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四章
2、影
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「ところで何を投げたんですか?」と鈴之介が問うた。
「古い讀賣新聞やで。明治の女学生が主人公の連載小説が載っとった」
『魔風戀風』はかなり古いやど。連載小説の人気が出すぎて、新聞が再販になるほどやったらしい。
朱鷺子さんが、その小説を好んで読んでいたのを覚えている。
探せば彼女の書棚に書籍もあるやろけど。多分、初出の新聞の方が価値は高いよな。
「それ、魔風戀風やないですか?」
「お、知ってんのか。さすが美人画の先生やな」
「ちょっ。兄さん。どれくらい価値があるもんを、ぐしゃっとして投げたんですか! しかもあいつらにやるやなんて」
「しーっ」と、俺は口の前で人さし指を立てる。
鈴之介も熱《あつ》なること、あるねんなぁ。
「朱鷺子さんが悲しみますよ。というか怒りますよ」
「まぁまぁ、深雪の方が大事やろ」
「それは……そうですけど」
口をへの字にして、鈴之介はそっぽを向いた。もー、芸術家は気むずかしいなぁ。
「そしたら、深雪をつれて帰ろか」
俺は立ちあがった。
鈴之介に手を差し伸べると、俺の顔をじっと見つめていた。今しがた顔を洗ったばかりのように、清々しい表情や。
なんや、どないしたんや。
「敵いませんね。兄さんには」
「言うとる意味が分からんわ」
「分からなくていいですよ」
柔らかく微笑んだ鈴之介は、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「小枝と葉がついています」
葉をつまみ、小枝を払って「とれましたよ」と鈴之介は目を細めた。
びっくりした。頭を撫でられるんかと思た。
実年齢も見た目も、そら鈴之介のほうが上やけど。兄には兄の矜持っちゅうもんがあるからな。
上げ下げ窓を引き上げ、桟に手を掛けてひょいと廊下に飛び降りる。俺の紗の単衣の裾が、ひらりと揺れた。
「行くで。鈴之介」と振り返ると、我が弟はまだ外で困惑した顔で立ちつくしとう。
困った奴やな。絵筆ばかり持っとうから、腕力があらへんのやろ。
「こんな悪いことをしたんは、初めてです」
なんや、そっちか。ええ子ちゃんやな。
「まぁ、せやろな。けど、こういうんは子供の頃に済ますもんやで」
さすがに俺も窓を割ったことはない……と思う。
窓から身を乗りだして、鈴之介に手を差し伸べる。
その時や。足音が近づいてきた。
俺は、鈴之介の手を離した。「隠れとき」と小声で指示を出す。
静かな館内に、足音が響いてる。杖の音やろか。足音の間に、トンッという音もする。
俺は横目で正面の門を見やった。
車が停まっとう。さっきまで閉じられとった門は、開いとった。
「これはこれは、ふてぶてしい侵入者ですね。何を盗みに入ったのですか?」
背広を着た老人が、俺を睨みつけとう。杖は持ち手が象牙の細工物や。
ここは酒造会社の美術館、ということは。
「社長かな? 俺はただ、あんたの手下に盗まれた物を返してもらいに来ただけや」
「ほぉ?」
にっこりと、けれど寒々とした笑みを男は浮かべる。
「存じ上げませんね。うちの所蔵品はすべて私のコレクション。盗むだなんて、濡れ衣も甚だしい」
俺も男も睨みあったまま視線を外さない。
窓辺ににじり寄った俺は、桟に手を置いたふりをして、指で正門をさし示す。鈴之介に見えるように。
行ってくれ。巡査を呼んできてくれ。
言葉にはできへんから、必死に念じる。
「静海画伯の掛け軸が盗まれたんや。おたくの職員にな」
「適当なことを言わんでもらおう」
皺の多い顔が、俺の足下をじっと見据える。力のない朝日が、窓から射しこんでくる。
社長はまだ目を離さへん。
「どうして君には影がないのかな?」
心臓が止まるかと思った。あれば、の話やけど。
杖が、奴の足もとのぼんやりとした影をつく。そして俺の足もとを杖で指す。
