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一章
9、来客
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鏡台に向かい、体を右に左にひねりながら、俺の編んだ三つ編みに触れては微笑む深雪。
長年結っとったのに、癖のない黒髪は柔らかでするすると指から逃げていきそうやった。
口にはせぇへんのに「似合うかしら」だの「幼くないかしら」との雄弁な声が聞こえてくるようや。
朱鷺子さんの髪を戯れに編んであげたことがあるから。俺は髪結いは下手ではない。
その時の朱鷺子さんも「似合いますか?」とはにかみながら、この鏡台の鏡に自分を映しとった。
深雪は、不思議と朱鷺子さんに似てる。なんか姉妹みたいや。
彼女のさまを見ていると、なぜか自然と頬が緩むのを感じた。
かわいらしい。
ふと頭に浮かんだ言葉に、俺ははっとする。
待て、かわいいやって? この娘が? 何もできへん、愛されるのが当たり前の娘が?
なに、ほだされてんのや、俺。
夏障子を開いたままの縁側から、朝の涼しい風が吹きこんできた。
坂の下に広がる海を渡った風が、鹹の蒼白い匂いを運んでくる。
海の香りを消すように、湿った苔の匂いを感じた。まだ朝露が乾いてへんのやろ。
きっと今庭に降りれば、しめりけをたっぷりと含んだ苔から水が滲みだして、足を濡らすことやろ。
ああ、ちゃうな。深雪は恵まれているわけやない。
俺に無視されて、放置され続けてたやないか。深雪の名は知らんでも、その存在をうっすらと知りながら。俺は意地でも蔵を開けんかった。
朱鷺子さんの家を守っとうのに。蔵の虫干しすらせんと、閉じたままにしてきた。
「こないにズボラやったら、朱鷺子さんに怒られてまうな」
トントン。玄関の戸を叩く音が聞こえた。まるで洋風のドアをノックするかのように。
トントン、トントントントン。トントントントン。
忙しなくノックがくり返される。
品のない奴やなぁ。
「先般、葉書をさしあげた美術館の者です。鏡先生の件で伺ったのですが」
めんどくさ。ちょうど玄関は鍵をかけたままやし、居留守を決めこむか。
「はぁい」
「は? なにが『はぁい』やねん」
深雪が玄関へ向かって、廊下をぱたぱたと走っていく。
「ちょお、待ちぃや。関わったらあかん。ろくなことがないぞ」
俺は声をひそめて、深雪の肩をつかんだ。
きれいに編んだ三つ編みを揺らしてふり返り、深雪は黒々とした瞳で俺を見あげた。
「でも、お客さまですよ。朱鷺子先生にです」
「そら、分かっとうけど。朱鷺子さんはおらへんやろ」
深雪は、廊下の果ての上がり框と三和土と玄関の戸を見やった。曇り硝子の嵌められた戸には、二つの影がぼんやりと映っている。
「朱鷺子先生が帰っていらっしゃるまで、上がって待っていただきましょうよ」
「ええから、もうしゃべるな」
深雪の口を手で塞ぐと、彼女はもごもごと反論を口にする。聞こえへんし、聞くつもりもないが。
「どなたかいらっしゃいませんか?」と、職員の声がする。
よかった、どうやら俺たちの声は聞こえてないらしい。
ほっと安堵したのも束の間。何ということや。ガタガタと激しく戸が揺らされた。
俺に口を塞がれたままの深雪が、びくりと肩をすくめるのが伝わってきた。
仄暗い廊下のまんなかで。俺は眉根を寄せて玄関を見遣る。
「誰もいないみたいだぞ」
「参ったな。親族とも連絡がつかないんだよな。この家の買い手も、たまにしか来ないのか誰か分からんしな。近所のばあさんは、昨夜は明かりがついていたと話していたが」
「しかし、もう宣伝も打ってしまったぞ」
宣伝って、なんのや。耳をかすめた言葉に、俺は葉書の内容を思い出した。
そうや。たしか少女小説の挿画の展覧會って書いてあった。そんなん別に朱鷺子さんに拘らんでも、他にいくらでも女流作家はおるやろ。
言いたないけど、鏡朱鷺子はすでに時代遅れや。朱鷺子さん自身が、嫌というほど痛感しとったんやから。
俺は、朱鷺子さんが売れっ子の少女小説家やった頃を回想した。
長年結っとったのに、癖のない黒髪は柔らかでするすると指から逃げていきそうやった。
口にはせぇへんのに「似合うかしら」だの「幼くないかしら」との雄弁な声が聞こえてくるようや。
朱鷺子さんの髪を戯れに編んであげたことがあるから。俺は髪結いは下手ではない。
その時の朱鷺子さんも「似合いますか?」とはにかみながら、この鏡台の鏡に自分を映しとった。
深雪は、不思議と朱鷺子さんに似てる。なんか姉妹みたいや。
彼女のさまを見ていると、なぜか自然と頬が緩むのを感じた。
かわいらしい。
ふと頭に浮かんだ言葉に、俺ははっとする。
待て、かわいいやって? この娘が? 何もできへん、愛されるのが当たり前の娘が?
