大正の夜ごとに君を待ちわびる

絹乃

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二章

4、夕立

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 その日は午前中は、わたしは朱鷺子先生の本棚から詩集を借りて読んでおりました。

『海潮音』をめくる時、わたしの心は澄わたり。訪れたことのない異国の石畳を、珊瑚礁の海を浜辺を、はらはらと黄金の雨が降るような落葉の中を歩けるのです。

 あまりにも熱心に読み耽っていたからでしょうか。
 気づけばすぐにお昼を迎えておりました。
 
 いつも遊びに来る黒猫が、焼いた魚をくわえています。どこかのお家でもらったのかしら。

 猫ちゃんは、縁側に座る銀之丈さんの前にぽとりと鮎を落としました。
 牙の跡のついた鮎はこんがりと焼かれて。ひれには白い飾り塩がつけられています。

 あらあら。これは盗んできましたね?

「ありがとな。けど、これは君が食べなさい」

 銀之丈さんは「猫に塩はあかんな」と、飾り塩のついた背びれや尾びれ、皮を外して、鮎を戻します。
 この子、もしかして銀之丈さんに懐いているというよりも、銀之丈さんが心配で訪れているのかしら。

「しかし困ったな。鮎をうて謝りにいったらええんか。お金を包んだらええんか。そもそもどこから取ってきたんや」

 わたしの視線に気づいたのでしょう。銀之丈さんが顔をあげました。

「どないした?」
「いえ、なんでもありませんよ」

 銀之丈さんは怪訝そうに眉をひそめますが。言えませんよね。
 大の大人に対して、猫の方が保護者気分でいるだなんて。きっと彼は気付いていませんから。

 不思議なことに、この家にいると前ほど詩集に夢中になれないんです。

 以前は教室に人がいても、はしゃぐ声が聞こえても、集中できたのに。
 学校よりも静かな家ですのに。どうしてなのかしら。

 数日後の午後、わたしは銀之丈さんとお部屋や廊下を箒で掃いておりました。
 やたらと蒸し蒸しと暑い日で。玄関の引き戸のすり硝子越しの光ですら、きつく感じられるほど。

 来客がある訳ではなく、わたし達もお家から出ることもありません。それでも汚れるものなんですね。

「海が近いからな。坂が急やから、浜辺に行こうと思わへんけど。海風で砂が運ばれるねん」
「でも、今日はあまり埃が立ちませんね」

 しゃっしゃっ、と小刻みに箒を動かしながら、わたしは廊下に落ちる砂まじりの埃を眺めました。
 
「ん? あ、ああ。そうか。雨戸を閉めなあかんな」
颱風たいふうでも来るのですか?」
「いや、夕立やろ」

 掃除が終わるのを見計らったかのように、黒猫がお家に上がりこんできました。
 雨はまだですのに。すでに地面は湿っているのか、せっかく掃いた畳の上に黒々とした土がこぼれています。

 棚にぴょんと跳ぶと、猫は数度頭を振りました。

「あ、こら。待ちなさい」

 しなやかな動きで飛び降りた猫は、小さな口に見合わぬ大きなものを咥えています。どうやら煙草の箱のよう。

「あいつ……」と狼狽えながら、銀之丈さんは着物の裾をからげながら縁側へ、そして沓脱石くつぬぎいしへ降り、素足のままで庭へと駆けだしました。

 丈高い草の中、黒い尻尾が右へゆらり、左へゆらりと見え隠れします。

 早々に箱に飽きたのか、或いは顎が疲れたのか。黒猫はささくれた木の幹に爪を立てて、よじ登りはじめましたが。その時は何も咥えてはいませんでした。

 土の匂いを急に濃く感じました。
 ことん、と頭上で音がします。
 ことん、ことん。

 何の音かしら? と思って縁側に出ると、突然目の前が白くなったのです。

 雨です、驟雨です。まるで無数の白糸で織り上げた緞帳がおろされたかのよう。
 前栽の木は葉をしたたかに叩かれ、草は潰されて地面にへばりつき。軒の下は激しく水が跳ねては散ります。

「あの猫、濡れちゃうんじゃないかしら」
「馬鹿! 何してんねん」

 縁側へ向かおうとしたわたしの肩を、一足早く戻ってきた銀之丈さんが掴みました。痛いほどに強く。

「中へ入るんや。早う。俺が雨戸を閉めるから」
「え、でも。濡れてしまいますよ。わたしもお手伝いします」
「いらん。俺一人で充分や」

 銀之介さんは、ほとんど怒鳴っていました。
 どうして? お手伝いをしようと思っただけなのに。最近は、ようやく仲良くなれたと思ったのに。

 がたがたと軋む音を立てて、次々と雨戸が閉められていきます。昼間だというのに、あっという間に辺りは真っ暗で。
 わたしはオイルランプはどこかしら、燐寸はどこにあるのかしらと手さぐりで探したのです。

「おい、まさか火をつけようというんやないやろな」

 最後の雨戸の一枚を閉め終った銀之丈さんの鋭い声が、飛んできました。
 銀之丈さんは箪笥の引き出しを開けて、手拭いで頭や肩を拭いています。

「でも、真っ暗です。つまずくと危ないわ」
「俺がするから。座っていろ」

 あまりな言いようです。そりゃあ、わたしはお嬢さん育ちでお料理だってお掃除だって得意ではありません。でも授業ではお裁縫も習いましたし、行儀作法も身についているはずです。

 暗い中で、しゅっという音が聞こえました。
 雨音に紛れそうな幽かな音。ふわっと辺りが温かな橙色に染まります。燐寸の消えた後の匂いと、オイルの燃える匂い。

「まぁ、すぐに雨もやむやろ」

 日中ひなかなのに、室内は宵の頃のように薄暗く。屋根を叩く雨音と、じりじりと燃えるオイルランプの微かな音をわたしは聞いていました。

 銀之丈さんの仰る通り、雨はすぐにやみました。

 彼が雨戸を開けると、まばゆい光に目が眩みます。木々の葉から落ちる雫は、目に痛いほどに輝いて。流れていく雲は黒いのに、照りつける太陽はあまりにも強烈で、瞼を閉じてもその光を感じます。

「ほんとうに通り雨でしたね。わざわざ雨戸を閉めたのは、朱鷺子先生のご本や原稿を守る為ですか?」
「何言うてんねん。君のためやろ?」

 何気なく問いかけたのに「あほか、君は」とでも言いたげに銀之丈さんは片方の眉を上げました。
なんて失礼なのでしょう。

 庭に目を向けると、草にも雨粒が宿り。吹く風にさわと葉をそよがせながら、水の粒を落としています。
 その中に茶色っぽい紙を見つけました。

 目を凝らすと、金字塔に駱駝、そして椰子の絵が確認できます。

 ありました、ナイルです。銀之丈さんの煙草です。
 わたしは勢いよく縁側から庭に降りて駆けだしました。

「待て」という声が確かに聞こえました。
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