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四章
4、夏の末
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鈴之介が朱鷺子さんの家に来たのは、夕方になってからやった。
カナカナと涼しいヒグラシの声がきこえる。東の空にはぽっかりとまるい月が浮かんでいる。
山の端を茜や紫、薄紅に染める夕暮れの雲に反し、昇りはじめた月は冴え冴えと澄んだ黄水晶のようや。
「お月様でいっぱいで、お月様の光でいっぱいで、それはそれはいっぱいで」
縁側で膝に乗ってきた黒猫の頭を撫でながら、俺はぽつりと呟いた。猫が耳をぴくりと動かした。
「『一千一秒物語』ですね」
玄関は施錠しとったのに。鈴之介がいつの間にか朱鷺子さんの部屋に立っていた。
手には巾着と銀に光る鍵を持っている。
そらそうか。この家は朱鷺子さんの親族から、鈴之介が買い取ってたんやった。
鈴之介は、布団に横たわった深雪の前に腰を下ろした。
きちんと正座して、持ってきた箱を畳の上におく。
「具合はどないですか? 深雪さん」
それまで瞼を閉じていた深雪が、とろんと眠そうな目を開く。
「お医者さま?」
「まぁ、今のあなたにとっては医者かもしれませんね」
そう、家に戻ってからの深雪は体を動かすのも億劫な様子で、ひたすら眠り続けとった。
「巡査には盗まれた掛け軸は見つからなかったと伝えました。持ち物を検められたんですけど。さすがに墓だけの絵は別物と思われましたね。ぼくの落款が押してありますし、偶然持っとったということで押し通しました」
「表装師は、どない言うとった?」
たとえ墓石だけだろうと、専門家には元は同じ絵であると分かるやろに。
鈴之介は「まぁ、その辺は融通が利くので」と視線を逸らした。
融通ねぇ。言いくるめたの間違いちゃうんかなぁ。俺は目を眇めた。
小さい頃は潔癖やった鈴之介も、大人になって考え方が変わったみたいやった。
朱鷺子さんに絵のモデルを頼むんも、入院しとった俺に許可をもらうほど律儀やったのに。
「朱鷺子さんのことですが」
鈴之介が切り出したから。俺の心の内を読まれたんかと思た。
「兄さんがサナトリウムに入っとった頃。うちの近所の神社で、朱鷺子さんに会うたことがあるんです。毎日ですよ。たぶんお百度参りをしてはったんやと思います」
「特別な願いが叶うっちゅうやつか」
「はい」と、鈴之介は神妙な表情を浮かべた。
「兄さんの病気の快癒を願ってはったんでしょう。雨の日も、自分が濡れるんも構わずにお参りする姿を見かけました」
「そうか」
俺は呟いた。
銀之丈を死なせたないという、朱鷺子さんの願いは叶わんかった。けど、代わりに今の俺が生まれた。
「別な形で願いが叶ったんかもしれへんな」
結局、朱鷺子さんは俺の姿を見ることも、声を聞くこともできんかったけど。
鈴之介は、持参した木の箱を開いた。
もわっとした独特の匂いが鼻をかすめた。箱の中には顔料の入った壜や、胡粉と膠を丸めた団子が入っていた。それから筆と、顔料と膠を練る白い皿が何枚もある。
墓參の圖の掛け軸を広げ、その上に消えかかった深雪の足を載せる。
「掛け軸の修復は諦めましたよ。けど、深雪さんを治すことはできます」
鈴之介は、俺に目を向けた。
「深雪は年頃の女の子ですからね。兄さんは、見んといてもらえますか」
「なんでや?」
「そら、袴の裾をめくらんとあきませんから」
どういう理屈やねん。
せやけど、鈴之介が深雪を人として接しとんのが、ちょっと嬉しい気がした。
俺は縁側で、胡坐をかいて深雪と鈴之介に背を向ける。
膠の独特な匂いがする。深雪の「恥ずかしいです」という微かな声も聞こえる。
俺は膝をとんとんと指で打ち、長い息を吐いた。