「耳にしたことがある。空き家となった家に、妖怪が住みついていると。人もいないのに、夜には明かりが灯るらしい」
「へぇ?」
「子がおるわけでもないのに、猫がエサを運びこむそうだ。近所の人がエサをあげても半分は、空き家に持っていくと聞いた」
しゃあないな。噂になっとったんか。
俺は井戸端会議に参加なんかせぇへんから。ぜんぜん知らんかったわ。
「まぁ、しゃあないんちゃうか? ここは国境が近いからな」
「は?」
何を言われたのか分からなかったんやろ。社長は目を丸くした。
「ここは摂津と播磨、淡路のみっつの国境が接しとう。異邦人は、国境では影ができへんのや」
「何を言っている?」
嘘はついてへん。俺は彼方者や。異界の、あの世の、そのどちらでもない者。
境目には人やないもんも集まる。
「そんな話は聞いたことがない。でたらめを言うな」
「あんたは世界のすべてを知っとうわけでもないやろ?」
まぁ、俺かて知らんけど。
俺の言葉が、見事に刺さったらしい。社長は眉をしかめて、黙りこんだ。
境界には不思議なもんや、あやかしが現れることが多いという。
橋の上、坂、峠に川べり。どちらの空間にも接しとって、どちらの領域でもある。ほなら、みっつの国境が接しとうこの辺りかて、あやかしが出てもおかしない。
現に俺と深雪が、ふたりもおるやんか。
「両義性って知っとうか? ひとつのもんに、相反するふたつの意味があることや。せやな、峠やったら里と山のふたつの世界が境界を接しとう。そういう場所や。村の端にお地蔵さんが祀ってあんのも、そこが境目やからや」
天婦羅やカツレツを食べたわけでもないのに、つるつると口がよく滑る。自分でもびっくりや。
けど、俺にも自負心はある。
触れることすらできずに、手がすり抜けてしもた猫を撫で。膝に乗せることができるほどに日々を過ごしたこと。
実体を得たこと。
深雪を取り戻すためには、一歩も引いたらあかんのや。
こつこつと、杖が床を突く音。その間隔がどんどん短くなる。
どないしたら勝てる? 勝機はどこや。
(小難しい話をしたときに、こいつはひるんだ)
年からしても、この社長が生まれたんは幕末の頃ちゃうか。そしたら今どきの若い社長みたいに、内地や外地の帝大を出てへん可能性が高い。
つまり叩き上げの社長や。酒どころの灘五郷は、江戸に創業した酒蔵も多い。
学問を納めて社長に就任したんとちゃう。
(見えた。こいつは知識と文化にコンプレックスがあるんや。せやから美術館を設立し、こないな早朝からわざわざ顔を出しとんのや)
美術館を経営するには多大な支出と労力が必要や。
それでもこいつは文化人であることを、周囲に知らしめるために美術に固執してる。
周年記念の展覧会を是が非でも成功させなあかんのや。
言い方は悪いが。少女小説の挿画が、せいぜい金の出せる範囲なんやろ。
文化人であるためには、どんな汚い手でも厭わない。静海画伯が描いた幻の美人画を入手して、大々的に宣伝を打つ算段やったんや。
ああ、元の銀之丈が賢うてよかった。なんとかなりそうや。
「御維新から五十年以上、経っとうけど。あんたんところは他社のように東京に売捌所も置いてへんのやろ。これみよがしに美術館を建てたんは、大手に負けてへんと見せびらかすためか?」
図星や。社長の口の端が、ぴくりと引きつった。
「このへんの酒造会社は、市庁舎や図書館も建てたりしとんな。そういや学校を経営してる会社もある。ほんまに立派やなぁ」
こうした知識は、朱鷺子さんの部屋にある古新聞で読んだ。俺の生前には、酒造会社が出資した私立の学校はまだなかった。
もっとまわれ、俺の口。
立て続けにしゃべって、相手の冷静さを奪うんや。
「あんたも高望みしたもんやなぁ。美術館なんか、金食い虫やろに。文化人になりたいのに、美術品を盗むとか品性を疑われるで。無理はせん方がええ」
「何が言いたい」
「風流を解さへん人間が、上っ面だけ真似をしても恥をかくって言うてんねん」
突然、社長の顔が真っ赤になった。まるで赤茄子だ。
よし。いける。
我を忘れるほどに相手を怒らせれば、こっちも動きやすい。
