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一章
6、はにかんだ笑み
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自分を人間と信じこむというのは、動物でも見かけられる。
俺は、ようやく触れることができるようになった猫の頭を撫でた。
くるる、と喉を鳴らすこいつは、自分が猫と分かっとうみたいや。
「お前、賢いな」
俺の話が分かるんか、猫は満足そうに目を細めた。
けどまぁ。主人を引っ張って歩いとう犬とか見ると「どっちの散歩やねん」と、思わずにはいられへん。
犬の方が猫よりも賢いんとちゃうんかなぁ? よう知らんけど。
面倒なことに、深雪の自己認識は猫以下かもしれへん。
朱鷺子さんが彼女を可愛がりすぎたんやな。
深雪を主人公に描かれた短編小説は、雑誌に載っている分だけで十数本。いや、ちゃんと数えたら、もっとあるやろう。
『深雪』やのうて『みゆき』であったり『美由紀』であったりと。同じ音を持つ名前を他でも見かけたことがあるからだ。
「もうこっちに来なさい」
俺は手招きをしつつ深雪を呼んだ。
まぁ、ええ。明日になれば己が人間ではないと知り、おとなしく消えることやろ。
「ほな、さいなら。あんたは本のなかで生きるんやで。もう人間の世界に出てきたらあかんで」と見送ってやろう。
再び縁側に向かってやってきた深雪は、足がおぼつかない。彼女の足下の草むらで、ぼんやりとした黄緑色の光が動いた。
蛍だ。
蛍を避けようとしたのか、深雪の体勢が崩れた。はかない黄緑色の光が、逃げるように浮遊する。草履に足袋を履いた彼女のくるぶしの辺りが、ぐにゃりと曲がったように見えた。
ほら、言わんこっちゃない。
俺は沓脱石に素足のまま飛び降りて、倒れかかった深雪の体を抱えた。袴の裾と着物の袂がひらめいて、けれど深雪は呆然と目を瞠ったままだ。
「おい、こら。呑気にもほどがあるやろ。ふつう、転びそうになったら手をつくんとちゃうんか」
置いてけぼりを食らった猫は、機嫌を損ねたのか縁側からぴょんと降りて、草むらの中に消えていった。
かさかさ。草の葉擦れと尻尾と草が触れ合う音。がさがさ、と草は大きく鳴る。
あれは尻尾で草を叩いているな。相当おかんむりや。
「済みません」
「まぁ何事ものうてよかった」
「足を挫いてしまったかもしれません」
「それはないやろ」
足が消えかかっても気にしない君だ。少々捻じれようが、痛みなど感じへんやろ。生きた人間とちゃうねんから。
夜中に蔵を開けるわけにもいかないので、結局その日は深雪と同じ部屋で寝る羽目になってしもた。
俺は『ナイル』の箱を箪笥の引き出しにしまう。
かさりとした紙箱は、力を入れれば潰れてしまいそうや。
(そういえば。蔵のなかの物を虫干ししてへんかったな)
蔵を開くのが怖ぁて、見て見ぬふりをしてた。
誰かが残した目録の中に、静海画伯の掛け軸を見つけたことがあるからや。
蔵を開けなければ、閉じたままなら。画伯の逸品を知らんままで過ごせるからや。
「さて、どないしよ。客用の布団は押し入れにしもたままで。干してへんのやけど」
「わたしは、畳の上で横になりますから」
「いや、さすがにそれは気が引ける」
「大丈夫です。だってこれまで畳すらありませんでしたから。紙箱や小さな絨毯のうえで、うつらうつらと眠っていたんです」
深雪ははにかんだ笑みを浮かべた。
その表情に、俺の心がきりりと痛む。
雑誌の中から出てきた深雪が、まさか蔵のなかにおるやなんて思いもせぇへんかった。
俺が座布団を使い、布団で眠っている間もずっと。彼女は硬い木の床に座り続けてたんや。
「ほな、こうしよか。さすがに俺が使っていた布団に入れといわれても困るやろからな」
俺は蚊帳の中に座布団を並べて、上に綿ネルの布を敷いた。これならば、敷布団に近い感覚だろう。
さらにもう一枚、綿ネルを掛け布団代わりにする。
「すごいです。まるで手品みたい」
「そうか?」
きらきらと星を宿した瞳で手元を見つめられて、うなじがもぞもぞした。
何かたんぽぽの綿毛のような、柔らかなものがくっついたんやろか。
うなじを指で触れてみたが、何もついている気配はない。
この感覚は覚えがある。
ああ、そうや。朱鷺子さんに褒められた時や。
――銀之丈さんは、素直ではないから困ったところがあるけれど。心根の優しい人だから、困らされるのも楽しいですよ。
柔らかに目を細めながら、朱鷺子さんは万年筆を原稿用紙に走らせていた。さらさらと透明な清流のように、心地よい音やった。
俺は原稿用紙の置かれた文机に、視線を向けた。
朱鷺子さんは一日の大半を、この和室で文机の前で過ごした。俺が「早よ寝ぇや」と言っても「あと少し。キリのいいところまで書きたいんです」と、譲らんかった。
「銀之丈さんは、先に休んでくださいね」と微笑む朱鷺子さんの姿が、見えた気がした。
文机には、葉書が一枚放置されとった。
深雪は綿ネルを手で撫でて、その柔らかな手触りを楽しんでる。彼女に見えんように、俺は背中を向けて葉書を確認した。
『当美術館ニ於ヰテ、少女小説並ビニ乙女小説ノ挿画ノ展覧會ヲ 企画致シテヲリマス。就キマシテハ 鏡朱鷺子先生ノ『秋燈シ物語』コチラノ挿画ヲ……』
目を通して見たが、堅苦しい文章にため息が出た。所詮俺も、柔らかな美文が好みなんやろ。
俺は、ようやく触れることができるようになった猫の頭を撫でた。
くるる、と喉を鳴らすこいつは、自分が猫と分かっとうみたいや。
「お前、賢いな」
俺の話が分かるんか、猫は満足そうに目を細めた。
けどまぁ。主人を引っ張って歩いとう犬とか見ると「どっちの散歩やねん」と、思わずにはいられへん。
犬の方が猫よりも賢いんとちゃうんかなぁ? よう知らんけど。
面倒なことに、深雪の自己認識は猫以下かもしれへん。
朱鷺子さんが彼女を可愛がりすぎたんやな。
深雪を主人公に描かれた短編小説は、雑誌に載っている分だけで十数本。いや、ちゃんと数えたら、もっとあるやろう。
『深雪』やのうて『みゆき』であったり『美由紀』であったりと。同じ音を持つ名前を他でも見かけたことがあるからだ。
「もうこっちに来なさい」
俺は手招きをしつつ深雪を呼んだ。
まぁ、ええ。明日になれば己が人間ではないと知り、おとなしく消えることやろ。
「ほな、さいなら。あんたは本のなかで生きるんやで。もう人間の世界に出てきたらあかんで」と見送ってやろう。
再び縁側に向かってやってきた深雪は、足がおぼつかない。彼女の足下の草むらで、ぼんやりとした黄緑色の光が動いた。
蛍だ。
蛍を避けようとしたのか、深雪の体勢が崩れた。はかない黄緑色の光が、逃げるように浮遊する。草履に足袋を履いた彼女のくるぶしの辺りが、ぐにゃりと曲がったように見えた。
ほら、言わんこっちゃない。
俺は沓脱石に素足のまま飛び降りて、倒れかかった深雪の体を抱えた。袴の裾と着物の袂がひらめいて、けれど深雪は呆然と目を瞠ったままだ。
「おい、こら。呑気にもほどがあるやろ。ふつう、転びそうになったら手をつくんとちゃうんか」
置いてけぼりを食らった猫は、機嫌を損ねたのか縁側からぴょんと降りて、草むらの中に消えていった。
かさかさ。草の葉擦れと尻尾と草が触れ合う音。がさがさ、と草は大きく鳴る。
あれは尻尾で草を叩いているな。相当おかんむりや。
「済みません」
「まぁ何事ものうてよかった」
「足を挫いてしまったかもしれません」
「それはないやろ」
足が消えかかっても気にしない君だ。少々捻じれようが、痛みなど感じへんやろ。生きた人間とちゃうねんから。
夜中に蔵を開けるわけにもいかないので、結局その日は深雪と同じ部屋で寝る羽目になってしもた。
俺は『ナイル』の箱を箪笥の引き出しにしまう。
かさりとした紙箱は、力を入れれば潰れてしまいそうや。
(そういえば。蔵のなかの物を虫干ししてへんかったな)
蔵を開くのが怖ぁて、見て見ぬふりをしてた。
誰かが残した目録の中に、静海画伯の掛け軸を見つけたことがあるからや。
蔵を開けなければ、閉じたままなら。画伯の逸品を知らんままで過ごせるからや。
「さて、どないしよ。客用の布団は押し入れにしもたままで。干してへんのやけど」
「わたしは、畳の上で横になりますから」
「いや、さすがにそれは気が引ける」
「大丈夫です。だってこれまで畳すらありませんでしたから。紙箱や小さな絨毯のうえで、うつらうつらと眠っていたんです」
深雪ははにかんだ笑みを浮かべた。
その表情に、俺の心がきりりと痛む。
雑誌の中から出てきた深雪が、まさか蔵のなかにおるやなんて思いもせぇへんかった。
俺が座布団を使い、布団で眠っている間もずっと。彼女は硬い木の床に座り続けてたんや。
「ほな、こうしよか。さすがに俺が使っていた布団に入れといわれても困るやろからな」
俺は蚊帳の中に座布団を並べて、上に綿ネルの布を敷いた。これならば、敷布団に近い感覚だろう。
さらにもう一枚、綿ネルを掛け布団代わりにする。
「すごいです。まるで手品みたい」
「そうか?」
きらきらと星を宿した瞳で手元を見つめられて、うなじがもぞもぞした。
何かたんぽぽの綿毛のような、柔らかなものがくっついたんやろか。
うなじを指で触れてみたが、何もついている気配はない。
この感覚は覚えがある。
ああ、そうや。朱鷺子さんに褒められた時や。
――銀之丈さんは、素直ではないから困ったところがあるけれど。心根の優しい人だから、困らされるのも楽しいですよ。
柔らかに目を細めながら、朱鷺子さんは万年筆を原稿用紙に走らせていた。さらさらと透明な清流のように、心地よい音やった。
俺は原稿用紙の置かれた文机に、視線を向けた。
朱鷺子さんは一日の大半を、この和室で文机の前で過ごした。俺が「早よ寝ぇや」と言っても「あと少し。キリのいいところまで書きたいんです」と、譲らんかった。
「銀之丈さんは、先に休んでくださいね」と微笑む朱鷺子さんの姿が、見えた気がした。
文机には、葉書が一枚放置されとった。
深雪は綿ネルを手で撫でて、その柔らかな手触りを楽しんでる。彼女に見えんように、俺は背中を向けて葉書を確認した。
『当美術館ニ於ヰテ、少女小説並ビニ乙女小説ノ挿画ノ展覧會ヲ 企画致シテヲリマス。就キマシテハ 鏡朱鷺子先生ノ『秋燈シ物語』コチラノ挿画ヲ……』
目を通して見たが、堅苦しい文章にため息が出た。所詮俺も、柔らかな美文が好みなんやろ。
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