27 / 34
三章
6、なつかしい弟
しおりを挟む
朱鷺子さんの葬儀は教会で執り行われた。彼女が通っとった女学校の教会や。
少女小説が売れたばかりに、卒業してもなお朱鷺子さんは母校に通いつめとった。
人生の最期にまた同じ場所へと向かうのが皮肉であり、彼女らしくもあった。
俺は人間やないから、彼女の霊に出会えるんやないかと期待したが。それは叶わんかった。
きっと朱鷺子さんは、あの世で本当の俺に再会するんやろ。
ならば、ここに遺された俺は?
静海銀之丈やないんか? 偽物なんか?
亡骸が運ばれた後の、がらんとした朱鷺子さんの部屋。畳の匂いも柱や鴨居の匂いも、庭の草も。どれもが、いろんな種類の白い花の匂いに上書きされている。
まるで見知らぬ家のようや。
俺は文机に向かい、無造作に重ねた原稿用紙を手に取った。
俺の名前がある。どの紙にも。
皮肉な笑みを浮かべ、意地悪を言う俺。優しい笑みを浮かべる俺。朱鷺子さんの荷物を持ってあげ、或いは二人で百貨店に向かい、陽光に満ちた浜辺を散策する。
弱々しく乱れた青い文字が滲んだ。
そうや。俺は偽物なんかやない。
朱鷺子さんが遺してくれた……彼女の大事な遺品なんや。
そして遺品としてこの家に残り続けた俺は、時を重ねるうちに実体を得るようになった。
人に見えるようになったんや。
朱鷺子さんの死を悼んだ鈴之介は、彼女のお気に入りの主人公である深雪が墓参する絵を描いた。
俺と深雪は、そろって朱鷺子さんの形見や。
朱鷺子さんは深雪の物語を書く時も、ずっと彼女と対話を続けてたんやろ。ちゃんと存在する人として、深雪と接してたから。
深雪もまた、実体を得た。
せやのに俺は、深雪の描かれた絵の管理をせんかった。
けど、今は深雪を守らなあかん。朱鷺子さんの大事な少女なんやから。俺しか、深雪を守ることはできへんのやから。
「今ならまだ間に合うんちゃうか? 明日まで待たんでも。俺には伝手があるやないか」
俺は万年筆を手に取った。カートリッジの中のインクは、もう乾燥してしもてる。
しゃあないからインク壺を開けて、濃くなったインクにペン先をひたした。
大きく深呼吸して、精神を整える。
これは大事な手紙や。深雪を救うための懇願なんや。
俺は、鈴之介に助けを求める手紙を一気に書きあげた。
りりり、と庭から聞こえる虫の声。また、りりと呼応する声。
俺の声に、誰も応えぬ暮らしに慣れとった。
せやのに深雪が消えて、その静寂を寂しいと思うようになった。
一人きりの時よりも、人がいなくなった後の方が孤独は身に染みるんやな。
掛け軸を、乾いた手拭いで包む。手紙と掛け軸を持って、俺は家を出た。
ぎぃっと軋んだ音を立てて門を開くと、視界が一気に開けた。下ってゆく坂の果てに夏の海が見える。
この家の庭は木々の繁るに任せ、手入れもしてへんかった。食事も水も必要なかった俺は、朱鷺子さんの家から出ることもなかった。ただ保管してあるオイルをランプに注いで、わずかばかりの灯りを確保してただけや。
海風が髪を撫で、着物の袖を揺らす。潮の匂いが濃い。
今のあやかしじみた俺やのうて。人であった頃にはよくなじんでいた匂いだ。
夕日に煌めく海と、一足早く闇に沈んだような淡路島。進むごとに胸を締めつけられる。
凌霄花の鮮やかな橙色の花が咲く角を曲がれば、朱鷺子さんを助けた坂道や。
急げ。鈴之介の元へ。
彼しか深雪を救うことはできん。
坂の上にある女学校に併設された修道院から、鐘の音が聞こえた。
俺は坂の途中で角を曲がった。神社が近いので、鬱蒼とした杜が路地に一足早い宵を落としてる。
朱鷺子さんの家の庭よりも、さらに緑の匂いが濃い。
子どもの頃に、鈴之介と一緒に駆け上がった苔むした階段が見える。
あと少しや。
鈴之介は、まだ実家におるよな。この町を出て、よそへ行ってへんよな。
祈るように願いつつ、俺は走る。
待っていろ、深雪。お前は絶対に救ったる。
築地塀に沿って進むと、瓦屋根の門が見えてきた。杜の木下闇が広がったのか、瓦はいっそう黒々と深みを増している。
表札には『静海』の文字。
門は大きく、通常はそばの脇戸から中に入る。古参の使用人が出てくれば、なぜ銀之丈がいるのかと訝しむことやろ。
幽霊だと騒がれるかもしれへん。静海の息子は成仏できていないと、悪い噂が立つに違いない。
それでも。悪評が立ったとしても、もとの銀之丈も俺と同じ行動をとったことやろ。
脇戸を叩こうとしたその時。
「兄さん?」
背後から声をかけられた。
弾かれたようにふり返ると、涼しげな銀鼠の絽の着物をまとった男性が立っていた。
鈴之介や。
俺よりもずいぶんと年上になってしもた、三十代半ばの弟がいた。
少女小説が売れたばかりに、卒業してもなお朱鷺子さんは母校に通いつめとった。
人生の最期にまた同じ場所へと向かうのが皮肉であり、彼女らしくもあった。
俺は人間やないから、彼女の霊に出会えるんやないかと期待したが。それは叶わんかった。
きっと朱鷺子さんは、あの世で本当の俺に再会するんやろ。
ならば、ここに遺された俺は?