こいつは不法侵入されても、巡査を呼びに行かせへん。
社長やのに、警護の者も秘書もつれてへん。
なるほど、あの洋梨と牛蒡しか館内におらんのやったら、不法に手に入れた品も多いんやろ。
最小限の人数で動かんと、情報も洩れやすいからな。
「文化人や財界人の多いこの街で、あんたは背伸びをしとんのやな。けどなぁ、嘘で塗り固めた展覧会っちゅうことがばれたら、商売にどんな影響が出るんやろなぁ」
「うるさいっ」
社長の怒号が、廊下に響きわたる。
「美術館は、まず所蔵品ありきなんとちゃうん? あんた、箱から造ってどないすんねん。蒐集したコレクションが収まりきらんから、さて美術館でも建てよかっていうんが順番やろ」
社長の喉の奥で、犬が吠える前のような濁った音がした。顔まで犬に似ている気がする。狆のような鼻の低い顔や。
「この美術館も、いつまでもつんやろな。特色もあらへん、売りもあらへんもんな」
社長が、血走った目で睨みつけてくる。
馬鹿の一つ覚えのように「うるさい」と繰り返しながら、むやみやたらに杖を叩きつけてくる。
「あーあ、乱暴やな」
「賊だ。賊が侵入しているぞ。なぜ捕まえんのだっ」
館内のどこかにいる洋梨男らに聞こえるように、社長は声を張りあげる。
経営者っちゅうのは、やっぱり声がでかいなぁ。
「うん。俺を賊っていうんなら、巡査を呼びに行かせたらええんちゃう?」
まぁ、できへんよな。
俺と鈴之介が侵入しとうのに。交番に人をやらん時点でお察しや。
「巡査が来て、いろいろ表沙汰になったらまずいことを、あんたはしでかしとんやろ」
ぎりっと歯ぎしりの音が聞こえる。社長は杖で壁を叩いた。
「くそっ、くそっ」と、人の上に立つ人間とは思えぬ下品な言葉や。
「誰か、外のうらなりを捕らえろっ!」
門に向かって駆けていく鈴之介に気づいたようだ。社長は声を張りあげた。
「うらなりとか、ひどいわぁ。俺の家族やで。で? 彼を捕まえてどうすんの?」
「知るか。座敷牢に放りこむか、埋めるか、海に沈めるかのどれかや」
「わぁ、こわっ」
茶化して答えたが。こいつなら座敷牢辺りは、ほんまにやりそうや。さすがに人を殺す勇気はないやろけど。
「けどなぁ」と、俺は一歩を踏みだした。
俺よりもだいぶん背の低い社長を、間近で見下ろす。
「あれが誰か、あんたほんまに知らんのか? ちょっとは彼の顔が見えたはずやで」
「知るか。あんなうらなり」
やれやれ、と俺は肩をすくめる。
「教えといたろ。俺は親切やからな。あれは、今回の展覧会で目玉にする予定の美人画を描いた、静海鈴之介画伯や」
「は?」
俺の説明が理解できなかったようで、社長は目を丸くした。
「ほんまやで。画伯が、盗まれた自分の絵を取り戻しに来てん。それを、今度は殺すとか。あんた、まともやないで」
「あれが……静海画伯」
社長の手から杖が落ちた。御影石の床に落ちた杖は、かたんと硬い音を立てる。
「なんや。画伯の顔も知らんかったんか。あんた、ほんまに美術館の館長なん? 適性ないんちゃう?」
美術館の庭を走る足音が聞こえた。ざっざっと重く、まっすぐにこちらに向かってくる。
走ってくるのは巡査や。門のところには鈴之介と、深雪の修復を頼んだ表装師がおる。
泥棒に入られたから、巡査を呼びに行ってくれたんやろ。
たしかに表装師は、この美術館のチラシを見たとゆうとった。
「ほら、巡査が来てもたで」
社長は「ぐ……ぅ」と喉の奥でガマガエルが踏まれたような音を出した。
「古い讀賣新聞やで。明治の女学生が主人公の連載小説が載っとった」
『魔風戀風』はかなり古いやど。連載小説の人気が出すぎて、新聞が再販になるほどやったらしい。
朱鷺子さんが、その小説を好んで読んでいたのを覚えている。
探せば彼女の書棚に書籍もあるやろけど。多分、初出の新聞の方が価値は高いよな。
「それ、魔風戀風やないですか?」
「お、知ってんのか。さすが美人画の先生やな」
「ちょっ。兄さん。どれくらい価値があるもんを、ぐしゃっとして投げたんですか! しかもあいつらにやるやなんて」
「しーっ」と、俺は口の前で人さし指を立てる。
鈴之介も熱《あつ》なること、あるねんなぁ。
「朱鷺子さんが悲しみますよ。というか怒りますよ」
「まぁまぁ、深雪の方が大事やろ」
「それは……そうですけど」
口をへの字にして、鈴之介はそっぽを向いた。もー、芸術家は気むずかしいなぁ。
「そしたら、深雪をつれて帰ろか」
俺は立ちあがった。
鈴之介に手を差し伸べると、俺の顔をじっと見つめていた。今しがた顔を洗ったばかりのように、清々しい表情や。
なんや、どないしたんや。
「敵いませんね。兄さんには」
「言うとる意味が分からんわ」
「分からなくていいですよ」
柔らかく微笑んだ鈴之介は、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「小枝と葉がついています」
葉をつまみ、小枝を払って「とれましたよ」と鈴之介は目を細めた。
びっくりした。頭を撫でられるんかと思た。
実年齢も見た目も、そら鈴之介のほうが上やけど。兄には兄の矜持っちゅうもんがあるからな。
上げ下げ窓を引き上げ、桟に手を掛けてひょいと廊下に飛び降りる。俺の紗の単衣の裾が、ひらりと揺れた。
「行くで。鈴之介」と振り返ると、我が弟はまだ外で困惑した顔で立ちつくしとう。
困った奴やな。絵筆ばかり持っとうから、腕力があらへんのやろ。
「こんな悪いことをしたんは、初めてです」
なんや、そっちか。ええ子ちゃんやな。
「まぁ、せやろな。けど、こういうんは子供の頃に済ますもんやで」
さすがに俺も窓を割ったことはない……と思う。
窓から身を乗りだして、鈴之介に手を差し伸べる。
その時や。足音が近づいてきた。
俺は、鈴之介の手を離した。「隠れとき」と小声で指示を出す。
静かな館内に、足音が響いてる。杖の音やろか。足音の間に、トンッという音もする。
俺は横目で正面の門を見やった。
車が停まっとう。さっきまで閉じられとった門は、開いとった。
「これはこれは、ふてぶてしい侵入者ですね。何を盗みに入ったのですか?」
背広を着た老人が、俺を睨みつけとう。杖は持ち手が象牙の細工物や。
ここは酒造会社の美術館、ということは。
「社長かな? 俺はただ、あんたの手下に盗まれた物を返してもらいに来ただけや」
「ほぉ?」
にっこりと、けれど寒々とした笑みを男は浮かべる。
「存じ上げませんね。うちの所蔵品はすべて私のコレクション。盗むだなんて、濡れ衣も甚だしい」
俺も男も睨みあったまま視線を外さない。
窓辺ににじり寄った俺は、桟に手を置いたふりをして、指で正門をさし示す。鈴之介に見えるように。
行ってくれ。巡査を呼んできてくれ。
言葉にはできへんから、必死に念じる。
「静海画伯の掛け軸が盗まれたんや。おたくの職員にな」
「適当なことを言わんでもらおう」
皺の多い顔が、俺の足下をじっと見据える。力のない朝日が、窓から射しこんでくる。
社長はまだ目を離さへん。
「どうして君には影がないのかな?」
心臓が止まるかと思った。あれば、の話やけど。
杖が、奴の足もとのぼんやりとした影をつく。そして俺の足もとを杖で指す。
「耳にしたことがある。空き家となった家に、妖怪が住みついていると。人もいないのに、夜には明かりが灯るらしい」
「へぇ?」
「子がおるわけでもないのに、猫がエサを運びこむそうだ。近所の人がエサをあげても半分は、空き家に持っていくと聞いた」
しゃあないな。噂になっとったんか。
俺は井戸端会議に参加なんかせぇへんから。ぜんぜん知らんかったわ。
「まぁ、しゃあないんちゃうか? ここは国境が近いからな」
「は?」
何を言われたのか分からなかったんやろ。社長は目を丸くした。
「ここは摂津と播磨、淡路のみっつの国境が接しとう。異邦人は、国境では影ができへんのや」
「何を言っている?」
嘘はついてへん。俺は彼方者や。異界の、あの世の、そのどちらでもない者。
境目には人やないもんも集まる。
「そんな話は聞いたことがない。でたらめを言うな」
「あんたは世界のすべてを知っとうわけでもないやろ?」
