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二章
5、深雪の絵
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嘘やろ、おい。
己の目が映すものが信じられんかった。何のために雨戸を閉めたと思てるんや、このあほ。
袴の裾と着物の袂をひらりと揺らし、淡い藤色のリボンが去っていく。
手を伸ばしても掴むことができへん。間に合わん。
「ありましたよ、銀之丈さん」
しとどに濡れた草むらに手を突っ込んで笑顔で振り返った深雪は、笑顔のまま頽れた。
俺は慌てて庭に降りる。裸足の足裏が石で痛むのも、濡れるのも構わずに。
今にも消えそうな深雪は、その手にしっかりと俺の煙草を、ナイルの箱を握っとった。
「馬鹿か。そんなものどうだってええやろが。なんでお前が蔵から外に出られへんかったのか、考えてみぃ」
いいや、分かってる。深雪に考えることなど無理だ。
朱鷺子先生はこいつを、思考を深める性格には描かなかった。
素直で無垢で、愛らしい女学生。困ったことが起これば、マリア様に祈ればいい。不安なことがあれば、友人と手を取り合って嘆くだけ。
その無力さが、家や父に逆らえないでいる数多くの女学生に共感されたんや。
床に落ちた煙草の箱。
ぐったりとして、今にも消えそうに儚い深雪を畳に寝かせる。畳にはすぐに水が染みていった。
手ぬぐいでこすらないように髪も顔も着物も拭いて、乾くに任せる。
ああ、お前は朱鷺子さんのお気に入りなんやで。やのに、なんで無茶をするんや。
俺の煙草を拾いに行っただと? 煙草なんかどうでもええやろ。
握りしめた拳に、ぐっと力を込める。
「どうしてお前はそんなにも愚かなんや」
応えはない。畳の上に落ちた手から、異国の風景を描いた箱がぽとりと落ちた。
◇◇◇
おかしいです。本当におかしいわ。
目の前がかすむの。わたしは必死に手を動かそうとしましたが、まるで水の中でもがいているようで。
手に藻が絡まったかのように、思うようにならないの。
そうだわ。銀之丈さんの煙草を返さなくては。もう湿ってしまって、火は点かないかもしれないけれど。
重く腫れぼったい瞼を開くと、銀之丈さんの顔が目の前にあったんです。
目を真っ赤にして、瞳を潤ませて。どうして泣きそうなの? 大丈夫、お気に入りの煙草はちゃんと、ほら。
でもやはり手は上がらなくて、重くて。
「そんなもん、どうでもええやろ。なんでそないに無茶するねん」
まぁ、失礼ね。と返したかったのですが、唇が張りついたように動きません。
「君が消えてしもたら。俺は朱鷺子さんに申し訳が立たへん」
銀之丈さんの声はかすれています。
水をたっぷりと含んだように重いわたしの手が、持ちあげられました。銀之介さんが、わたしの手を恭しく取っているんです。
それはまるで西洋の物語に出てくる騎士のよう。
どう反応していいか分からずに、ただわたしは彼を見つめていました。
「そんなに見られたら穴が開く」とか「冗談や」と言われるかと思ったのに。
銀之丈さんはわたしの手の甲にひたいをつけて、ぎゅっと瞼を閉じているのです。小刻みに震える肩。それがとてもつらそうで、苦しそうで。
「許してくれ。君を蔵のなかに閉じこめたんは、俺や」
昼の明かりが部屋に射しこんでいます。でも、変なの。音がね、音が聞こえないの。
蛙の声も、鳥の声も。木や草が風にざわめく音も、何もかも。
ただ、銀之丈さんの声が聞こえるばかりなのです。
「君の掛け軸が誰の目にも触れんように、と」
言葉を途切れさせ、銀之丈さんは瞼を伏せます。沈鬱そうに寄せられる眉。そしてゆっくりと口を開くのです。
「いや、ちゃう。そんなのは詭弁や」
何を仰っているの? わたしは確かに蔵に閉じ込められていたけれど。でも、それをしたのが銀之丈さんなら、すぐにわたしを捕まえて閉じ込めるはずでしょう? あなたはそれをしなかったわ。
それに掛け軸だなんて、わたしは……ああ、そうね。掛け軸だわ。掛け軸だったわ。
ここで横になっていなさいと命じた後、銀之丈さんは縁側からお庭に降りていきました。
野放図に伸びた夏草の中を進んでゆく後ろ姿が小さくなります。
がちゃがちゃ、と硬い音。銀之丈さんの発する音だけは、はっきりと聞こえました。重そうな扉の軋む音がして。どれくらいの時間が経ったのでしょう。
わたしの傍に掛け軸が広げられるのが分かりました。
「こんな絵やったんか……」
息苦しそうな声で、銀之丈さんが呟きます。
石でこしらえたオルガンのようなそれは、お墓?
