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三章
1、サナトリウム
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俺は、サナトリウムに入院することになった。
須磨浦療病院っちゅうとこで、実家よりも海に近い。
ちょっと高台になっとう露台から見下ろせば。よう手入れされた庭では、次々と季節の花が咲いとう。
その向こうには白砂青松の須磨の海岸や。
光源氏が住んどったんが、この須磨やな。
俺は療養中も努めて明るくふるまっとったけど。
サナトリウムでの日々は退屈で、けれど常に暗い影が潜んでた。
それは夜中にどこかの部屋から聞こえる苦しげな咳や、看護婦の走り回るばたばたという音やった。
俺の部屋の前を行き過ぎた足音は、どこかの部屋の前で止まる。
どこかは知らん。知らん方がええ。
昼間、露台で世間話をしながら、一緒に日光浴をしていた患者の部屋かもしれへんからや。
今日はおった人が、明日もおるとは限らへん。
退院ならばめでたいが。それもそれで素直には祝福できへん自分が醜くて嫌になる。
弟の鈴之介が色白で、俺は色黒やと思てた。けど、ちゃうかった。
自分の肌がほんまは白いんやと、初めて知った。
たくましかった俺の体からは筋肉も落ちてしもた。
ほんのちょっと歩いただけでも、息が上がってしまう。
「なんでやねん。駅から家までの急坂でも、平気で登っとったやんか。あんな傾斜は、ほぼ山道やったやろ」
静かな夜。サナトリウムには、須磨の浜辺に寄せては返す波の音が届く。
ごほ、ごほ。遠くから咳の声が聞こえる。
俺は両手で耳を塞いだ。
せやないと、俺の病んだ肺まで引きずられてしまいそうで。
毎日当たり前のように出社し、時には黒い煙をたなびかせる船に乗り、外国へ出張もした。そんな日々は幻やったんやろか。
虚弱な弟の鈴之介よりも、床に伏せる時間が長くなるやなんて。
朱鷺子さんとの結婚はどうなるんやろ。次の春には女学校を卒業する彼女のことや。将来を考えたら、婚約を破棄した方がええんかもしれへん。
破棄して……それで?
「まぁ、健康な男と結婚するよな」
朱鷺子さんは世間知らずのお嬢さんやけど。それでも彼女が文机に向かう姿を知っとうから。悩んで悩んで少女らの期待に応えるために執筆しとんを知っとうから。
彼女の苦悩を知らん奴に、朱鷺子さんをやるもんか。
俺は生へ執着した。
肺病なんか絶対に治す。健康になって、朱鷺子さんと長い生涯を共にするんや。
「朱鷺子さん、夜更かしなんかしてへんやろか。またインクで指を汚してんのとちゃうやろか」
自分の病状の心配よりも、俺は常に朱鷺子さんが無茶してへんやろかと案じとった。
◇◇◇
「大丈夫ですよ。きっとすぐに治ります」
四月の日曜日。見舞いに来た朱鷺子さんは、朗らかな笑顔を俺に向けてくれた。
まるで宵闇が降りる頃、ひとつひとつの瓦斯燈が点燈夫によって、ぽっと火がともされるように。彼女は、俺の心を明かりで満たしてくれた。
「いい天気ですね」
朱鷺子さんは、窓辺に立って外を眺めた。
海も空も滲んだ春の青だ。白く小さな帆掛け舟は、いかなご漁や。海面に白い水脈を引く客船も見える。白地に赤い二本線の旗を掲げてるから、日本郵船やろ。
「上海航路の船か。懐かしいな」
「銀之丈さんがお元気になったら、上海に行きましょうよ」
「お、ええな。俺も仕事でしか行ったことがないねん」
魅力的な誘いやった。朱鷺子さんは、はっきりとは口にせぇへんかったけど。つまり新婚旅行っていうことやから。
はよ治そ。大丈夫、見果てぬ夢やない。
下半分を引き上げた窓から、風が吹きこんでくる。まるで春のお裾分けのように、桜のはなびらがひらひらと舞いこんできた。
「そういえば。銀之丈さんにいただいた朱欒ですけれど。撒いた種が今では苗になっているんですよ。若木になって、十年後には実が生りますよ」
「へぇ。あんな小さい種でも、木になるんや。ほな、十年後に収穫して、一緒に食べよか」
「はい。ぜひ」
お月さまのような朱欒の実がぽこぽこと生るのを夢見るように、朱鷺子さんはうっとりと目を細めた。
その日の帰り際。朱鷺子さんは鞄から封筒を取りだした。
「鈴之介さんから、お手紙を預かっています」
「手紙? なんでや。鈴之介が自分で届けるか、郵便を使たらええやん」
気楽に答えたが。俺の手は、胸ポケットに入れていたナイルの箱を探していた。今はもう背広もシャツも着てへんのに。昼も夜も寝間着で過ごしてんのに。
「銀之丈さん? どうかなさいまして?」
「いや、なんでもない」
朱鷺子さんに問われて、俺は笑顔を張りつけた。微笑んだ頬が引きつってへんことを願いながら。
なんで鈴之介と朱鷺子さんが会うてたからって、こないに動揺せなあかんねん。
いずれはふたりは義姉と義弟の関係となるのに。
