大正の夜ごとに君を待ちわびる

絹乃

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三章

7、鈴之介

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「あ、済みません。人違いです」

 困ったように眉を下げて、鈴之介は頭を下げた。昔と変わらぬ、柔和は雰囲気だ。

「うちに御用ですか? 掛け軸をお持ちのようですが」

 鈴之介が、一歩を踏みだしてくる。俺は反射的に、一歩下がった。
 鈴之介の影は、地面に長く伸びている。反して、俺の足もとはただ夕暮れの明るさだ。
 
「どうかしはりましたか?」

 胸がいっぱいで、俺はろくに言葉が出てこない。
 それは懐かしさなのか、健康に暮らすことのできている鈴之介を羨む気持ちなのか。

 そう考えて、はっとした。

 朱鷺子さんに作られた俺が、なぜ鈴之介を羨む気持ちを抱いてるんや。
 彼女には悟られんように振る舞ってきたはずや。一言だって朱鷺子さんには洩らしていない。
 日記にだって、手帖にだって書き残してへん。

 仲のええ弟への嫉妬心は、俺は墓場へ持っていったはずや。
 けど……。

 ああ、そうやな。知っとって当然や。

 あの人は鏡朱鷺子先生や。作家なんや。人の心の機微に疎いはずがない。
 闘病中の俺の心の内なんか、お見通しやったんや

 心が汚れとっても、あなたを置いて逝ってしもても。それでも俺を愛してくれたんや。
 薄汚い部分まで含めて、それが本当の俺やから。原稿用紙に書き記してくれたんやろ?

「先生の作品が湿ってしまいました。どうすればいいのか、お伺いしたんです」

 俺の言葉に、ぴくりと鈴之介の眉が動いた。空気がぴりりと震えるのが分かる。

「お上がりください。確認させてもらいます」

 門がぎいっと開かれる。俺が暮らす朱鷺子さんの家とは違い、きれいに剪定された前栽。玄関へ続く敷石も昔のままで、まるで俺が元気だった頃のようだ。
 鈴之介は懐から巾着を取りだし、玄関の戸の鍵を開けた。

 通されたのは南に面した明るい和室や。この廊下の奥は俺が使っていた洋間で、北に面した薄暗い和室は鈴之介の部屋やった。
 絵を描く鈴之介は、直射日光を嫌ったのだ。

「拝見させていただいても宜しいですか?」

 俺はこくりと頷いて、掛け軸を鈴之介に手渡した。俺のようにごつごつしていない、長くしなやかな指だ。

 夕暮れの光が射しこむ明るい部屋だが、鈴之介が掛け軸を置いたのは仄暗い陰になった畳やった。

 しゅるる、と紐が解かれて手拭いで包まれた掛け軸が開かれる。
 息を呑む音が聞こえた。
 鈴之介の細く長い指が、小刻みに震えている。

「深雪……」

 それはまるでため息のような声やった。

 オルガン型の墓石の前でひざまずく深雪。見覚えのある銘仙の着物に紫の袴。黒いレエスのヴェールを被り、祈りの形に手を組んでいる。
 けれど草履を履いた足の辺りがぼやけて見える。

「可哀想に」と鈴之介が眉根を寄せた。
 その表情は、酷く扱われた娘を気遣う様子やった。

「水がかかったんとはちゃいますね。なんて言うたらええんでしょう。濡れたというよりも、湿気がじわじわ広がってるみたいです」

 鈴之介の指摘どおりやった。

 しんとした和室で、床の間に飾ってある白い沙羅双樹の花が風もないのにぽとりと落ちた。
 しゅるる、と掛け軸を巻く音がする。鈴之介は立ち上がった。

「私が懇意にしている表具店があります。今から一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」

 俺は正座したまま、深々と頭を下げた。

 鈴之介はすぐに玄関へと向かった。大人になってもやはりほっそりとした和服の背中を、俺は追う。
 
 夕凪の時間なんやろう。門を出るとのったりと暑い空気が停滞していた。
 そよとも揺れない凌霄花の濃い緑の葉も、夕日を凝縮したようなその花も。陸風が吹くのを待ち続けているかのようや。

 俺らは海へとまっすぐに続く坂を下りる。
 掛け軸を持った鈴之介が途中で振り返った。

「こっちですよ。兄さん」
「ああ」

 とっさに答えて、はっとした。

 俺の返事は小さい。だが、それを消してくれる風は吹いてへん。下校時間をとっくに過ぎているので、はしゃぐ女学生もおらへん。
 立ち止まった俺を、鈴之介はじっと見つめている。そして柔らかな笑みを浮かべた。

「ええんですよ。私……いえ、ぼくは嬉しいんです。兄さんと朱鷺子さん、実際は彼女の分身の深雪やけど。三人で一緒にいられるなんて夢のようですから」
「鈴之介」

 己の正体を隠すことすら忘れて、俺は弟の名を呼んだ。

「怖ないんか? 俺のことが」

 どっど、と遠くから汽車の低い音が聞こえてくる。少し間をおいて、石炭を燃やしたにおいが仄かに漂ってきた。

「幽霊やなさそうですよ」
「まぁな」
「お化けやったら、幽霊画の題材にするんですけど。男性の幽霊画は、あんまり風情があらへんのとちゃいますかね」

 おどけた口調やったけど。西日が鈴之介の顔に寥寥とした影を落とした。

「店がもう閉まる頃ですから、急ぎましょう」と俺を促して鈴之介は歩を速める。
 急だった坂は、海沿いの通りに近づくにつれて緩やかになる。

「怖いとは思いませんけど……嬉しいのに、つらいんです。置いていかれた者が、どれほどの苦しさを抱き続けるか分かりますか?」

 俺は答えることができんかった。
 なぜならば、俺は朱鷺子さんよりも両親よりも、誰よりも先に旅立ってしまったからだ。残していく苦しさは嫌というほど分かる。

 だが兄を、いずれは義姉となる朱鷺子さんを、そして両親すらも見送ったであろう鈴之介の気持ちを正確には推しはかることはできやしない。
 それは喪失感であり、夜ごとに心を蝕む空虚感であり、たった一人取り残された寂しさやろう。

「兄さんが亡くなった後。朱鷺子さんは泣くことすらできんかったんです」

 ざっざと鈴之介の草履の音がする。

「中には『薄情なものだ』と吐き捨てた人もおりました。『親の決めた結婚だから、冷めたもんや』と罵る音も」

 これまでは、ろくに足音も立てていなかった鈴之介の草履が騒々しい。

 ええねん、鈴之介。朱鷺子さんや俺の代わりに怒らんでもええねん。
 俺は、肩をいからせた弟の背中を見つめた。鈴之介の華奢な背には、いろんな重いもんが乗っかってるように思えた。

「小説の連載が打ち切りになった朱鷺子さんは、一心不乱に何かを書いてました」

 うん。よう知っとう。

「ぼくには分かるんです。朱鷺子さんは書くことでしか、ぽっかりと空いた傷口から絶えず噴き出す血を止めることができへんことを。彼女は涙を流す代わりに、指先から文字をこぼれさせて。そしてその文字が涙そのものになったんです」

 突然、鈴之介が立ちどまった。

「ぼくも、朱鷺子さんも……泣きたかったんです」

 雨が降ってもいないのに。雨雲など見えもしないのに。ぽたぽたと土に水滴が染みこんでいく。
 水玉が地面を濃茶に染めて、水玉と水玉がつらなって。

 そして鈴之介は肩を震わせていた。
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