静海銀之丈やないんか? 偽物なんか?
亡骸が運ばれた後の、がらんとした朱鷺子さんの部屋。畳の匂いも柱や鴨居の匂いも、庭の草も。どれもが、いろんな種類の白い花の匂いに上書きされている。
まるで見知らぬ家のようや。
俺は文机に向かい、無造作に重ねた原稿用紙を手に取った。
俺の名前がある。どの紙にも。
皮肉な笑みを浮かべ、意地悪を言う俺。優しい笑みを浮かべる俺。朱鷺子さんの荷物を持ってあげ、或いは二人で百貨店に向かい、陽光に満ちた浜辺を散策する。
弱々しく乱れた青い文字が滲んだ。
そうや。俺は偽物なんかやない。
朱鷺子さんが遺してくれた……彼女の大事な遺品なんや。
そして遺品としてこの家に残り続けた俺は、時を重ねるうちに実体を得るようになった。
人に見えるようになったんや。
朱鷺子さんの死を悼んだ鈴之介は、彼女のお気に入りの主人公である深雪が墓参する絵を描いた。
俺と深雪は、そろって朱鷺子さんの形見や。
朱鷺子さんは深雪の物語を書く時も、ずっと彼女と対話を続けてたんやろ。ちゃんと存在する人として、深雪と接してたから。
深雪もまた、実体を得た。
せやのに俺は、深雪の描かれた絵の管理をせんかった。
けど、今は深雪を守らなあかん。朱鷺子さんの大事な少女なんやから。俺しか、深雪を守ることはできへんのやから。
「今ならまだ間に合うんちゃうか? 明日まで待たんでも。俺には伝手があるやないか」
俺は万年筆を手に取った。カートリッジの中のインクは、もう乾燥してしもてる。
しゃあないからインク壺を開けて、濃くなったインクにペン先をひたした。
大きく深呼吸して、精神を整える。
これは大事な手紙や。深雪を救うための懇願なんや。
俺は、鈴之介に助けを求める手紙を一気に書きあげた。
りりり、と庭から聞こえる虫の声。また、りりと呼応する声。
俺の声に、誰も応えぬ暮らしに慣れとった。
せやのに深雪が消えて、その静寂を寂しいと思うようになった。
一人きりの時よりも、人がいなくなった後の方が孤独は身に染みるんやな。
掛け軸を、乾いた手拭いで包む。手紙と掛け軸を持って、俺は家を出た。
ぎぃっと軋んだ音を立てて門を開くと、視界が一気に開けた。下ってゆく坂の果てに夏の海が見える。
この家の庭は木々の繁るに任せ、手入れもしてへんかった。食事も水も必要なかった俺は、朱鷺子さんの家から出ることもなかった。ただ保管してあるオイルをランプに注いで、わずかばかりの灯りを確保してただけや。
海風が髪を撫で、着物の袖を揺らす。潮の匂いが濃い。
今のあやかしじみた俺やのうて。人であった頃にはよくなじんでいた匂いだ。
夕日に煌めく海と、一足早く闇に沈んだような淡路島。進むごとに胸を締めつけられる。
凌霄花の鮮やかな橙色の花が咲く角を曲がれば、朱鷺子さんを助けた坂道や。
急げ。鈴之介の元へ。
彼しか深雪を救うことはできん。
坂の上にある女学校に併設された修道院から、鐘の音が聞こえた。
俺は坂の途中で角を曲がった。神社が近いので、鬱蒼とした杜が路地に一足早い宵を落としてる。
朱鷺子さんの家の庭よりも、さらに緑の匂いが濃い。
子どもの頃に、鈴之介と一緒に駆け上がった苔むした階段が見える。
あと少しや。
鈴之介は、まだ実家におるよな。この町を出て、よそへ行ってへんよな。
祈るように願いつつ、俺は走る。
待っていろ、深雪。お前は絶対に救ったる。
築地塀に沿って進むと、瓦屋根の門が見えてきた。杜の木下闇が広がったのか、瓦はいっそう黒々と深みを増している。
表札には『静海』の文字。
門は大きく、通常はそばの脇戸から中に入る。古参の使用人が出てくれば、なぜ銀之丈がいるのかと訝しむことやろ。
幽霊だと騒がれるかもしれへん。静海の息子は成仏できていないと、悪い噂が立つに違いない。
それでも。悪評が立ったとしても、もとの銀之丈も俺と同じ行動をとったことやろ。
脇戸を叩こうとしたその時。
「兄さん?」
背後から声をかけられた。
弾かれたようにふり返ると、涼しげな銀鼠の絽の着物をまとった男性が立っていた。
鈴之介や。
俺よりもずいぶんと年上になってしもた、三十代半ばの弟がいた。
10
お気に入りに追加
49
あなたにおすすめの小説
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R18】兵士となった幼馴染の夫を待つ機織りの妻
季邑 えり
恋愛
幼くして両親を亡くした雪乃は、遠縁で幼馴染の清隆と結婚する。だが、貧しさ故に清隆は兵士となって村を出てしまう。
待っていろと言われて三年。ようやく帰って来る彼は、旧藩主の娘に気に入られ、村のために彼女と祝言を挙げることになったという。
雪乃は村長から別れるように説得されるが、諦めきれず機織りをしながら待っていた。ようやく決心して村を出ようとすると村長の息子に襲われかけ――
*和風、ほんわり大正時代をイメージした作品です。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる