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二章
1、短夜
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深雪と共に暮らすようになって、数日が過ぎた。
短夜でもあるので、日が暮れてからは朱鷺子さんの書棚から本を取りだし、二人して眺める。
りりり、と澄んだ虫の声。夏草を渡る涼しい風。山から吹き下ろす風は清々しい。
「こら、オイルランプは危ないんだ。近づくんじゃない」
深雪は、珍しそうに硝子の火屋を覗きこむ。俺は慌てて、手で彼女を制した。
「ええ? いいじゃないですか」
「君は呑気で自覚が足りへんのや。火は危ないんやって」
「ふふ。心配性ですね」
ランプの芯が、じじっと燃える音を出す。彼女の黒々とした瞳が、橙に光る火を映した。
黒い尻尾をゆらゆらさせながら、猫が縁側で蛾の行方を追っている。のんびりとした時が静かに更けてゆく。
「銀之丈さんは、いつから先生のお留守を預かっていらっしゃるの?」
縁側に敷いた座布団に腰を下ろし、深雪は雑誌の頁をめくりはじめた。
女流歌人の短歌や、小説を眺めつつ「まぁ、朱鷺子先生の小説よ」と嬉しそうにはしゃいだ声を出す。
左右に揺れるしなやかな猫の尻尾。オイルランプの上で舞う蛾を、猫は腰を落として狙っている。
「はいはい。火事になったら大変やから、お前もやめてくれ」
今にもランプに跳びかかりそうな猫の腰を、俺は右手で押さえ。左手で蛾がとまったランプを庭へと運ぶ。
「深雪さん。もう蚊帳に入った方がええ」
指で火屋を弾くと、蛾は仕方ないという風にゆっくりと飛んでいった。猫が慌てて後を追う。僅かな鱗粉が、風に流れていった。
蚊帳を吊るす意味はないが。寝床に蛾が入ってくるのも嫌なものだからな。
「真珠麿ですって。銀之丈さんは召し上がったことがおありになって?」
小説を読んでいたんやないのか?
きらきらと目を輝かせながら、深雪は凬月堂の広告の頁を見せてくる。
俺は仕方なく身を乗りだした。
「罐入りの真珠麿なら」
「甘くてふわふわでしたか? すうっと口の中で溶けましたか?」
「まぁ、そうだったな」
遠い記憶に思いを馳せれば、確かに朱鷺子さんと一緒に食べた折、彼女が「まぁ、しゅうっと溶けていきます」と驚いていた。
俺は甘いものは得意やなかったから、ひとつつまんだ程度だったのだが。
朱鷺子さんがあまりにも喜ぶので、それが微笑ましくて。
キャラメルやチョコレイトを詰め合わせたフレンチメキストも手土産にした記憶がある。
今の俺が覚えているということは、朱鷺子さんはよほど嬉しかったんやろ。
「銀之丈さんは、朱鷺子先生と親しかったのですよね。お話を聞かせてください」
「朱鷺子さんの?」
「ええ。わたし、あまり覚えていないの。このお部屋でお話するばかりで。百貨店も先生とはご一緒したことはないわ。銀之丈さんのことも聞いたこともなかったんです」
確かにな。ごわごわした蚊帳をめくり、中に入るように深雪を促す。
深雪はおとなしく布団の敷いてある上に、ちょこんと正座した。
まったくな。男女が布団を並べても、これっぽっちも艶っぽい雰囲気にもなりはしない。
俺の中にも深雪の中にも、朱鷺子さんしか存在せぇへんからや。
りり、りりと涼しげな虫の音が聞こえる。
夜露が降りているのか、少し湿った苔のような匂いがした。
どこか遠くから、笛の音や鉦の音が聞こえてきた。こんこん、ぴぃひょろ、とぎれがちでまばらな音なのは夏祭りの練習なんやろか。
「朱鷺子さんと夏祭りに行ったことがある」
「夏祭りですか? わたし、行ったことがありません」
ああ、そうやろな。朱鷺子さんは『秋燈し物語』に祭りを書いたことはない。
女学生が喜びそうにないからだ。彼女たちはもっとハイカラで古い匂いがしない世界を好んだ。
岡本梅林に観梅に行った話も、さほど人気はなかったらしい。
まぁ、若い娘さんは梅の花なんか興味ないわな。
いつだったか朱鷺子さんは「お琴ではなく、ピアノでなければ読者は嫌なんだそうです」と、文机に向かいながらぽつりとこぼした。
カトリックの学校とはいえ、朱鷺子さんの母校では琴やお花も教えていたそうだ。
せやのに作品では、聞こえてくる楽器はピアノかヴィオロンでなければならず。絵は不思議と日本画の閨秀画家は認められているらしい。
その時の俺は「女学生の好みは分からん」と呟いた気がする。
麗しの女学生の生活を描き続けた朱鷺子さんは、果たして本当に書きたいものを書いてたんやろか。
読者が読みたいものを提供していただけと、ちゃうんやろか。
少女を過ぎた大人の女性は、いったい何を読んでんのやろ。それとももう小説なんか読まへんのやろか。
何人も子を産んで育てて、姑にいびられて。夫は外に妾を囲って。くたくたになるまで働きづめで。そんな暮らしの中で、本を読む暇も元気もあらへんのかもな。
そもそも人気の女流作家ゆうたら、奔放で赤裸々な自分の体験を文学っちゅうて発表しとる。
そんなん朱鷺子さんの作品が、叶うわけないやん。
俺は、文机の前で肩を落としてため息をつく朱鷺子さんの細い背中を思い出した。
朱鷺子さんは、ずっと少女の友愛ばっかり書いとったんや。
繊細で濃やかな、友情とも恋愛ともつかぬ清純な物語の中で時を止めてたんや。
せやのに。時代が変わってしもた。
美文? そんなまわりくどい文章を、ちんたら読んでいられへん。エス? 大人になっても、エスの関係を続けてたら「老嬢」って馬鹿にされる。
そういうて、これまでの熱狂的な読者は鏡朱鷺子に背を向けた。
連載を終えて途方に暮れた朱鷺子さんは地図のある旅を終え、沈みそうな小舟で海へと漕ぎだすしかなかった。
ぴぃ、ぴぃひょろ。まばらな音に俺の意識はふいに引き戻された。
「せや。夏祭りの話やったな」
「はい。お友達とそんなお話をしたことがないので。誰も行ったことがないのだと思います」
そんなことはあるかいな。
なんぼお嬢さまでも、ねえやが連れて行ってくれたんちゃうか? 深雪に関しては知らんけど。
まぁええ。深雪の世界では夏祭りはなくとも、十二月の聖誕祭はあるんやろな。
短夜でもあるので、日が暮れてからは朱鷺子さんの書棚から本を取りだし、二人して眺める。
りりり、と澄んだ虫の声。夏草を渡る涼しい風。山から吹き下ろす風は清々しい。
「こら、オイルランプは危ないんだ。近づくんじゃない」
深雪は、珍しそうに硝子の火屋を覗きこむ。俺は慌てて、手で彼女を制した。
「ええ? いいじゃないですか」
「君は呑気で自覚が足りへんのや。火は危ないんやって」
「ふふ。心配性ですね」
ランプの芯が、じじっと燃える音を出す。彼女の黒々とした瞳が、橙に光る火を映した。
黒い尻尾をゆらゆらさせながら、猫が縁側で蛾の行方を追っている。のんびりとした時が静かに更けてゆく。
「銀之丈さんは、いつから先生のお留守を預かっていらっしゃるの?」
縁側に敷いた座布団に腰を下ろし、深雪は雑誌の頁をめくりはじめた。
女流歌人の短歌や、小説を眺めつつ「まぁ、朱鷺子先生の小説よ」と嬉しそうにはしゃいだ声を出す。
左右に揺れるしなやかな猫の尻尾。オイルランプの上で舞う蛾を、猫は腰を落として狙っている。
「はいはい。火事になったら大変やから、お前もやめてくれ」
今にもランプに跳びかかりそうな猫の腰を、俺は右手で押さえ。左手で蛾がとまったランプを庭へと運ぶ。
「深雪さん。もう蚊帳に入った方がええ」
指で火屋を弾くと、蛾は仕方ないという風にゆっくりと飛んでいった。猫が慌てて後を追う。僅かな鱗粉が、風に流れていった。
蚊帳を吊るす意味はないが。寝床に蛾が入ってくるのも嫌なものだからな。
「真珠麿ですって。銀之丈さんは召し上がったことがおありになって?」
小説を読んでいたんやないのか?