そういえば生きとう頃は、手持無沙汰のときは煙草を喫っとったな。
深雪が拾てくれたナイルの箱は、今は大切に棚の引き出しにしまってある。
あの箱は朱鷺子さんと深雪が大事にしてくれたもんや。
もう手元にずっと持っとかんでも、ええような気がした。
昇ったばかりの月は、いつしか藍色の空にぽっかりと浮かんでいた。
涼しい虫の声が聞こえてきた。夕凪も終わり、山から吹き下ろす風に庭の草はさわさわと揺れている。
「ええですよ」
随分と待った後。鈴之介に声を掛けられて、俺はゆっくりと振り返った。
そこに深雪が立っとった。
足がある。消えてへん。
白く眩しい足袋に包まれた、揃えた両足が確かにある。
鈴之介に手をつながれて、まるで彼の娘のように初々しくはにかみながら深雪は微笑んでいる。
「立てますよ。歩けるんです」
「せやな。鈴之介のおかげだ」
「はいっ。鈴之介先生が治してくださったんです」
鈴之介から手を離すと、深雪はひらりと回った。夜風をはらんで袴の裾が、着物の袂が華やかに揺れる。
月夜に蔵から出てきた深雪は、やはり再び月夜に再生した。
朱欒の月に見守られて。
◇◇◇
晩夏。強烈な陽射しは少し和らぎ、じりじりと照る日でもわずかに清涼な風を感じる。
新たな足を得た深雪は、踊るように軽やかに道を歩いとう。
炭酸の泡のような夏の末の風をまといながら。
草履が脱げてしまうんやないか。つまずいて転ぶんやないかと俺ははらはらした。
「ああ、こら。行儀ようせんと。坂道を転げ落ちたらどないするんや」
「大丈夫ですよ」
木の手桶を左手に、新聞紙に包んだ白菊を右手に。草履をぱたぱたといわせる深雪は、俺の言うことなど聞きもせぇへん。
反抗期なんか?
「深雪さん、駄目ですよ。危ないですから」
「……はい」
しゅんとうなだれて、深雪は立ち止まる。
おい、こら。なんで鈴之介の言うことは素直に聞くねん。
手桶がことんと音を立てる。
その手桶も、深雪は自分が持つと言って譲らんかった。
そもそもキリスト教の墓参では、水は供えへんのとちゃうか?
しかし柄杓を入れてへんのに、何が桶の中で音を立てたんやろ。
「聞き分けがいい子なので、深雪は静かに歩きます」
「それはええことでうsね。さすがは深雪さんです」と鈴之介はうなずいた。
「それは褒めるほどのことなんか?」
俺にも鈴之介にも子供はおらへんけど。鈴之介はちょっと……いや、だいぶん甘いよな。
深雪の背後には、あまりにも眩しい瀬戸内海が広がっている。
きらきらと耀く海と、宇宙を透かすほどに深い紺青の空を背景に、確かに深雪は存在している。
陽射しがつくる影は、鈴之介のものだけや。
けど、木陰や日傘の陰に入れば。影なき俺たちも実在してる人となんら変わらん。
どこかの軒で朝顔が、しんと青く花開いている。海風に、朝顔のうすい花弁がひらひらと揺れた。
朱鷺子さんの眠る墓地は、静かに木々に囲まれていた。天を衝く針葉樹の深い緑はしんとして、濃い緑の匂いに包まれる。植栽された西洋の糸杉や。
淡い藤色のたおやかなアネモネ(秋明菊やと鈴之介が教えてくれた)が、そよそよと風にそよいでいる。
掛け軸と同じオルガン型の墓石やった。
せやな。俺は朱鷺子さんの墓に参るんは、初めてや。
俺は持参した蝋燭を立て、線香に火を点けた。
煙が、細く頼りなくたなびいている。
「作法として合ってんのか? 線香は」
「たぶん、合ってませんね。キリスト教ではお香は、祈りと捧げものが神さまに届くようにとのものですから。供養やないですよね」
線香のよい匂いが、ふわりと広がっては消えていく。
「まぁ、ええか。朱鷺子さんは呆れとうかもしれへんけど」
「お供え物ならありますよ」
深雪が持参した木桶に、手を突っこんだ。中から古新聞に包まれた塊を取りだす。
かさりと乾いた音を立てて、新聞が開かれる。
俺と鈴之介が覗きこむと。、深雪の手の上に白い粒をまとった琥珀色が現れた。