なに、ほだされてんのや、俺。
夏障子を開いたままの縁側から、朝の涼しい風が吹きこんできた。
坂の下に広がる海を渡った風が、鹹の蒼白い匂いを運んでくる。
海の香りを消すように、湿った苔の匂いを感じた。まだ朝露が乾いてへんのやろ。
きっと今庭に降りれば、しめりけをたっぷりと含んだ苔から水が滲みだして、足を濡らすことやろ。
ああ、ちゃうな。深雪は恵まれているわけやない。
俺に無視されて、放置され続けてたやないか。深雪の名は知らんでも、その存在をうっすらと知りながら。俺は意地でも蔵を開けんかった。
朱鷺子さんの家を守っとうのに。蔵の虫干しすらせんと、閉じたままにしてきた。
「こないにズボラやったら、朱鷺子さんに怒られてまうな」
トントン。玄関の戸を叩く音が聞こえた。まるで洋風のドアをノックするかのように。
トントン、トントントントン。トントントントン。
忙しなくノックがくり返される。
品のない奴やなぁ。
「先般、葉書をさしあげた美術館の者です。鏡先生の件で伺ったのですが」
めんどくさ。ちょうど玄関は鍵をかけたままやし、居留守を決めこむか。
「はぁい」
「は? なにが『はぁい』やねん」
深雪が玄関へ向かって、廊下をぱたぱたと走っていく。
「ちょお、待ちぃや。関わったらあかん。ろくなことがないぞ」
俺は声をひそめて、深雪の肩をつかんだ。
きれいに編んだ三つ編みを揺らしてふり返り、深雪は黒々とした瞳で俺を見あげた。
「でも、お客さまですよ。朱鷺子先生にです」
「そら、分かっとうけど。朱鷺子さんはおらへんやろ」
深雪は、廊下の果ての上がり框と三和土と玄関の戸を見やった。曇り硝子の嵌められた戸には、二つの影がぼんやりと映っている。
「朱鷺子先生が帰っていらっしゃるまで、上がって待っていただきましょうよ」
「ええから、もうしゃべるな」
深雪の口を手で塞ぐと、彼女はもごもごと反論を口にする。聞こえへんし、聞くつもりもないが。
「どなたかいらっしゃいませんか?」と、職員の声がする。
よかった、どうやら俺たちの声は聞こえてないらしい。
ほっと安堵したのも束の間。何ということや。ガタガタと激しく戸が揺らされた。
俺に口を塞がれたままの深雪が、びくりと肩をすくめるのが伝わってきた。
仄暗い廊下のまんなかで。俺は眉根を寄せて玄関を見遣る。
「誰もいないみたいだぞ」
「参ったな。親族とも連絡がつかないんだよな。この家の買い手も、たまにしか来ないのか誰か分からんしな。近所のばあさんは、昨夜は明かりがついていたと話していたが」
「しかし、もう宣伝も打ってしまったぞ」
宣伝って、なんのや。耳をかすめた言葉に、俺は葉書の内容を思い出した。
そうや。たしか少女小説の挿画の展覧會って書いてあった。そんなん別に朱鷺子さんに拘らんでも、他にいくらでも女流作家はおるやろ。
言いたないけど、鏡朱鷺子はすでに時代遅れや。朱鷺子さん自身が、嫌というほど痛感しとったんやから。
俺は、朱鷺子さんが売れっ子の少女小説家やった頃を回想した。
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