墓石には十字架が刻まれています。白百合が供えられ、今にも匂い立ちそう。そしてお墓の前には黒いレエスのヴェールと薔薇色のロザリオが落ちています。
お墓と百合を照らすのは、ぬめっとした朧な太陽。
まるで美人画の中から、女性だけが抜けだしたかのような、主のいないぽっかりとした絵です。
主がいたであろう空間は、あろうことかしっとりと湿っています。
「読んでみ」
促されて、わたしは銀之丈さんが指さす先に視線を向けました。
墓碑に刻まれた名前。それは。
――カタリナ・鏡 朱鷺子。
朱鷺子先生? 先生のお墓なの? どうしてそんな。
悲鳴に似た声を上げたはずなのに、わたしの口からは何も発することはありません。
お墓に刻まれた先生の洗礼名の下には、数字が。ああ、生まれた年と、考えたくもないけれど亡くなった年なのね。そして。
――秋燈シ物語 深雪ノ墓參
掛け軸の端には、そう記されておりました。そして「鈴」という落款も。
ちかちかと視界に光が飛んで。わたしは光を消そうと、何度も何度も強く瞬きをしました。
でも、光も文字も消えたりしません。
「君は蔵の中で膝を抱えて座っていたそうだが。この絵の中ではどうやった? 覚えてへんか?」
知りません。分かりません、何も。
ぶんぶんと首を振って、けれど光の粒の向こうに見えるのです。
ロザリオを持ったわたしの姿が。今と同じ銘仙の着物に袴をはいて。頭には黒いヴェールをかぶって。
どうして? わたしに自分の姿が見えるの?
雄蕊の先を取った、楚々とした白百合も。黒いレエス越しの、糸杉に囲まれた墓地の風景も。何処かから聞こえる「主よ御許に近づかん。登る道は十字架に」と、御ミサで何度も歌った聖歌も。
ああ、わたし知っているわ。御影石のお墓はとても滑らかで、繊細な字体で彫られた先生のお名前の手触りも。
いいえ、でも知らないわ。だって朱鷺子先生のお墓にお参りなんてしたことないもの。
先生が亡くなったなんて、知らないもの。
でも、この空間に収まっていたのはわたしで。先生のお墓を見つめ続けていたのよ。
「いやよ、先生。深雪を一人にしないで」
溺れる人が必死にもがくように、わたしは両手を動かしました。
己の目が映すものが信じられんかった。何のために雨戸を閉めたと思てるんや、このあほ。
袴の裾と着物の袂をひらりと揺らし、淡い藤色のリボンが去っていく。
手を伸ばしても掴むことができへん。間に合わん。
「ありましたよ、銀之丈さん」
しとどに濡れた草むらに手を突っ込んで笑顔で振り返った深雪は、笑顔のまま頽れた。
俺は慌てて庭に降りる。裸足の足裏が石で痛むのも、濡れるのも構わずに。
今にも消えそうな深雪は、その手にしっかりと俺の煙草を、ナイルの箱を握っとった。
「馬鹿か。そんなものどうだってええやろが。なんでお前が蔵から外に出られへんかったのか、考えてみぃ」
いいや、分かってる。深雪に考えることなど無理だ。
朱鷺子先生はこいつを、思考を深める性格には描かなかった。
素直で無垢で、愛らしい女学生。困ったことが起これば、マリア様に祈ればいい。不安なことがあれば、友人と手を取り合って嘆くだけ。
その無力さが、家や父に逆らえないでいる数多くの女学生に共感されたんや。
床に落ちた煙草の箱。
ぐったりとして、今にも消えそうに儚い深雪を畳に寝かせる。畳にはすぐに水が染みていった。
手ぬぐいでこすらないように髪も顔も着物も拭いて、乾くに任せる。
ああ、お前は朱鷺子さんのお気に入りなんやで。やのに、なんで無茶をするんや。
俺の煙草を拾いに行っただと? 煙草なんかどうでもええやろ。
握りしめた拳に、ぐっと力を込める。
「どうしてお前はそんなにも愚かなんや」
応えはない。畳の上に落ちた手から、異国の風景を描いた箱がぽとりと落ちた。
◇◇◇
おかしいです。本当におかしいわ。
目の前がかすむの。わたしは必死に手を動かそうとしましたが、まるで水の中でもがいているようで。
手に藻が絡まったかのように、思うようにならないの。
そうだわ。銀之丈さんの煙草を返さなくては。もう湿ってしまって、火は点かないかもしれないけれど。
重く腫れぼったい瞼を開くと、銀之丈さんの顔が目の前にあったんです。
目を真っ赤にして、瞳を潤ませて。どうして泣きそうなの? 大丈夫、お気に入りの煙草はちゃんと、ほら。
でもやはり手は上がらなくて、重くて。
「そんなもん、どうでもええやろ。なんでそないに無茶するねん」
