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一章
7、おやすみ
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俺は葉書を戻して、蚊帳をめくった。ぷぅーんと甲高い蚊の音が耳元をかすめて、蚊が蚊帳のなかに入る。
まぁええか。
「もう遅いから、早く寝なさい」
「は、はい」
戸惑いがちに答える深雪は、俺に背中を向けて正座している。なんだ? と片眉を上げると、今にも消え入りそうな声を彼女は発した。
「あの、灯りを消していただけませんか? さすがにお布団に入るのに、着物や袴のままというわけには参りませんから」
「ああ、これは失礼」
深雪は確か女学校の四年生のはずやから。数えで十六歳か。
あかんな、俺は女心というものがさっぱり分からへん。その年やったら結婚する娘さんもおるから、恥じるんも無理ないか。
オイルランプのシェードは、朱鷺子さん好みの琥珀色のガラスや。火消し棒で橙色の炎を包み込むと、微かな匂いとともに辺りは闇に包まれた。
朱鷺子さんは息をかけて吹き消すという、無粋な方法を好まんかった。
美意識に溢れ、それゆえに朱鷺子さんは流行りから取り残されてしもたんや。
「ありがとうございます」
するりと衣擦れの音がする。リボンが畳に落とされ、次に袴の紐が解かれる。今は虫も鳴いてへんから、そんな微かな音ですら俺の耳は拾うことができる。
深雪は、おそらくは襦袢姿で寝るんやろ。俺は彼女に背中を向けて、枕に頭を置いた。
蕎麦殻が枕のなかで擦れる音を立てる。
女物の寝間着は、どこにあるんやろ?
やれ、明日にでも探すとするか。
深雪は繊細ではないのか、隣からすぐに健やかな寝息が聞こえてきた。不思議なものだ。まるで人とおるみたいや。
もし握れば、深雪の手は温かいんやろか。
◇◇◇
あまりにも眩しくて、わたしは目が覚めました。
柱時計を見ると、まだ四時過ぎです。
久しぶりに、ほんとうに久しぶりに着物や袴を脱いで、くつろいだ襦袢姿で。しかも布団を敷いたり掛けたりして寝たものですから。
夢も見ずに、ぐっすりと眠ることができました。
ふだんは起きているのか眠っているのかもわからない、夢もうつつも霧がかかったように区別がつかなくて。
それでも外に出ることを、朱鷺子先生に会うことを夢見て、幽閉されていても耐え続けました。
そうよ。わたしはもう自由なの。誰にも邪魔されず、朱鷺子先生に再会するのよ。
横になったままで「ふふっ」と笑みを洩らします。
その声が聞こえたのでしょうか。
隣のお布団で、銀之丈さんが「う……ん」と体を動かします。いけません、起こしてしまったでしょうか。
それにしても変わった人です。
女性と布団を並べて寝ても、何もしてこなかったですし、艶っぽい気配ひとつありませんでした。
粗野に見えて、実は心に想う方でもいるのかしら。
男性にしては存外長い睫毛に、彫りの深い顔立ち。
でも怖いから、駄目です。ええ、きっと女性にもてやしませんよ、この人は。
「分かるで、君が何を考えてるんか」
「起きていらしたんですか?」
低い声で呟かれて、わたしははっとしました。いけません、襦袢のままです。
「君は男と布団を並べても気にせず眠ってたやろ。 身の危険を感じんかったんか」
こくりとわたしは頷きました。
ちらとも不安を覚えなかったのは、お座布団の上で眠れる嬉しさが勝ったのかしら。
きっとそうね。
「まぁ、俺も君にどうこうしようとは思わんかった。ああ、勘違いして怒らんといてや。君に女性としての魅力が皆無とは言うてへん」
なんだか、とても失礼な物言いです。
わたしは頬を膨らませました。
「君はほんまに子どもやな。そもそも鏡朱鷺子先生が、年の割にねんねだったからな。しゃあないか」
まあっ。わたしだけでなく朱鷺子先生の悪口まで。
わたしの頬の膨らみは、いや増しました。
この人、なんなの? 朱鷺子先生の親族なの? やけに先生のことに詳しいけれど。
突然、ぷすっと妙な音がして、唇から空気が抜けていったのです。
見れば、銀之丈さんがわたしの両頬を指で押さえていました。ええ、親指と人差し指で左右の頬を挟まれているんです。
彼の指は煙草の葉の匂いがしました。
「えらい間抜けな音やなぁ」
「なっ。何をなさるんですか、失礼にも程がありますよ」
「人としゃべってんのに、頬を膨らませる奴がおるか。そっちこそ失礼やろ」
ぎりぎりと音がしそうなほどに、わたしと銀之丈さんは睨みあいます。
きっと視線を逸らした方が負けです。ええ、わたしは負けたりしません。
残念ながら、にゃあにゃあと鳴きながら外から蚊帳をしきりに引っ掻く猫のせいで、中断してしまいましたけれど。
まぁええか。
「もう遅いから、早く寝なさい」
「は、はい」
戸惑いがちに答える深雪は、俺に背中を向けて正座している。なんだ? と片眉を上げると、今にも消え入りそうな声を彼女は発した。
「あの、灯りを消していただけませんか? さすがにお布団に入るのに、着物や袴のままというわけには参りませんから」
「ああ、これは失礼」
深雪は確か女学校の四年生のはずやから。数えで十六歳か。
あかんな、俺は女心というものがさっぱり分からへん。その年やったら結婚する娘さんもおるから、恥じるんも無理ないか。
オイルランプのシェードは、朱鷺子さん好みの琥珀色のガラスや。火消し棒で橙色の炎を包み込むと、微かな匂いとともに辺りは闇に包まれた。
朱鷺子さんは息をかけて吹き消すという、無粋な方法を好まんかった。
美意識に溢れ、それゆえに朱鷺子さんは流行りから取り残されてしもたんや。
「ありがとうございます」
するりと衣擦れの音がする。リボンが畳に落とされ、次に袴の紐が解かれる。今は虫も鳴いてへんから、そんな微かな音ですら俺の耳は拾うことができる。
深雪は、おそらくは襦袢姿で寝るんやろ。俺は彼女に背中を向けて、枕に頭を置いた。
蕎麦殻が枕のなかで擦れる音を立てる。
女物の寝間着は、どこにあるんやろ?
やれ、明日にでも探すとするか。
深雪は繊細ではないのか、隣からすぐに健やかな寝息が聞こえてきた。不思議なものだ。まるで人とおるみたいや。
もし握れば、深雪の手は温かいんやろか。
◇◇◇
あまりにも眩しくて、わたしは目が覚めました。
柱時計を見ると、まだ四時過ぎです。
久しぶりに、ほんとうに久しぶりに着物や袴を脱いで、くつろいだ襦袢姿で。しかも布団を敷いたり掛けたりして寝たものですから。
夢も見ずに、ぐっすりと眠ることができました。
ふだんは起きているのか眠っているのかもわからない、夢もうつつも霧がかかったように区別がつかなくて。
それでも外に出ることを、朱鷺子先生に会うことを夢見て、幽閉されていても耐え続けました。
そうよ。わたしはもう自由なの。誰にも邪魔されず、朱鷺子先生に再会するのよ。
横になったままで「ふふっ」と笑みを洩らします。
その声が聞こえたのでしょうか。
隣のお布団で、銀之丈さんが「う……ん」と体を動かします。いけません、起こしてしまったでしょうか。
それにしても変わった人です。
女性と布団を並べて寝ても、何もしてこなかったですし、艶っぽい気配ひとつありませんでした。
粗野に見えて、実は心に想う方でもいるのかしら。
男性にしては存外長い睫毛に、彫りの深い顔立ち。
でも怖いから、駄目です。ええ、きっと女性にもてやしませんよ、この人は。
「分かるで、君が何を考えてるんか」
「起きていらしたんですか?」
低い声で呟かれて、わたしははっとしました。いけません、襦袢のままです。
「君は男と布団を並べても気にせず眠ってたやろ。 身の危険を感じんかったんか」
こくりとわたしは頷きました。
ちらとも不安を覚えなかったのは、お座布団の上で眠れる嬉しさが勝ったのかしら。
きっとそうね。
「まぁ、俺も君にどうこうしようとは思わんかった。ああ、勘違いして怒らんといてや。君に女性としての魅力が皆無とは言うてへん」
なんだか、とても失礼な物言いです。
わたしは頬を膨らませました。
「君はほんまに子どもやな。そもそも鏡朱鷺子先生が、年の割にねんねだったからな。しゃあないか」
まあっ。わたしだけでなく朱鷺子先生の悪口まで。
わたしの頬の膨らみは、いや増しました。
この人、なんなの? 朱鷺子先生の親族なの? やけに先生のことに詳しいけれど。
突然、ぷすっと妙な音がして、唇から空気が抜けていったのです。
見れば、銀之丈さんがわたしの両頬を指で押さえていました。ええ、親指と人差し指で左右の頬を挟まれているんです。
彼の指は煙草の葉の匂いがしました。
「えらい間抜けな音やなぁ」
「なっ。何をなさるんですか、失礼にも程がありますよ」
「人としゃべってんのに、頬を膨らませる奴がおるか。そっちこそ失礼やろ」
ぎりぎりと音がしそうなほどに、わたしと銀之丈さんは睨みあいます。
きっと視線を逸らした方が負けです。ええ、わたしは負けたりしません。
残念ながら、にゃあにゃあと鳴きながら外から蚊帳をしきりに引っ掻く猫のせいで、中断してしまいましたけれど。
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