「あ……っ」
俺は声を上げた。
鈴之介は何であるのかを見極めようと、目を細めている。
「『さたうづけ』と書いてありましたから」
「砂糖漬け? 何のですか」
問われても、深雪は「さぁ」と首をかしげるばかり。
だが、俺は喉が詰まってしもた。透明な結晶が喉を塞いで、息が苦しくて唇を噛みしめた。
ああ、なんて懐かしいんや。
朱鷺子さん、あなたは俺が贈った朱欒を大事にしてくれとったんやな。
初めて実った硬く小さな緑の実に感動していた朱鷺子さんの姿が蘇る。
あの時、俺はもう死んでしもとったけど。朱鷺子さんはずっと朱欒を育ててくれとった。
洗礼名の彫られた黒い墓石が、滲んでゆく。
「銀之丈さん。これ、なんだか分かりますか?」
深雪が無邪気に問うてくる。
「朱欒や。庭に生る朱欒の実を、朱鷺子さんが砂糖漬けにしたもんや」
「これが朱欒……」
むろんそのままの形やないが。深雪は砂糖漬けを陽に透かし、匂いをかいで瞼を閉じた。
俺も深雪も食べることはできへん。
けど、朱鷺子さんが手ずから漬け込んだ、琥珀色の一片の美しさも香りも楽しむことはできる。
とんとん、と肩を指でつつかれた。振り返ると、鈴之介が俺にハンカチを差し出しとった。
掛け軸には描かれてへんかった秋明菊が、そよと揺れる。薄い藤色の花弁が儚く揺れる。
――十年後にはきっと家族で食べることができますよ。
せやな。朱鷺子さん。
食べることは叶わなへんけど、あなたを囲む家族は増えた。ここに確かに存在しとう。
「わたし、自分のことが嫌いじゃなくなりました」
墓前に砂糖漬けを並べながら、ぽつりと深雪が呟く。
「だって、朱鷺子先生がわたしを好いてくださっていたから。ちゃんと対話しながら、わたしを生み出してくださったから」
それに、と俺と鈴之介をちらっと見上げる。
「いえ、何でもありません」
慌てて背中を向けるが、わずかに見える横顔が緩んでるんが分かる。
朱鷺子さん。あなたは俺に、俺自身だけやのうて家族も与えてくれた。
夏の初めに現れた深雪と、夏の盛りに再会した鈴之介。
ふたりに囲まれる俺を、朱鷺子さんはきっと微笑んで眺めてるんやろ。
(了)
カナカナと涼しいヒグラシの声がきこえる。東の空にはぽっかりとまるい月が浮かんでいる。
山の端を茜や紫、薄紅に染める夕暮れの雲に反し、昇りはじめた月は冴え冴えと澄んだ黄水晶のようや。
「お月様でいっぱいで、お月様の光でいっぱいで、それはそれはいっぱいで」
縁側で膝に乗ってきた黒猫の頭を撫でながら、俺はぽつりと呟いた。猫が耳をぴくりと動かした。
「『一千一秒物語』ですね」
玄関は施錠しとったのに。鈴之介がいつの間にか朱鷺子さんの部屋に立っていた。
手には巾着と銀に光る鍵を持っている。
そらそうか。この家は朱鷺子さんの親族から、鈴之介が買い取ってたんやった。
鈴之介は、布団に横たわった深雪の前に腰を下ろした。
きちんと正座して、持ってきた箱を畳の上におく。
「具合はどないですか? 深雪さん」
それまで瞼を閉じていた深雪が、とろんと眠そうな目を開く。
「お医者さま?」
「まぁ、今のあなたにとっては医者かもしれませんね」
そう、家に戻ってからの深雪は体を動かすのも億劫な様子で、ひたすら眠り続けとった。
「巡査には盗まれた掛け軸は見つからなかったと伝えました。持ち物を検められたんですけど。さすがに墓だけの絵は別物と思われましたね。ぼくの落款が押してありますし、偶然持っとったということで押し通しました」
「表装師は、どない言うとった?」
たとえ墓石だけだろうと、専門家には元は同じ絵であると分かるやろに。
鈴之介は「まぁ、その辺は融通が利くので」と視線を逸らした。
融通ねぇ。言いくるめたの間違いちゃうんかなぁ。俺は目を眇めた。
小さい頃は潔癖やった鈴之介も、大人になって考え方が変わったみたいやった。
