ばしていただろう。だがベアタにも事情がある。
 
(我慢するんだ、耐えるんだ)
 
 アランは、自分にそう言い聞かせた。
 奥歯を強く噛みしめて、怒りが静まるのを待つしかなかった。

 激昂するベアタと冷静なグンネル、二人の様子がどこか遠い世界のような、薄い膜の向こうの出来事のように感じられた。
 この世界に引き戻されたのは、続くベアタの言葉を聞いたからだ。

「あの子は……エルヴェーラはあたしを助けて、母さんの伝言も渡してくれたんだ」

 重そうに腕を上げると、ベアタは皺になった紙片を開いた。
 そこには、アランの革の手袋にしみついたインクと同じ青で文字がしたためられていた。

――今夜もベアタの瞼にキスをしましょう。きっともう眠っているでしょうけれど。おやすみなさい、愛しい子。良い夢を。

 ベアタは歯を食いしばっていた。そうでもしないと、嗚咽を洩らしそうなのだろう。洟をすする音、溢れる涙を何度も拭っている。

「こんな風に書かれたら……あたしだって愛されてたんだって知ったら。それをエルヴェーラが伝えようとしたなんて……あたし、どうしたらいいのよぉ」
「母親に愛されていないと思ったのか?」
「エルヴェーラを憎むことが生きる支えだった。レイフが彼女の愛らしさ、美しさを語るたびに、彼の愛情も母さんの献身もすべて手に入れたあの子が憎くて」

 アランは眉をひそめた。
 レイフがエルヴェーラの美しさを語った?

「その話を聞いたのは、いつのことだ」
「え? 確か、あたしが城に勤めだした頃だから。何年か前のことだけど。えっ?」

 自分の話す内容が噛みあわないことに気づいたのか、ベアタは落ち着かない様子で視線をさまよわせた。
 エルヴェーラの所在が分かったのは最近のはず……と、ぶつぶつと口の中で呟いている。

「レイフが讃えているのは本当にエルヴェーラなのか? 誰かの面影を彼女に投影してるのではないか」

 思い当たる節はある。あるなんてもんじゃない。
 絶命したばかりの、まだ温もりが残る辺境伯夫人。苦しむ前に亡くなった夫人は、娘によく似た面立ちをしていた。

「あ……あの子が、愛されてたんじゃないの? 身代わりだったの?」

 ベアタの表情から、すとんと険しさが抜けた。酒瓶の底の澱のように濁った気配が消えていく。

(エルヴェーラが好かれているんじゃないと分かって、気が済んだんだな。満足なんだな。あんたの感情は歪んでいるが、それでいい。ソフィにこれ以上害を加えないのなら)

 グンネルとベアタの関係も、彼女たちが自分で考えることだ。

 任務を遂行する上で躊躇なくベアタの母を殺したことを、グンネルは簡単に謝罪しないだろう。
 たとえ彼女自身が己の非道さ、冷徹さを受け入れられずに悩んでいたとしても。
 いつか、時間が彼女の背を押すのを待たなければならない。

 そしてベアタもソフィを襲った事実を後悔しても、単純に「ごめんね」なんて言うはずがない。
 たとえソフィがベアタの行為を許しても、きっと俺は許せない。
 殴りはしないし、罵倒もしない。大人として普通に接するだろう。

 それでも、俺は……俺の大事な、愛するソフィを襲ったあんたに、もう心を許すことは出来ない。

 暗い天にゆらめく極光は、アラン自身や彼女たちのもつれ合った感情の揺らぎのように見えた。
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