まぁ、失礼ね。と返したかったのですが、唇が張りついたように動きません。
「君が消えてしもたら。俺は朱鷺子さんに申し訳が立たへん」
銀之丈さんの声はかすれています。
水をたっぷりと含んだように重いわたしの手が、持ちあげられました。銀之介さんが、わたしの手を恭しく取っているんです。
それはまるで西洋の物語に出てくる騎士のよう。
どう反応していいか分からずに、ただわたしは彼を見つめていました。
「そんなに見られたら穴が開く」とか「冗談や」と言われるかと思ったのに。
銀之丈さんはわたしの手の甲にひたいをつけて、ぎゅっと瞼を閉じているのです。小刻みに震える肩。それがとてもつらそうで、苦しそうで。
「許してくれ。君を蔵のなかに閉じこめたんは、俺や」
昼の明かりが部屋に射しこんでいます。でも、変なの。音がね、音が聞こえないの。
蛙の声も、鳥の声も。木や草が風にざわめく音も、何もかも。
ただ、銀之丈さんの声が聞こえるばかりなのです。
「君の掛け軸が誰の目にも触れんように、と」
言葉を途切れさせ、銀之丈さんは瞼を伏せます。沈鬱そうに寄せられる眉。そしてゆっくりと口を開くのです。
「いや、ちゃう。そんなのは詭弁や」
何を仰っているの? わたしは確かに蔵に閉じ込められていたけれど。でも、それをしたのが銀之丈さんなら、すぐにわたしを捕まえて閉じ込めるはずでしょう? あなたはそれをしなかったわ。
それに掛け軸だなんて、わたしは……ああ、そうね。掛け軸だわ。掛け軸だったわ。
ここで横になっていなさいと命じた後、銀之丈さんは縁側からお庭に降りていきました。
野放図に伸びた夏草の中を進んでゆく後ろ姿が小さくなります。
がちゃがちゃ、と硬い音。銀之丈さんの発する音だけは、はっきりと聞こえました。重そうな扉の軋む音がして。どれくらいの時間が経ったのでしょう。
わたしの傍に掛け軸が広げられるのが分かりました。
「こんな絵やったんか……」
息苦しそうな声で、銀之丈さんが呟きます。
石でこしらえたオルガンのようなそれは、お墓?
墓石には十字架が刻まれています。白百合が供えられ、今にも匂い立ちそう。そしてお墓の前には黒いレエスのヴェールと薔薇色のロザリオが落ちています。
お墓と百合を照らすのは、ぬめっとした朧な太陽。
まるで美人画の中から、女性だけが抜けだしたかのような、主のいないぽっかりとした絵です。
主がいたであろう空間は、あろうことかしっとりと湿っています。
「読んでみ」
促されて、わたしは銀之丈さんが指さす先に視線を向けました。
墓碑に刻まれた名前。それは。
――カタリナ・鏡 朱鷺子。
朱鷺子先生? 先生のお墓なの? どうしてそんな。
悲鳴に似た声を上げたはずなのに、わたしの口からは何も発することはありません。
お墓に刻まれた先生の洗礼名の下には、数字が。ああ、生まれた年と、考えたくもないけれど亡くなった年なのね。そして。
――秋燈シ物語 深雪ノ墓參
掛け軸の端には、そう記されておりました。そして「鈴」という落款も。
ちかちかと視界に光が飛んで。わたしは光を消そうと、何度も何度も強く瞬きをしました。
でも、光も文字も消えたりしません。
「君は蔵の中で膝を抱えて座っていたそうだが。この絵の中ではどうやった? 覚えてへんか?」
知りません。分かりません、何も。
ぶんぶんと首を振って、けれど光の粒の向こうに見えるのです。
ロザリオを持ったわたしの姿が。今と同じ銘仙の着物に袴をはいて。頭には黒いヴェールをかぶって。
どうして? わたしに自分の姿が見えるの?
雄蕊の先を取った、楚々とした白百合も。黒いレエス越しの、糸杉に囲まれた墓地の風景も。何処かから聞こえる「主よ御許に近づかん。登る道は十字架に」と、御ミサで何度も歌った聖歌も。
ああ、わたし知っているわ。御影石のお墓はとても滑らかで、繊細な字体で彫られた先生のお名前の手触りも。
いいえ、でも知らないわ。だって朱鷺子先生のお墓にお参りなんてしたことないもの。
先生が亡くなったなんて、知らないもの。
でも、この空間に収まっていたのはわたしで。先生のお墓を見つめ続けていたのよ。
「いやよ、先生。深雪を一人にしないで」
溺れる人が必死にもがくように、わたしは両手を動かしました。
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