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四章

3、外へ

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 わたしの前にいた二人はいなくなりました。
 あれはきっと朱鷺子先生の家に土足で上がりこんだ奴らだわ。
 お塩を撒いてやったのに、まさか捕まるなんて。

 わたしはヴェールを剥いで、周囲を伺います。見えない薄い玻璃の壁があるように、ある一定の範囲でしか動けません。
 どうして昔のわたしには分からなかったのかしら。これが朱鷺子先生のお墓参りの絵の中であることを。
 訳も分からぬままに外へ出たいと望んで、切に願って。そうしたら、かつてのわたしは出られたんです。

「今だってきっとできるはずです」

 立ち上がろうとして、がくりと体が前のめりになりました。ずぶずぶと足が沈んでゆくようです。墓地に生えた草が、わたしの足を引っ張るように思えました。

 見れば、草履を履いている足がやはりぼやけています。足を失ったのではなく、霞んでぼやけているんです。

『秋燈し物語』の深雪。

 ええ、わたしは小説のなかの登場人物にすぎません。
 でも、朱鷺子先生のお墓に参ることを許された、たったひとりの登場人物なんです。

「平気よ、大丈夫」

 立てないのなら這っていけばいいわ。
 わたしは地面に生えている草を摑みました。まともに歩けぬ足をひきずり、腹ばいで進みます。

 ずるずると這う姿は、まるで川から上がった大山椒魚おおさんしょううおのようです。
 ハイカラな女学生にはほど遠い、みっともない姿です。。
 
「大丈夫よ。だってわたしは、朱鷺子先生に最後まで可愛がられた、村雨深雪ですもの」

 顔も着物も袴も、土で汚しながら進むと、頭が見えぬ膜にあたりました。
 そこが果てでした。

 辺りを窺うと、かすかな話し声が聞こえてきます。「魔風恋風」という、意味不明な言葉です。
 とにかく、外へ出なくては。

「えいっ。えいっ」

 肩を透明な膜にぶつけても、たわむだけで破れません。拳で叩いても、爪を立てても無理です。

「出してっ。ここから出して」

 わたしは声を張りあげました。
 声が嗄れるほどに。何度でも、何度でも。
 その時、鈍い音が聞こえました。そして怒号も。外で何が起こっているのか、わたしには分かりません。

「深雪っ。どこだ」

 わたしを呼ぶ声が聞こえました。銀之丈さんの声です。
 どこから? と、辺りを見回すと、膜の向こうにぼんやりと銀之丈さんらしき姿が見えます。

「ここです、深雪はここにいるんです」

 叫びながら膜を引っ掻いても、やはり破れません。
 手では無理です。何か道具を。ナイフは? ありません。

 わたしは草の上を這いながら、先生のお墓に向かいました。こうべを下げて手を合わせ「ごめんなさい、朱鷺子先生。本当にごめんなさい」と繰り返します。

 白百合の生けてある、角型の花立てを握りしめます。そして左腕でずりずりと這って、果てまで戻ります。
 顔は土で汚れ、口の中にまでこぼれた土が入ってきました。

 ひざまずいて立ち上がり、石でできた花立ての角を透明な膜にあてて動かします。
 ぼとりと白百合が地面に落ちました。百合がまき散らされ、それでも花の匂いはしません。これは絵だから。
 膜に傷をつけ、何度でも引っ掻いていきます。
 

「銀之丈さんっ」

 再び花立てを降ろしたとき、背中をぐいっと押されました。

――さぁ、おゆきなさい。

 柔らかな声と、朧月のような仄白い美しい手。指の先が青く染まった、わたしのよく知っている手。
 わたしを生みだしてくれた朱鷺子先生の手です。

 朱鷺子先生が微笑んだような気がしました。その姿は光の中にあるようで。輪郭がぼんやりと、けれど碧の水晶の粒がきらきらと煌めくように、螢が飛び交うように輝いて見えたのです。

 次の瞬間、はじける音がして。わたしは宙に放り出されました。

 銘仙の袂がふわりと翻ります。霞がかったぼんやりとした視界が、一気に明瞭になって。床の木の深い色、壁の白が目に映ります。
 そして銀之丈さんが、わたしを受けとめたのです。

「無事とは言い難いが。大丈夫か? 深雪」
「かろうじて……」
「足ないやんか。かろうじてとちゃうやろ」

 さっそく怒られてしまいました。でも、怖くないの。銀之丈さんは、わたしを心配して怒ってるんですもの。

「兄さん」と銀之丈さんに呼びかけながら、銀鼠の単衣を着た男性が走ってきます。
 雰囲気は柔らかくて。硬質な銀之丈さんと全然違うのに。お顔が似ています。

 ああ、知っているわ。この方。
 ずっと絵筆を握っていらした方だわ。
 もっとお若かったけれど。あふれる涙を拭いながら、すすり泣きながら、わたしを描いてくださったのよ。

「鈴之介。お前は掛け軸を持っていくんや」
「は、はい。けど、無茶しましたね」
「腕力があって、よかったわ」

 鈴之介さんとおっしゃる方は、周囲を見まわしています。
 銀之丈さんに抱えられながら、わたしも辺りに目を向けました。

 なんということでしょう。洋梨男と牛蒡男が倒れているではありませんか。

 床には古い新聞が落ちています。しわになり、破れてしまった新聞には、自転車に乗った女学生が描かれています。『魔風戀風まかぜこひかぜ』という題名が見てとれました。

「ほら。破れてしまってるやないですか」
「せやかて。くしゃっとしたんを伸ばすんで、時間稼ぎになるやろと思てん」

 銀之丈さんは、鈴之介さんに叱られています。銀之丈さんに説教できる人が存在するんですね。びっくりです。

「ほな、行くで」
 わたしを肩に担いだ銀之丈さんと、掛け軸を持った鈴之介さんは揃って走りだします。

「鈴之介。お前は巡査に説明してくれ、俺は深雪を連れて先に帰るわ」
「どう説明するんですか。この絵、朱鷺子さんのお墓しか残ってませんよ」
「あー、困ったな」

 まるで困っていない様子で、銀之丈さんは答えます。

「静海画伯の掛け軸は、どこへ消えたんやろ。それ、もう別もんやしな」

 廊下を走る銀之丈さんの動きに合わせて、肩に担がれたわたしの足がぶらぶらと揺れます。足首からのその先は、空気に溶けこんでしまったかのようにぼやけているけれど。

「『深雪墓參ぼさん』は行方不明やな。鈴之介、巡査にはうまい具合にごまかすんやで。お前はもともと館内に侵入してへんかったんやから。賊が窓を割って、びっくりして逃げようと思たんです、とでも言うとき」
「今は中に入ってますよ」

「うん。『ぼくの大事な絵があるかもと思て、居ても立ってもおられへんかったんです』って言い訳しいや。お前は窓から侵入したわけやないから、まぁ……平気ちゃうかな」

 草履をぱたぱたと鳴らして走りながら、鈴之介さんは呆れた表情を浮かべました。

「どうしていっつも後始末をぼくに任せるんですっ。去るのもつらいでしょうが、残されるのもつらいんですよ。分かってますか?」
「分かっとうって。信じてるで。鈴之介」

 わたしを抱えていても、銀之丈さんは走るのが早いです。鈴之介さんは、必死について来ているようでした。

「鈴之介を頼りにしとうから、任せられるねん」

 とうとう鈴之介さんは立ち止まってしまいました。

「もう、知りませんからね」と口を尖らせています。
 銀之丈さんよりもかなり年長に見えるのに。鈴之介さんに、華奢な少年の姿が重なったのです。

「ぼくは知りませんからね。本当に知りませんからね」と小さくなる声を背中で聞き流し、銀之丈さんは窓を引き上げて身を乗りだしました。

「米俵みたいに担いどったら引っかかるな」と呟くと、今度はわたしを横抱きにしたのです。

 まるで西洋の童話のように。
 米俵からお姫さまへの華麗な転身。なんて素直に喜べません。

 どうして米俵なんですか。
 もっと他に譬えようもあるでしょうに。
 窓の桟を乗り越え、銀之丈さんは跳びました。

 青々とした空を目指すように、夏の朝日に飛び込むように。辺りの景色は金銀翡翠、琥珀に菫青石きんせいせき
 空も木々も草も土も、風も何もかもが鮮烈な色と光に包まれています。

 わたし、出られたんだわ。あの寂しい墓地から出られたのだわ。

 ふと、朱鷺子先生を置いてきてしまったのではないかと、喜びに影が差しました。
 その後ろめたさを読み取ったのかどうか、分かりませんが。銀之丈さんは「朱鷺子さんの魂は、絵の中にはおらんで」と口にしたのです。

 美術館を出て坂を上り、銀之丈さんの肩越しに遠くメリケン波止場が見えます。
『BAGGAGE KEEPER』と看板を掲げた荷物預所に、税関監視所。瓦斯燈ガスとうの並ぶ波止場から黒い煙を吐いた小船が沖へと進みます。

 懐かしい香港上海銀行にオリエンタルホテル。
 朱鷺子先生が語ってくれた、朱鷺子先生が小説の中でわたしを連れて行ってくれた神戸の街が、視界いっぱいに広がって。

 こみ上げてくる郷愁にわたしは腕を伸ばしたのです。
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