まぁ、俺かて知らんけど。
俺の言葉が、見事に刺さったらしい。社長は眉をしかめて、黙りこんだ。
境界には不思議なもんや、あやかしが現れることが多いという。
橋の上、坂、峠に川べり。どちらの空間にも接しとって、どちらの領域でもある。ほなら、みっつの国境が接しとうこの辺りかて、あやかしが出てもおかしない。
現に俺と深雪が、ふたりもおるやんか。
「両義性って知っとうか? ひとつのもんに、相反するふたつの意味があることや。せやな、峠やったら里と山のふたつの世界が境界を接しとう。そういう場所や。村の端にお地蔵さんが祀ってあんのも、そこが境目やからや」
天婦羅やカツレツを食べたわけでもないのに、つるつると口がよく滑る。自分でもびっくりや。
けど、俺にも自負心はある。
触れることすらできずに、手がすり抜けてしもた猫を撫で。膝に乗せることができるほどに日々を過ごしたこと。
実体を得たこと。
深雪を取り戻すためには、一歩も引いたらあかんのや。
こつこつと、杖が床を突く音。その間隔がどんどん短くなる。
どないしたら勝てる? 勝機はどこや。
(小難しい話をしたときに、こいつはひるんだ)
年からしても、この社長が生まれたんは幕末の頃ちゃうか。そしたら今どきの若い社長みたいに、内地や外地の帝大を出てへん可能性が高い。
つまり叩き上げの社長や。酒どころの灘五郷は、江戸に創業した酒蔵も多い。
学問を納めて社長に就任したんとちゃう。
(見えた。こいつは知識と文化にコンプレックスがあるんや。せやから美術館を設立し、こないな早朝からわざわざ顔を出しとんのや)
美術館を経営するには多大な支出と労力が必要や。
それでもこいつは文化人であることを、周囲に知らしめるために美術に固執してる。
周年記念の展覧会を是が非でも成功させなあかんのや。
言い方は悪いが。少女小説の挿画が、せいぜい金の出せる範囲なんやろ。
文化人であるためには、どんな汚い手でも厭わない。静海画伯が描いた幻の美人画を入手して、大々的に宣伝を打つ算段やったんや。
ああ、元の銀之丈が賢うてよかった。なんとかなりそうや。
「御維新から五十年以上、経っとうけど。あんたんところは他社のように東京に売捌所も置いてへんのやろ。これみよがしに美術館を建てたんは、大手に負けてへんと見せびらかすためか?」
図星や。社長の口の端が、ぴくりと引きつった。
「このへんの酒造会社は、市庁舎や図書館も建てたりしとんな。そういや学校を経営してる会社もある。ほんまに立派やなぁ」
こうした知識は、朱鷺子さんの部屋にある古新聞で読んだ。俺の生前には、酒造会社が出資した私立の学校はまだなかった。
もっとまわれ、俺の口。
立て続けにしゃべって、相手の冷静さを奪うんや。
「あんたも高望みしたもんやなぁ。美術館なんか、金食い虫やろに。文化人になりたいのに、美術品を盗むとか品性を疑われるで。無理はせん方がええ」
「何が言いたい」
「風流を解さへん人間が、上っ面だけ真似をしても恥をかくって言うてんねん」
突然、社長の顔が真っ赤になった。まるで赤茄子だ。
よし。いける。
我を忘れるほどに相手を怒らせれば、こっちも動きやすい。
こいつは不法侵入されても、巡査を呼びに行かせへん。
社長やのに、警護の者も秘書もつれてへん。
なるほど、あの洋梨と牛蒡しか館内におらんのやったら、不法に手に入れた品も多いんやろ。
最小限の人数で動かんと、情報も洩れやすいからな。
「文化人や財界人の多いこの街で、あんたは背伸びをしとんのやな。けどなぁ、嘘で塗り固めた展覧会っちゅうことがばれたら、商売にどんな影響が出るんやろなぁ」
「うるさいっ」
社長の怒号が、廊下に響きわたる。
「美術館は、まず所蔵品ありきなんとちゃうん? あんた、箱から造ってどないすんねん。蒐集したコレクションが収まりきらんから、さて美術館でも建てよかっていうんが順番やろ」
社長の喉の奥で、犬が吠える前のような濁った音がした。顔まで犬に似ている気がする。狆のような鼻の低い顔や。
