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三章

8、筆と万年筆

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 俺は酷い兄やと思う。
 遺してしまった朱鷺子さんのことは、最期まで心と頭を占めてた。
 意識が絶え、命が消えるその時まで朱鷺子さんのことを案じていた。

 指が血まみれになっても、顔が赤く染まり血だまりに溺れても、呼吸すらまともにできずにひゅうひゅうとか細い笛のような息になっても。

 やのに。朱鷺子さんと同じように悲しみ苦しむであろう、鈴之介のことは思い遣れんかった。

「ぼくはね、忘れることができへんのです。兄さんを失った朱鷺子さんは、感情をどこかへ置き忘れたかのようでした」

 俺の知らない話を、鈴之介は続けた。

「朱鷺子さんのことが心配で家を訪れれば、兄さんの墓に参っていると女中が言うやないですか。
墓地まで見に行けば、暑い夏の夕暮れに、蚊を何匹もまとわりつかせながらも、朱鷺子さんは兄さんの墓前で手を合わせてるんです。
痒さも痛さも、何も感じてへんようでした。いえ、どうでもええように見えました」

 逡巡するように、鈴之介は言葉を切った。

「あまりにもひたむきな朱鷺子さんに声をかけるんが、憚られました。夏の白菊と、兄さんを慕い続ける朱鷺子さん。その姿があまりにも美しかったんです。ぼくは……不謹慎にも絵にしたいと考えてしもたんです」
 

 ああ、それでなんか。俺は納得した。

 鈴之介の頭のなかには、俺の墓の前でひざまずく朱鷺子さんの姿が強烈に存在し続けている。
 頼りない夏夕空の色、細くたなびく線香の煙。白い菊とやつれた朱鷺子さん。

 人の不幸を描いたらあかんと、己を戒めながら。それでも鈴之介は構図を考えてしもたんやろ。

 だからこそ鈴之介は、深雪を描いた。

 じふてりやで朱鷺子さんが亡くなった後。
 ほとんど参る人のおらへん彼女の墓に、せめて深雪だけは墓参させてやりたいと願って。
 それが朱鷺子さんの供養になるから。

 けど、あまりにも鈴之介は心を込めすぎたんやろ。鈴之介が深雪の姿を、朱鷺子さんが深雪の心を形づくって、彼女は命を得た。

 想像でしかないが。
 俺が死んでから、朱鷺子さんは深雪に話しかけながら小説を書いてたんやろ。『秋燈し物語』が打ち切りになるまで、ずっと。

 古びた店の前で、鈴之介は足を止めた。看板には『表具店』と書かれている。
 この店には腕のいい表装師がいるのだと、鈴之介が教えてくれた。

「ごめんください」と、鈴之介は中へ入った。

 店内は薄暗く、作業場は奥にあるようでひっそりとしていた。
 鈴之介は、閉店間際に急ぎの仕事であることを詫びている。

「お願いです。どうか深雪を救ってやってください」

 俺は何度も何度も頭を下げた。
 
「まだ時間が経ってへんみたいで、よかったです。これがもっと遅かったら、湿った部分が茶に変色するんですよ。しわの寄った部分も直せると思いますよ」
「絵の薄れた部分は、ぼくが手を入れます」

 鈴之介は、足の部分がぼやけた深雪を見つめとう。

「この掛け軸は、展覧会に出品してほしいと言われとったんです」

「ああ、図書館や駅にもチラシが貼ってありましたね。『静海画伯の幻の絵』って書いてあったけど。この絵やったんですか」
「これは門外不出の絵なので。ぼくは、美術館に貸し出すつもりはないんです」
「せやったら、余計に丁寧に作業せなあきませんね」

 鈴之介と表装師の二人は深雪の絵の上で相談を続けとう。
 俺はただ、ひっそりと背後に控えて彼らの会話に耳を傾ける。専門の仕事に素人が口を挟むことはできへん。

 それに鈴之介には影があるけど、俺には影がない。
 いつまで此処におってええんやろ。ふと、そんな考えが泡のように湧きおこった。

 表具店を辞する頃には、すでに日は落ちて辺りは宵闇に包まれとった。店の前の鉢には、明日の朝には花を咲かせる朝顔の蕾がふくらんどった。

 瓦斯燈が灯されて、蛾が燈の周囲を飛ぶのが見えた。

「夜はええですね」と、鈴之介は吹きはじめた六甲山からの風に目を細めた。
「ああ」

 せやな、夜はええ。自分に影のないことを気にせんでもええんやから。

「掛け軸は表装師の彼に預けておきます。無論、しっかりと保管してくださるので、兄さんは心配せんでもええですよ」

 かたんかたたん。線路の継ぎ目で汽車が音を立てるんが、聞こえた。

「すまんな。すべて鈴之介に任せてしもて」
「ええんですよ。ぼくにできることなんですから」
「ありがとう」

 掛け軸を元通りにするには、かなりの金額がかかるはずや。だが俺には手持ちもない。

 風に乗り、微かに調子の外れた笛の音が聞こえてきた。
 ぴぃひゃ、ひゃら。
 ああ、夏祭りの練習か。音のする方をじっと見据える。

 俺のような存在は、さぞや珍しかろう。飲食をせずとも何年でも生きながらえ。せやのにまるで人のように眠る。芸はできんが珍奇ではあろう。

 ひーぃ、ひゃら。音が外れたままで笛は調子を強める。
 いつの間にか立ち止まっていたらしい。鈴之介が俺の着物の袖をくいっと引っ張った。

「あきませんよ。いっそ見世物小屋にでもご自分を売ろうやなんて考えては」
「……なんで分かった」
「分かりますよ。兄さんは昔から隠しごとが下手ですから」
「そうなんか?」

