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一章
11、誰が掃除するんだよ
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「そうさ。鏡朱鷺子の小説は駄文だろうが。文学性のかけらもない。エスの関係を書いてはいたが。女学生も卒業すれば、ただの主婦。それでも『麗しのお姉さま』とやらとの関係を続けるならば『老嬢』と蔑まれる。
かつての女学生にとって、鏡朱鷺子はもう恥ずかしい存在なんだよ」
「へぇ。恥ずかしい存在やのに、あんたんとこでは鏡朱鷺子の作品を展示するんや」
自分の声が一気に冷えたのが分かる。
朱鷺子さんの小説を恥ずかしいと言う元女学生かて、そうふるまわんと馬鹿にされるからちゃうんか。
せやったらなんで少女歌劇は人気やねん。学生やのうても、わざわざ足を運んで観にいったりするねん。
「まぁええ。うちにはめぼしいもんはあらへん。二束三文にしかならへん色あせた本と、古い雑誌しかないからな。どうぞ、お帰りください」
俺が玄関を指さすと、洋梨男ははっとした表情を浮かべた。
「いや、その」
「玄関も分からへんのですか? 窓からは出んといてくださいよ」
散々、朱鷺子さんの悪口を言った相手が、彼女の関係者であると洋梨男はようやく悟ったようだ。明らかに「しまった」という顔をしている。
今ごろ気づくとは、なかなかに愚鈍やな。洋梨にたとえたら、梨に失礼やな。
「気分ええよな。好き放題にけなすんは。ほな、さいなら」
俺は、ひらひらと手を振った。
「静海画伯の美人画を……」
「知らんゆうてるやろ」
「だが。鏡女史のお気に入りの主人公を、絵になさったと聞いたんだ」
今さら「女史」とかゆうても、もう遅いわ。
「読み捨ての駄文に、なんで著名な画家が筆を執るねん。噂が独り歩きしとうだけやろ」
駄文などと、朱鷺子さんを貶める言葉を吐きたないけど。背に腹は代えられん。
ごめんやで、朱鷺子さん。
俺は、彼女が愛したものはすべて守りたいねん。それは、俺自身ですらも。
これ以上ねばっても無理だと判断したんやろう。
洋梨男は「また来ます」とぽつりと洩らして、廊下を戻った。ごぼう男に腕を突かれて、ようやく靴を脱ぐ気になったらしい。
今さらやろ。ほんの十歩ほど靴を脱いで手に持って、また三和土で履くんかい。ツッコミどころ満載やな。
形ばかりの「失礼します」との言葉と共に、玄関の引き戸が閉められた。
そのとたん、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。
深雪や。小さな壺を手に持って、廊下を駆けていく。ジブン、今までどこにおったんや。
「おととい来やがれ、です!」
銘仙の袖が、ひらりと俺の視界を横切った。
ぱぁぁっと塩が撒かれる。小さな白い粒が一瞬浮遊して、一斉に床へと落ちた。
よほど腹に据えかねたのか、深雪は茶色い壺をそのまま逆さにしようとした。
「待て、待て待て。塩をざばーってしたら、掃除がもっと大変になるやろ」
「いっそあの男たちを塩漬けにしてやりたいくらいです」
「物騒なこと言うなぁ。ジブン、おとなしそうに見えて過激派か。えらい威勢がええな」
俺は深雪から壺を取りあげて、台所へ向かった。深雪は後を追いかけてくる。
しゃあないから、腕をあげて塩の壺が深雪に届かんように持った。それでも跳びはねながら、なんとか俺から壺を奪おうとする。
「三和土にも玄関の外にも、門まで塩を撒いてやるんです。貸してください」
「あかんて」
深雪の、朱鷺子さんへの愛情は濃すぎるんよな。
台所は、一段下がった土間にある。俺は、台所に入ることは滅多にない。
土間に置いてある下駄を、久しぶりに履いた。深雪は、朱鷺子さんの草履を履いている。
かつて朱鷺子さんが料理をしていたそのままに、最新の瓦斯焜炉や、箪笥のように見える氷を入れる冷蔵庫が鎮座している。
窓際の棚には、使いこんで傷のついたまな板と銀に光る鍋が並んでる。
すり硝子の窓から乳白色の明かりが射しこみ、柱に張られたお札や、笊、擂り鉢を浮かび上がらせる。
とんとんとん、と音が聞こえた。
「朱鷺子さん?」
いや、空耳や。
小気味よい音を立てて菜っ葉刻む、割烹着をはおった朱鷺子さんの姿はあらへん。
――栄養は大事ですからね。銀之丈さんは、たくさん召しあがらないといけません。
包丁の音はええのに。切られた菜は大小さまざまやった。
煮干しで出汁をとった汁で、厚揚げと一緒に煮て。火を止めて味噌を溶かして。
――ご飯も山盛りにしちゃいましょう。
小さな椀に、てんこ盛りになった食事を眺めて、朱鷺子さんは満足そうに微笑んでた。
自分の食事よりも、まずは俺のための食事をよそってた。
俺は湯気の立つ膳を前にして、毎日うれしかった。朱鷺子さんの優しさで、腹が満たされたんや。
今はもう俺のために朱鷺子さんは食事を作ってくれへん。
俺はもしかしたら、ずっと腹が減っとったんかもしれへん。
深雪は古ぼけた棚に塩の壺を戻した。
よくまぁすぐに塩が分かったもんやと感心したが。見れば壺には「しほ」と紙が貼ってあった。
棚の下段は大きめの壺があり、それには「さたうづけ」と書かれている。俺と深雪はしゃがんで、しげしげと壺を眺める。
「砂糖漬けって、なんや」
「保存食じゃないですか?」
「梅干しや漬物やったらわかるけど」
俺と深雪は顔を見合わせた。中身は気になるが、勝手に開けてええもんやろか。黴がぎょうさんはえとったら、どないしよ。
「密閉してありますから。開けてしまって、蟻が来ても困りますね」
ところで、と深雪は隣に並ぶ俺を見上げた。
「あの失礼な人たちは何だったんですか?」
「美術館の職員や。朱鷺子先生の持っている品を、盗むつもりやった」
「それ、泥棒じゃないですかっ」
深雪は立ちあがった。左右の三つ編みが勢いよく跳ねた。
「泥棒も、状況次第では泥棒とはいわれへんのや」
「どういうことですか」
「探検隊って聞いたことあらへんか? 辺境の地で過去の遺物、せやな、仏像だの神像だの緻密なモザイク画だのを自分の国へと持ち帰るんや。美術品の保護でーすって大義名分があるからな。けど、やってることは国際的な盗人や」
そら、まともな美術館や博物館も多いけどな。全部が全部、そうやない。
深雪はおろおろと台所の中を右往左往している。「どうしましょう、泥棒だなんて」と呟きながら。
「朱鷺子先生の宝を守らないと。あの、この箪笥は宝ですか?」
「冷蔵庫? 買った当時は珍しかったやろけど。さぁ、古道具屋で売っても高値になるかどうか」
「売るだなんて、ひどいです」
深雪はほおを膨らませた。あーあ、怒ってしもた。
けどなぁ、君は分かってへんねん。宝ちゅうのは、そういうもんやないんや。
かつての女学生にとって、鏡朱鷺子はもう恥ずかしい存在なんだよ」
「へぇ。恥ずかしい存在やのに、あんたんとこでは鏡朱鷺子の作品を展示するんや」
自分の声が一気に冷えたのが分かる。
朱鷺子さんの小説を恥ずかしいと言う元女学生かて、そうふるまわんと馬鹿にされるからちゃうんか。
せやったらなんで少女歌劇は人気やねん。学生やのうても、わざわざ足を運んで観にいったりするねん。
「まぁええ。うちにはめぼしいもんはあらへん。二束三文にしかならへん色あせた本と、古い雑誌しかないからな。どうぞ、お帰りください」
俺が玄関を指さすと、洋梨男ははっとした表情を浮かべた。
「いや、その」
「玄関も分からへんのですか? 窓からは出んといてくださいよ」
散々、朱鷺子さんの悪口を言った相手が、彼女の関係者であると洋梨男はようやく悟ったようだ。明らかに「しまった」という顔をしている。
今ごろ気づくとは、なかなかに愚鈍やな。洋梨にたとえたら、梨に失礼やな。
「気分ええよな。好き放題にけなすんは。ほな、さいなら」
俺は、ひらひらと手を振った。
「静海画伯の美人画を……」
「知らんゆうてるやろ」
「だが。鏡女史のお気に入りの主人公を、絵になさったと聞いたんだ」
今さら「女史」とかゆうても、もう遅いわ。
「読み捨ての駄文に、なんで著名な画家が筆を執るねん。噂が独り歩きしとうだけやろ」
駄文などと、朱鷺子さんを貶める言葉を吐きたないけど。背に腹は代えられん。
ごめんやで、朱鷺子さん。
俺は、彼女が愛したものはすべて守りたいねん。それは、俺自身ですらも。
これ以上ねばっても無理だと判断したんやろう。
洋梨男は「また来ます」とぽつりと洩らして、廊下を戻った。ごぼう男に腕を突かれて、ようやく靴を脱ぐ気になったらしい。
今さらやろ。ほんの十歩ほど靴を脱いで手に持って、また三和土で履くんかい。ツッコミどころ満載やな。
形ばかりの「失礼します」との言葉と共に、玄関の引き戸が閉められた。
そのとたん、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。
深雪や。小さな壺を手に持って、廊下を駆けていく。ジブン、今までどこにおったんや。
「おととい来やがれ、です!」
銘仙の袖が、ひらりと俺の視界を横切った。
ぱぁぁっと塩が撒かれる。小さな白い粒が一瞬浮遊して、一斉に床へと落ちた。
よほど腹に据えかねたのか、深雪は茶色い壺をそのまま逆さにしようとした。
「待て、待て待て。塩をざばーってしたら、掃除がもっと大変になるやろ」
「いっそあの男たちを塩漬けにしてやりたいくらいです」
「物騒なこと言うなぁ。ジブン、おとなしそうに見えて過激派か。えらい威勢がええな」
俺は深雪から壺を取りあげて、台所へ向かった。深雪は後を追いかけてくる。
しゃあないから、腕をあげて塩の壺が深雪に届かんように持った。それでも跳びはねながら、なんとか俺から壺を奪おうとする。
「三和土にも玄関の外にも、門まで塩を撒いてやるんです。貸してください」
「あかんて」
深雪の、朱鷺子さんへの愛情は濃すぎるんよな。
台所は、一段下がった土間にある。俺は、台所に入ることは滅多にない。
土間に置いてある下駄を、久しぶりに履いた。深雪は、朱鷺子さんの草履を履いている。
かつて朱鷺子さんが料理をしていたそのままに、最新の瓦斯焜炉や、箪笥のように見える氷を入れる冷蔵庫が鎮座している。
窓際の棚には、使いこんで傷のついたまな板と銀に光る鍋が並んでる。
すり硝子の窓から乳白色の明かりが射しこみ、柱に張られたお札や、笊、擂り鉢を浮かび上がらせる。
とんとんとん、と音が聞こえた。
「朱鷺子さん?」
いや、空耳や。
小気味よい音を立てて菜っ葉刻む、割烹着をはおった朱鷺子さんの姿はあらへん。
――栄養は大事ですからね。銀之丈さんは、たくさん召しあがらないといけません。
包丁の音はええのに。切られた菜は大小さまざまやった。
煮干しで出汁をとった汁で、厚揚げと一緒に煮て。火を止めて味噌を溶かして。
――ご飯も山盛りにしちゃいましょう。
小さな椀に、てんこ盛りになった食事を眺めて、朱鷺子さんは満足そうに微笑んでた。
自分の食事よりも、まずは俺のための食事をよそってた。
俺は湯気の立つ膳を前にして、毎日うれしかった。朱鷺子さんの優しさで、腹が満たされたんや。
今はもう俺のために朱鷺子さんは食事を作ってくれへん。
俺はもしかしたら、ずっと腹が減っとったんかもしれへん。
深雪は古ぼけた棚に塩の壺を戻した。
よくまぁすぐに塩が分かったもんやと感心したが。見れば壺には「しほ」と紙が貼ってあった。
棚の下段は大きめの壺があり、それには「さたうづけ」と書かれている。俺と深雪はしゃがんで、しげしげと壺を眺める。
「砂糖漬けって、なんや」
「保存食じゃないですか?」
「梅干しや漬物やったらわかるけど」
俺と深雪は顔を見合わせた。中身は気になるが、勝手に開けてええもんやろか。黴がぎょうさんはえとったら、どないしよ。
「密閉してありますから。開けてしまって、蟻が来ても困りますね」
ところで、と深雪は隣に並ぶ俺を見上げた。
「あの失礼な人たちは何だったんですか?」
「美術館の職員や。朱鷺子先生の持っている品を、盗むつもりやった」
「それ、泥棒じゃないですかっ」
深雪は立ちあがった。左右の三つ編みが勢いよく跳ねた。
「泥棒も、状況次第では泥棒とはいわれへんのや」
「どういうことですか」
「探検隊って聞いたことあらへんか? 辺境の地で過去の遺物、せやな、仏像だの神像だの緻密なモザイク画だのを自分の国へと持ち帰るんや。美術品の保護でーすって大義名分があるからな。けど、やってることは国際的な盗人や」
そら、まともな美術館や博物館も多いけどな。全部が全部、そうやない。
深雪はおろおろと台所の中を右往左往している。「どうしましょう、泥棒だなんて」と呟きながら。
「朱鷺子先生の宝を守らないと。あの、この箪笥は宝ですか?」
「冷蔵庫? 買った当時は珍しかったやろけど。さぁ、古道具屋で売っても高値になるかどうか」
「売るだなんて、ひどいです」
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