大正の夜ごとに君を待ちわびる

絹乃

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一章

10、土足

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 まだ若かった朱鷺子さんは原稿用紙に向かい、卒業した女学校で愛用しとったロザリオだの、聖書の革表紙だのを愛おしそうに撫でていた。
 使いこんだ聖歌集は背表紙が指の形にくぼんでいる。

――御御堂おみどうでのミサは眠くって。

 そう苦笑しながらも、きっと真面目に聖歌を歌ってたんやろ。

 女学校では一時期、エスがはやっとった。閉じた世界で、少女たちが友愛を越えた強いきずなで結ばれる関係のことや。
 はかなくて、美しい親密な世界に女学生らは夢中になった。

 けど、エスの関係を結んだ女生徒同士の心中事件が続いたことがあって、甘美な世界は禁止されてしもた。
 朱鷺子さんが好んで題材にしてたんが、まさにエスや。

 一時期、女学生の多くが夢中になった退廃的で甘美な世界は、呆気なく消えてもた。
 そう。健全で前向きで。物語の主人公の少女が、ひたむきな努力により幸福を摑みとる海外の児童文学に一掃されてしもたんや。

 苦境を跳ねのけて邁進する少女らに比べたら、朱鷺子さんの描く女学生はふわふわした夢の世界に生きとった。
 彼女らの悩みといえば、お慕いしている上級生のお姉さまが冷たいとか、麗しの同級生が誰にでも優しいとか。そんなんばかりや。

 けど、どないに夢物語でも。朱鷺子さんの物語を必要とする少女らは大勢おった。確かにおったんや。

「鏡朱鷺子先生の時代は、もう戻ってこぉへん」

 もし朱鷺子さんの書いてたのんが文学やったら。代々、読み継がれるんやろか。閨秀作家って称賛されて、図書館に本が所蔵されることもあったんやろか。

 ぽつりと零した言葉をどう思ったのか。深雪が、彼女の口を塞いだままの俺の手の甲に、そっと指を添えた。冷たい手だった。

「仕方ない。誰もいないんだ、入るか」
「どうせ仕事もない、鏡朱鷺子は、お茶挽きの作家だったからな。価値があるのは掛け軸だけだ。家探しするぞ」

 聞こえてくるくぐもった声に、我が耳を疑った。
 仕方ない? 家人が不在やったら、勝手に入っていいという道理が分からない。

 だが、相手の判断は早かった。
 確かに鍵は掛かっているのに、かちゃかちゃと金属を捏ねまわす音がしたかと思うと、ガキッと硬い音がした。

 鍵を壊したんか、こいつら。
 そして当たり前のように引き戸が開く。

 ちょお待ちぃや。何しよんねん。おかしいやろ。

「失礼しますよー」と形ばかりの言葉を口にして、男二人は三和土に入りこんでいた。

 中折れ帽子を目深にかぶり、背広に大きな鞄。革靴を脱ぐ素振りすらも見せずに、ためらうことなく上がり框に足を上げる。

「何なんですか。あの人達。土足のままです」
「黙っとき」

 俺は深雪の口を再び手で塞いで、彼女の体を引きずった。

 あいつらまともやない。
 それに、お茶挽きの作家ってなんやねん。たしかに朱鷺子さんは売れっ子やなかった。
 けど、なんぼ事実でも。それを俺以外の奴が言うんは無性に腹が立つ。

 ちくしょう。俺はこの家を……朱鷺子さんが大事にしてきたものを守らなあかんのに。彼女との静かで穏やかな暮らしを、踏みにじられるわけにはいかへん。
 俺は決意をした。

「あんたら、誰や」

 深雪を物陰に隠して、俺は男らの前に進み出る。
 西洋梨のように下半身がでっぷりした男と、ごぼうのようにひょろ長い男。まるで風刺画や。
 男ふたりは、当然目を丸くした。

「いえ、声をかけたのですが、返事がなかったもので」
「へぇ。すぐに返事せぇへんかったら、他人の家の鍵を壊すんや。ほんで、土足のままで家んなかに入るんか」

 俺の視線はふたりの足もとに向いていた。西洋梨とごぼうは急いで靴を脱ごうとするが、もう遅い。
 すでに廊下には、土がこぼれ落ち足跡が点々と残っている。

「あの、時間がなくて。慌てていたものですから」
「ふぅん? まぁ時間なんかあらへんよな。こそ泥せなあかんもんな」
「こそ泥って、まさかそんなことはしませんよ」

 ごぼう男は、気が弱そうに何度も頭を下げる。
 けど、その態度を信じてやれるほど俺はお人よしやあらへん。

「あんたんとこの美術館は、美術品を盗んで収蔵品を増やそうって算段か」
「黙れっ!」

 声を荒げたんは洋梨男やった。
 この期に及んで開き直る気か。タチ悪いなぁ。

 洋梨男はたゆんと腹を揺らし、土をまき散らしつつ迫ってくる。

「持っているんだろ。静海画伯の掛け軸だ」
「さぁ? この家にはないけどな」

 嘘やない。掛け軸は、家やのうて蔵にしまってあるんやから。

「聞いたんだよ。ここにあるのを見た人がいるんだ」
「俺が管理しとうわけやない。ここにあるんは、小説だけや」

「小説なんかいらん。鏡朱鷺子の本なら、古本屋で二束三文で売っている。読み捨ての駄文だからな。誰も手元に置いておきたがらない」
「駄文?」

 俺は、こめかみが引きつるのを感じた。
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