きらきらと目を輝かせながら、深雪は凬月堂の広告の頁を見せてくる。
俺は仕方なく身を乗りだした。
「罐入りの真珠麿なら」
「甘くてふわふわでしたか? すうっと口の中で溶けましたか?」
「まぁ、そうだったな」
遠い記憶に思いを馳せれば、確かに朱鷺子さんと一緒に食べた折、彼女が「まぁ、しゅうっと溶けていきます」と驚いていた。
俺は甘いものは得意やなかったから、ひとつつまんだ程度だったのだが。
朱鷺子さんがあまりにも喜ぶので、それが微笑ましくて。
キャラメルやチョコレイトを詰め合わせたフレンチメキストも手土産にした記憶がある。
今の俺が覚えているということは、朱鷺子さんはよほど嬉しかったんやろ。
「銀之丈さんは、朱鷺子先生と親しかったのですよね。お話を聞かせてください」
「朱鷺子さんの?」
「ええ。わたし、あまり覚えていないの。このお部屋でお話するばかりで。百貨店も先生とはご一緒したことはないわ。銀之丈さんのことも聞いたこともなかったんです」
確かにな。ごわごわした蚊帳をめくり、中に入るように深雪を促す。
深雪はおとなしく布団の敷いてある上に、ちょこんと正座した。
まったくな。男女が布団を並べても、これっぽっちも艶っぽい雰囲気にもなりはしない。
俺の中にも深雪の中にも、朱鷺子さんしか存在せぇへんからや。
りり、りりと涼しげな虫の音が聞こえる。
夜露が降りているのか、少し湿った苔のような匂いがした。
どこか遠くから、笛の音や鉦の音が聞こえてきた。こんこん、ぴぃひょろ、とぎれがちでまばらな音なのは夏祭りの練習なんやろか。
「朱鷺子さんと夏祭りに行ったことがある」
「夏祭りですか? わたし、行ったことがありません」
ああ、そうやろな。朱鷺子さんは『秋燈し物語』に祭りを書いたことはない。
女学生が喜びそうにないからだ。彼女たちはもっとハイカラで古い匂いがしない世界を好んだ。
岡本梅林に観梅に行った話も、さほど人気はなかったらしい。
まぁ、若い娘さんは梅の花なんか興味ないわな。
いつだったか朱鷺子さんは「お琴ではなく、ピアノでなければ読者は嫌なんだそうです」と、文机に向かいながらぽつりとこぼした。
カトリックの学校とはいえ、朱鷺子さんの母校では琴やお花も教えていたそうだ。
せやのに作品では、聞こえてくる楽器はピアノかヴィオロンでなければならず。絵は不思議と日本画の閨秀画家は認められているらしい。
その時の俺は「女学生の好みは分からん」と呟いた気がする。
麗しの女学生の生活を描き続けた朱鷺子さんは、果たして本当に書きたいものを書いてたんやろか。
読者が読みたいものを提供していただけと、ちゃうんやろか。
少女を過ぎた大人の女性は、いったい何を読んでんのやろ。それとももう小説なんか読まへんのやろか。
何人も子を産んで育てて、姑にいびられて。夫は外に妾を囲って。くたくたになるまで働きづめで。そんな暮らしの中で、本を読む暇も元気もあらへんのかもな。
そもそも人気の女流作家ゆうたら、奔放で赤裸々な自分の体験を文学っちゅうて発表しとる。
そんなん朱鷺子さんの作品が、叶うわけないやん。
俺は、文机の前で肩を落としてため息をつく朱鷺子さんの細い背中を思い出した。
朱鷺子さんは、ずっと少女の友愛ばっかり書いとったんや。
繊細で濃やかな、友情とも恋愛ともつかぬ清純な物語の中で時を止めてたんや。
せやのに。時代が変わってしもた。
美文? そんなまわりくどい文章を、ちんたら読んでいられへん。エス? 大人になっても、エスの関係を続けてたら「老嬢」って馬鹿にされる。
そういうて、これまでの熱狂的な読者は鏡朱鷺子に背を向けた。
連載を終えて途方に暮れた朱鷺子さんは地図のある旅を終え、沈みそうな小舟で海へと漕ぎだすしかなかった。
ぴぃ、ぴぃひょろ。まばらな音に俺の意識はふいに引き戻された。
「せや。夏祭りの話やったな」
「はい。お友達とそんなお話をしたことがないので。誰も行ったことがないのだと思います」
そんなことはあるかいな。
なんぼお嬢さまでも、ねえやが連れて行ってくれたんちゃうか? 深雪に関しては知らんけど。
まぁええ。深雪の世界では夏祭りはなくとも、十二月の聖誕祭はあるんやろな。
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