朱鷺子さんに絵のモデルを頼むんも、入院しとった俺に許可をもらうほど律儀やったのに。
「朱鷺子さんのことですが」
鈴之介が切り出したから。俺の心の内を読まれたんかと思た。
「兄さんがサナトリウムに入っとった頃。うちの近所の神社で、朱鷺子さんに会うたことがあるんです。毎日ですよ。たぶんお百度参りをしてはったんやと思います」
「特別な願いが叶うっちゅうやつか」
「はい」と、鈴之介は神妙な表情を浮かべた。
「兄さんの病気の快癒を願ってはったんでしょう。雨の日も、自分が濡れるんも構わずにお参りする姿を見かけました」
「そうか」
俺は呟いた。
銀之丈を死なせたないという、朱鷺子さんの願いは叶わんかった。けど、代わりに今の俺が生まれた。
「別な形で願いが叶ったんかもしれへんな」
結局、朱鷺子さんは俺の姿を見ることも、声を聞くこともできんかったけど。
鈴之介は、持参した木の箱を開いた。
もわっとした独特の匂いが鼻をかすめた。箱の中には顔料の入った壜や、胡粉と膠を丸めた団子が入っていた。それから筆と、顔料と膠を練る白い皿が何枚もある。
墓參の圖の掛け軸を広げ、その上に消えかかった深雪の足を載せる。
「掛け軸の修復は諦めましたよ。けど、深雪さんを治すことはできます」
鈴之介は、俺に目を向けた。
「深雪は年頃の女の子ですからね。兄さんは、見んといてもらえますか」
「なんでや?」
「そら、袴の裾をめくらんとあきませんから」
どういう理屈やねん。
せやけど、鈴之介が深雪を人として接しとんのが、ちょっと嬉しい気がした。
俺は縁側で、胡坐をかいて深雪と鈴之介に背を向ける。
膠の独特な匂いがする。深雪の「恥ずかしいです」という微かな声も聞こえる。
俺は膝をとんとんと指で打ち、長い息を吐いた。
そういえば生きとう頃は、手持無沙汰のときは煙草を喫っとったな。
深雪が拾てくれたナイルの箱は、今は大切に棚の引き出しにしまってある。
あの箱は朱鷺子さんと深雪が大事にしてくれたもんや。
もう手元にずっと持っとかんでも、ええような気がした。
昇ったばかりの月は、いつしか藍色の空にぽっかりと浮かんでいた。
涼しい虫の声が聞こえてきた。夕凪も終わり、山から吹き下ろす風に庭の草はさわさわと揺れている。
「ええですよ」
随分と待った後。鈴之介に声を掛けられて、俺はゆっくりと振り返った。
そこに深雪が立っとった。
足がある。消えてへん。
白く眩しい足袋に包まれた、揃えた両足が確かにある。
鈴之介に手をつながれて、まるで彼の娘のように初々しくはにかみながら深雪は微笑んでいる。
「立てますよ。歩けるんです」
「せやな。鈴之介のおかげだ」
「はいっ。鈴之介先生が治してくださったんです」
鈴之介から手を離すと、深雪はひらりと回った。夜風をはらんで袴の裾が、着物の袂が華やかに揺れる。
月夜に蔵から出てきた深雪は、やはり再び月夜に再生した。
朱欒の月に見守られて。
◇◇◇
晩夏。強烈な陽射しは少し和らぎ、じりじりと照る日でもわずかに清涼な風を感じる。
新たな足を得た深雪は、踊るように軽やかに道を歩いとう。
炭酸の泡のような夏の末の風をまといながら。
草履が脱げてしまうんやないか。つまずいて転ぶんやないかと俺ははらはらした。
「ああ、こら。行儀ようせんと。坂道を転げ落ちたらどないするんや」
「大丈夫ですよ」
木の手桶を左手に、新聞紙に包んだ白菊を右手に。草履をぱたぱたといわせる深雪は、俺の言うことなど聞きもせぇへん。
反抗期なんか?
「深雪さん、駄目ですよ。危ないですから」
「……はい」
しゅんとうなだれて、深雪は立ち止まる。
おい、こら。なんで鈴之介の言うことは素直に聞くねん。
手桶がことんと音を立てる。
その手桶も、深雪は自分が持つと言って譲らんかった。
そもそもキリスト教の墓参では、水は供えへんのとちゃうか?