「この美術館も、いつまでもつんやろな。特色もあらへん、売りもあらへんもんな」
社長が、血走った目で睨みつけてくる。
馬鹿の一つ覚えのように「うるさい」と繰り返しながら、むやみやたらに杖を叩きつけてくる。
「あーあ、乱暴やな」
「賊だ。賊が侵入しているぞ。なぜ捕まえんのだっ」
館内のどこかにいる洋梨男らに聞こえるように、社長は声を張りあげる。
経営者っちゅうのは、やっぱり声がでかいなぁ。
「うん。俺を賊っていうんなら、巡査を呼びに行かせたらええんちゃう?」
まぁ、できへんよな。
俺と鈴之介が侵入しとうのに。交番に人をやらん時点でお察しや。
「巡査が来て、いろいろ表沙汰になったらまずいことを、あんたはしでかしとんやろ」
ぎりっと歯ぎしりの音が聞こえる。社長は杖で壁を叩いた。
「くそっ、くそっ」と、人の上に立つ人間とは思えぬ下品な言葉や。
「誰か、外のうらなりを捕らえろっ!」
門に向かって駆けていく鈴之介に気づいたようだ。社長は声を張りあげた。
「うらなりとか、ひどいわぁ。俺の家族やで。で? 彼を捕まえてどうすんの?」
「知るか。座敷牢に放りこむか、埋めるか、海に沈めるかのどれかや」
「わぁ、こわっ」
茶化して答えたが。こいつなら座敷牢辺りは、ほんまにやりそうや。さすがに人を殺す勇気はないやろけど。
「けどなぁ」と、俺は一歩を踏みだした。
俺よりもだいぶん背の低い社長を、間近で見下ろす。
「あれが誰か、あんたほんまに知らんのか? ちょっとは彼の顔が見えたはずやで」
「知るか。あんなうらなり」
やれやれ、と俺は肩をすくめる。
「教えといたろ。俺は親切やからな。あれは、今回の展覧会で目玉にする予定の美人画を描いた、静海鈴之介画伯や」
「は?」
俺の説明が理解できなかったようで、社長は目を丸くした。
「ほんまやで。画伯が、盗まれた自分の絵を取り戻しに来てん。それを、今度は殺すとか。あんた、まともやないで」
「あれが……静海画伯」
社長の手から杖が落ちた。御影石の床に落ちた杖は、かたんと硬い音を立てる。
「なんや。画伯の顔も知らんかったんか。あんた、ほんまに美術館の館長なん? 適性ないんちゃう?」
美術館の庭を走る足音が聞こえた。ざっざっと重く、まっすぐにこちらに向かってくる。
走ってくるのは巡査や。門のところには鈴之介と、深雪の修復を頼んだ表装師がおる。
泥棒に入られたから、巡査を呼びに行ってくれたんやろ。
たしかに表装師は、この美術館のチラシを見たとゆうとった。
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そこにいたのは、美しい青年の姿をした猫又の神様。
彼は現世(うつしよ)に迷い込んだあやかしを幽世(かくりよ)へ送り帰す案内人である。
卑屈令嬢と甘い蜜月
永久保セツナ
キャラ文芸
【全31話(幕間3話あり)・完結まで毎日20:10更新】
葦原コノハ(旧姓:高天原コノハ)は、二言目には「ごめんなさい」が口癖の卑屈令嬢。
妹の悪意で顔に火傷を負い、家族からも「醜い」と冷遇されて生きてきた。
18歳になった誕生日、父親から結婚を強制される。
いわゆる政略結婚であり、しかもその相手は呪われた目――『魔眼』を持っている縁切りの神様だという。
会ってみるとその男、葦原ミコトは白髪で狐面をつけており、異様な雰囲気を持った人物だった。
実家から厄介払いされ、葦原家に嫁入りしたコノハ。
しかしその日から、夫にめちゃくちゃ自己肯定感を上げられる蜜月が始まるのであった――!
「私みたいな女と結婚する羽目になってごめんなさい……」
「私にとって貴女は何者にも代えがたい宝物です。結婚できて幸せです」
「はわ……」
卑屈令嬢が夫との幸せを掴むまでの和風シンデレラストーリー。
表紙絵:かわせかわを 様(@kawawowow)
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
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