(なんなんやろな、これ。煙草を喫うことができとったら、一生知らんで済んだ汚さかもしれんな)
俺の肺ばかりか、心までもどす黒い黴で覆われていくようや。
須磨浦療病院っちゅうとこで、実家よりも海に近い。
ちょっと高台になっとう露台から見下ろせば。よう手入れされた庭では、次々と季節の花が咲いとう。
その向こうには白砂青松の須磨の海岸や。
光源氏が住んどったんが、この須磨やな。
俺は療養中も努めて明るくふるまっとったけど。
サナトリウムでの日々は退屈で、けれど常に暗い影が潜んでた。
それは夜中にどこかの部屋から聞こえる苦しげな咳や、看護婦の走り回るばたばたという音やった。
俺の部屋の前を行き過ぎた足音は、どこかの部屋の前で止まる。
どこかは知らん。知らん方がええ。
昼間、露台で世間話をしながら、一緒に日光浴をしていた患者の部屋かもしれへんからや。
今日はおった人が、明日もおるとは限らへん。
退院ならばめでたいが。それもそれで素直には祝福できへん自分が醜くて嫌になる。
弟の鈴之介が色白で、俺は色黒やと思てた。けど、ちゃうかった。
自分の肌がほんまは白いんやと、初めて知った。
たくましかった俺の体からは筋肉も落ちてしもた。
ほんのちょっと歩いただけでも、息が上がってしまう。
「なんでやねん。駅から家までの急坂でも、平気で登っとったやんか。あんな傾斜は、ほぼ山道やったやろ」
静かな夜。サナトリウムには、須磨の浜辺に寄せては返す波の音が届く。
ごほ、ごほ。遠くから咳の声が聞こえる。
俺は両手で耳を塞いだ。
せやないと、俺の病んだ肺まで引きずられてしまいそうで。
毎日当たり前のように出社し、時には黒い煙をたなびかせる船に乗り、外国へ出張もした。そんな日々は幻やったんやろか。
虚弱な弟の鈴之介よりも、床に伏せる時間が長くなるやなんて。
朱鷺子さんとの結婚はどうなるんやろ。次の春には女学校を卒業する彼女のことや。将来を考えたら、婚約を破棄した方がええんかもしれへん。
破棄して……それで?
「まぁ、健康な男と結婚するよな」
朱鷺子さんは世間知らずのお嬢さんやけど。それでも彼女が文机に向かう姿を知っとうから。悩んで悩んで少女らの期待に応えるために執筆しとんを知っとうから。
彼女の苦悩を知らん奴に、朱鷺子さんをやるもんか。
俺は生へ執着した。
肺病なんか絶対に治す。健康になって、朱鷺子さんと長い生涯を共にするんや。
「朱鷺子さん、夜更かしなんかしてへんやろか。またインクで指を汚してんのとちゃうやろか」
自分の病状の心配よりも、俺は常に朱鷺子さんが無茶してへんやろかと案じとった。
◇◇◇
「大丈夫ですよ。きっとすぐに治ります」
四月の日曜日。見舞いに来た朱鷺子さんは、朗らかな笑顔を俺に向けてくれた。
まるで宵闇が降りる頃、ひとつひとつの瓦斯燈が点燈夫によって、ぽっと火がともされるように。彼女は、俺の心を明かりで満たしてくれた。
「いい天気ですね」
朱鷺子さんは、窓辺に立って外を眺めた。
海も空も滲んだ春の青だ。白く小さな帆掛け舟は、いかなご漁や。海面に白い水脈を引く客船も見える。白地に赤い二本線の旗を掲げてるから、日本郵船やろ。
「上海航路の船か。懐かしいな」
「銀之丈さんがお元気になったら、上海に行きましょうよ」
「お、ええな。俺も仕事でしか行ったことがないねん」
魅力的な誘いやった。朱鷺子さんは、はっきりとは口にせぇへんかったけど。つまり新婚旅行っていうことやから。
はよ治そ。大丈夫、見果てぬ夢やない。
下半分を引き上げた窓から、風が吹きこんでくる。まるで春のお裾分けのように、桜のはなびらがひらひらと舞いこんできた。
「そういえば。銀之丈さんにいただいた朱欒ですけれど。撒いた種が今では苗になっているんですよ。若木になって、十年後には実が生りますよ」
「へぇ。あんな小さい種でも、木になるんや。ほな、十年後に収穫して、一緒に食べよか」
「はい。ぜひ」
お月さまのような朱欒の実がぽこぽこと生るのを夢見るように、朱鷺子さんはうっとりと目を細めた。
その日の帰り際。朱鷺子さんは鞄から封筒を取りだした。
「鈴之介さんから、お手紙を預かっています」
「手紙? なんでや。鈴之介が自分で届けるか、郵便を使たらええやん」
気楽に答えたが。俺の手は、胸ポケットに入れていたナイルの箱を探していた。今はもう背広もシャツも着てへんのに。昼も夜も寝間着で過ごしてんのに。
「銀之丈さん? どうかなさいまして?」
「いや、なんでもない」
朱鷺子さんに問われて、俺は笑顔を張りつけた。微笑んだ頬が引きつってへんことを願いながら。
なんで鈴之介と朱鷺子さんが会うてたからって、こないに動揺せなあかんねん。
いずれはふたりは義姉と義弟の関係となるのに。
(なんなんやろな、これ。煙草を喫うことができとったら、一生知らんで済んだ汚さかもしれんな)
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