しかし柄杓を入れてへんのに、何が桶の中で音を立てたんやろ。
「聞き分けがいい子なので、深雪は静かに歩きます」
「それはええことでうsね。さすがは深雪さんです」と鈴之介はうなずいた。
「それは褒めるほどのことなんか?」
俺にも鈴之介にも子供はおらへんけど。鈴之介はちょっと……いや、だいぶん甘いよな。
深雪の背後には、あまりにも眩しい瀬戸内海が広がっている。
きらきらと耀く海と、宇宙を透かすほどに深い紺青の空を背景に、確かに深雪は存在している。
陽射しがつくる影は、鈴之介のものだけや。
けど、木陰や日傘の陰に入れば。影なき俺たちも実在してる人となんら変わらん。
どこかの軒で朝顔が、しんと青く花開いている。海風に、朝顔のうすい花弁がひらひらと揺れた。
朱鷺子さんの眠る墓地は、静かに木々に囲まれていた。天を衝く針葉樹の深い緑はしんとして、濃い緑の匂いに包まれる。植栽された西洋の糸杉や。
淡い藤色のたおやかなアネモネ(秋明菊やと鈴之介が教えてくれた)が、そよそよと風にそよいでいる。
掛け軸と同じオルガン型の墓石やった。
せやな。俺は朱鷺子さんの墓に参るんは、初めてや。
俺は持参した蝋燭を立て、線香に火を点けた。
煙が、細く頼りなくたなびいている。
「作法として合ってんのか? 線香は」
「たぶん、合ってませんね。キリスト教ではお香は、祈りと捧げものが神さまに届くようにとのものですから。供養やないですよね」
線香のよい匂いが、ふわりと広がっては消えていく。
「まぁ、ええか。朱鷺子さんは呆れとうかもしれへんけど」
「お供え物ならありますよ」
深雪が持参した木桶に、手を突っこんだ。中から古新聞に包まれた塊を取りだす。
かさりと乾いた音を立てて、新聞が開かれる。
俺と鈴之介が覗きこむと。、深雪の手の上に白い粒をまとった琥珀色が現れた。
「あ……っ」
俺は声を上げた。
鈴之介は何であるのかを見極めようと、目を細めている。
「『さたうづけ』と書いてありましたから」
「砂糖漬け? 何のですか」
問われても、深雪は「さぁ」と首をかしげるばかり。
だが、俺は喉が詰まってしもた。透明な結晶が喉を塞いで、息が苦しくて唇を噛みしめた。
ああ、なんて懐かしいんや。
朱鷺子さん、あなたは俺が贈った朱欒を大事にしてくれとったんやな。
初めて実った硬く小さな緑の実に感動していた朱鷺子さんの姿が蘇る。
あの時、俺はもう死んでしもとったけど。朱鷺子さんはずっと朱欒を育ててくれとった。
洗礼名の彫られた黒い墓石が、滲んでゆく。
「銀之丈さん。これ、なんだか分かりますか?」
深雪が無邪気に問うてくる。
「朱欒や。庭に生る朱欒の実を、朱鷺子さんが砂糖漬けにしたもんや」
「これが朱欒……」
むろんそのままの形やないが。深雪は砂糖漬けを陽に透かし、匂いをかいで瞼を閉じた。
俺も深雪も食べることはできへん。
けど、朱鷺子さんが手ずから漬け込んだ、琥珀色の一片の美しさも香りも楽しむことはできる。
とんとん、と肩を指でつつかれた。振り返ると、鈴之介が俺にハンカチを差し出しとった。
掛け軸には描かれてへんかった秋明菊が、そよと揺れる。薄い藤色の花弁が儚く揺れる。
――十年後にはきっと家族で食べることができますよ。
せやな。朱鷺子さん。
食べることは叶わなへんけど、あなたを囲む家族は増えた。ここに確かに存在しとう。
「わたし、自分のことが嫌いじゃなくなりました」
墓前に砂糖漬けを並べながら、ぽつりと深雪が呟く。
「だって、朱鷺子先生がわたしを好いてくださっていたから。ちゃんと対話しながら、わたしを生み出してくださったから」
それに、と俺と鈴之介をちらっと見上げる。
「いえ、何でもありません」
慌てて背中を向けるが、わずかに見える横顔が緩んでるんが分かる。
朱鷺子さん。あなたは俺に、俺自身だけやのうて家族も与えてくれた。
夏の初めに現れた深雪と、夏の盛りに再会した鈴之介。
ふたりに囲まれる俺を、朱鷺子さんはきっと微笑んで眺めてるんやろ。
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