「ええ。ぼくみたいに誰に対しても笑顔で接しへんから。笑顔で取り繕う必要がないから。羨ましかったんです」

 袖から手を離さぬままに、鈴之介が苦い笑みを浮かべる。

「絵を描いて、誰かのご機嫌を取る必要もなかったでしょう? 仲良くなるための方法が、似顔絵を描くことでもなかったでしょう?」
「鈴之介」

 笛の音は、ようやくぴぃひゃらと正しく鳴った。

「あの作品はぼくが亡き朱鷺子さんに贈った物です。ある意味、元々持ち主はおらへんのですよ。せやからぼくが修復の負担をするのは当然のこと。ちゃいますか?」
「いや、正当やな」

 俺はゆっくりと頭を下げて「よろしく頼みます」と告げた。
 薄々気づいてはいた。
 朱鷺子さんの家は主を失い、それでも廃屋になることも売りに出されることもなかった。

 鈴之介が買い取ってたんやな。

 けど、鈴之介も朱鷺子さんの家に上がるんを怖がってたんや。兄や義姉となる人が生きとった頃には、もう戻れへんから。
 がらんとした家を見るんはつらいから。

 俺は、ひとりで朱鷺子さんの家に取り残された。彼女の留守を守っとんのやと自分に言い聞かせ続けた。
 誰にも見えず、命のない無機物にしか触れられなかった俺やったけど。いつしか家を訪れる猫に触れることができるようになった。

 子猫の頃は、膝に跳びのってきてはすかっと床に落ち。俺の腕に頭をすり寄せようとしては、体勢を崩してころんと転び。
 その様があまりにも憐れなので、触れたりたいと願ったのだ。

 幾年が過ぎて、俺の膝に跳びのってきた猫がちゃんと足の間におさまった時。
 嬉しそうにごろごろと喉を鳴らしたのが忘れられへん。

「そういえばいつだったか、兄さんから夜祭りのお土産に飴細工をもろたことがありましたね」
「金魚のか?」

「ええ」と、うなずく鈴之介の向こうから、近く遠く笛の音が聞こえる。

「今思えば。あれは朱鷺子さんの案ですね」
「……分かるのか」

「兄さんの選ぶ品ではありませんから」と、鈴之介は笛の音を目で追った。

「二人でぼくの為に選んでくれたことが嬉しかったんですよ。誰も居なくなったあの家は、誰も立ち入ることのないあの庭は、ぼくにとってはグレイト・メイサムホールかもしれません」

「グレイト・メイサムホール?」と、俺は説明を求めた。

「『秘密の花園』っていう本です。大きな館の、閉じられた庭の話です。朱鷺子さんの本棚にあるでしょう」と、鈴之介は呆れた表情をする。

「本があんなにたくさんあるのに。兄さんは、読みはらへんのですか?」

 優しい顔をして、なかなかに意地の悪いところがある。
 だが、作り笑顔で対応されるよりは、よっぽどええ。

 鈴之介と別れる時。あの絵を狙ってうちに美術館の職員が来たことを伝えておいた。

「掛け軸を貸してほしいという葉書はぼくのところにも来ましたよ。手元にないんで、断りました。それに深雪を見世物にする気はありません。深雪は、朱鷺子さんのためにしか飾らへんのです」

 深雪の絵は、朱鷺子さんが亡くなった後に描かれたものだ。
 けど、ずっと蔵にしまわれてたわけでもない。

 朱鷺子さんの一回忌にあたる追悼ミサを教会で行った後。親族たちが朱鷺子さんの家に集まり、その時に鈴之介は深雪の絵を飾ったらしい。

 当時、すでに名を成していた鈴之介の美人画。集まった人は少なかっただろうが『深雪ノ墓參』の存在は、静かに口伝えに広まっていったんやろ。
 あの時は、俺の姿が見える者がおったら面倒ごとになるから、奥の部屋に閉じこもっとったんで、詳しくは覚えてへん。

「俺や、絵から抜け出してきた深雪は、あやかしなんかなぁ」
「どうでしょうか」

 ゆっくりと歩く俺らの横を、点燈夫が追い越していった。少し先の瓦斯燈がぽわっと灯る。

「けど、人の愛から生まれたんは事実ですよ。存在を望まれてこの世に生まれたんです。それは幸福なことやと思います」
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