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一章
2、留守居の銀之丈
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夏の初めの静かな夜更け。
俺は蚊帳の中に、オイルランプを持ち込んで新聞を読んでいた。
明治の頃の古く茶色くなった新聞は、軽い手触りと朽葉のように、かさかさと音がする。
短めの黒髪を手でかきあげて、ひたいを出す。口には火をつけていない煙草をくわえて。銘柄は『ナイル』。お気に入りの一品だ。
ここは朱鷺子さんの書斎であり、居室だ。
日に灼けた畳ではあるが。大正となった今でも藺草の匂いがする。色あせた柱や鴨居も、木の香りは残っている。それらに古新聞の匂いが重なった。
朱鷺子さんがお気に入りの小説が載っているといって、大量に保管していた新聞だ。
「せめて切り抜いて、整理をしたらどうなん?」と提案しても「でも挿絵もあるんですもの」となかなか首を縦に振らない。
だからこの和室は本だの新聞だの原稿用紙だの、紙でいっぱいだ。
「紙魚が出てきたらどないするんや」と脅したら。朱鷺子さんは「虫干ししますから」と、大量の紙を守ろうとした。
「『魔風戀風』か。珍妙な題やな」
自転車で疾走する袴姿の女学生の挿画のなにがええんやら。朱鷺子さんの趣味は、俺にはさっぱり分からへん。
けどこの古い小説は、当時の女学生に大人気やったという。
新聞の記事を眺めていると、懐かしい時代が甦ってくる。この家が今よりも幾分新しく、にぎわっていた頃。
懐古趣味だと分かってはいるが。夜ごと古新聞に目を通すのが、俺の日課だ。
満月が中空に上ったようで、前栽の木々は冴えた光に照らされている。
緑濃い葉は、月光にてらてらと光り、遊びに来ている野良猫がにゃあと鳴いた。
夏も近いので、縁側に面した夏障子は開け放っている。
にゃああ、にゃああと今夜に限ってやたらと猫がうるさい。しかも先刻と声の調子が変わって硬い。
モグラでも土から出てきたんか? それともヤモリでも追いかけてんのか?
ぬらりと鱗を光らせた蛇が草の陰にでも潜んでいたら、たまったもんやない。
やれやれ、と上体を起こした俺は目を見開いた。
草がぼうぼうに伸びた庭に、女学生が立っていた。
闇に咲く梔子か、あるいは月下美人のように、白くぼんやりと。優しい月光に寄り添われている。
俺は数回瞬きを繰り返し、だが、闖入者が消えないことを確認する。
「ここに来てどうするつもりやねん」
俺は思わず呟いていた。
その娘は、古い蔵を背にしている。
長い黒髪をおろし、後頭部に大きなリボンをつけている。黒曜石のような瞳はくりっとして、銘仙と袴の絵に描いたような女学生そのものだ。
「ここはどこですか?」と、女学生が草をかき分けながら進んでくる。眠りを邪魔されたバッタが、草の葉から何匹か跳びはねた。
厄介な奴が現れた。俺は警戒して眉をひそめた。
「今は俺が住んどう。だから俺の家や」
「でも、先生が住んでらっしゃるわ。朱鷺子先生よ。わたし、先生と一緒だったもの。ねぇ、先生はどちらにいらっしゃるの? 呼んでくださらない? 村雨深雪が来たって言ってくだされば、通じるわ」
「朱鷺子さんは、おらへん」
「じゃあ、いつ戻ってらっしゃるの?」
質問の多い奴や。
村雨深雪は、とうとう縁側にまでやって来た。
おいおい、こんな不審者を家に上げるわけにはいかへんで。俺は朱鷺子さんの留守を守っとんやからな。
「そもそもあんた、生きてへんやろ」
「え?」
深雪はぽかんとした表情を浮かべた。
「おるんや。あんたみたいに、自分が生きていると勘違いする奴が。俺は、そうしたうぬぼれた奴が嫌いなんや」
俺はナイルの箱を手にとった。砂漠と金字塔、そして椰子の描かれた箱には、煙草が数本残っている。
部屋の中央に吊るした蚊帳を手でよけながら、書棚へ向かう。
「うーん。どの本や?」
深い緑の表紙に金の箔が押された単行本をめくる。どうやら違う。それとも雑誌の方か?
「朱鷺子さんの連載は『少女の友』やったか、いや『少女画報』か」
どれも似たような、なよっとしてきらきらとした大きな目の女性の絵が表紙だ。
ぱらぱらと古い雑誌をめくる。
違う、これやない。次の雑誌は? 女学生の名前を確認していった。
オイルランプの明かりで、文字を追う。
「ああ、あった」
俺はほっとして、朱鷺子さんが連載していた少女小説に目を通す。
――姓を村雨、名を深雪。その人は讀畫に没頭し、圖畫室の仄暗い机に向かつてをりました。
白磁のやうな蒼白く澄んだその頬、文字を追う涼やかな瞳。
その瞳の澄んだことよ。學友も先輩ですらも、彼女の讀畫の邪魔をすることは相成りませんでした。
「なんちゅう美文やねん。読みにくいったら、ありゃしない」
俺は苦笑した。
書き方が古臭いと指摘されたのだと、しょげていた朱鷺子さんを思い出した。
本人は大まじめで大変そうだが。そんな朱鷺子さんもかわいい。
俺は蚊帳の中に、オイルランプを持ち込んで新聞を読んでいた。
明治の頃の古く茶色くなった新聞は、軽い手触りと朽葉のように、かさかさと音がする。
短めの黒髪を手でかきあげて、ひたいを出す。口には火をつけていない煙草をくわえて。銘柄は『ナイル』。お気に入りの一品だ。
ここは朱鷺子さんの書斎であり、居室だ。
日に灼けた畳ではあるが。大正となった今でも藺草の匂いがする。色あせた柱や鴨居も、木の香りは残っている。それらに古新聞の匂いが重なった。
朱鷺子さんがお気に入りの小説が載っているといって、大量に保管していた新聞だ。
「せめて切り抜いて、整理をしたらどうなん?」と提案しても「でも挿絵もあるんですもの」となかなか首を縦に振らない。
だからこの和室は本だの新聞だの原稿用紙だの、紙でいっぱいだ。
「紙魚が出てきたらどないするんや」と脅したら。朱鷺子さんは「虫干ししますから」と、大量の紙を守ろうとした。
「『魔風戀風』か。珍妙な題やな」
自転車で疾走する袴姿の女学生の挿画のなにがええんやら。朱鷺子さんの趣味は、俺にはさっぱり分からへん。
けどこの古い小説は、当時の女学生に大人気やったという。
新聞の記事を眺めていると、懐かしい時代が甦ってくる。この家が今よりも幾分新しく、にぎわっていた頃。
懐古趣味だと分かってはいるが。夜ごと古新聞に目を通すのが、俺の日課だ。
満月が中空に上ったようで、前栽の木々は冴えた光に照らされている。
緑濃い葉は、月光にてらてらと光り、遊びに来ている野良猫がにゃあと鳴いた。
夏も近いので、縁側に面した夏障子は開け放っている。
にゃああ、にゃああと今夜に限ってやたらと猫がうるさい。しかも先刻と声の調子が変わって硬い。
モグラでも土から出てきたんか? それともヤモリでも追いかけてんのか?
ぬらりと鱗を光らせた蛇が草の陰にでも潜んでいたら、たまったもんやない。
やれやれ、と上体を起こした俺は目を見開いた。
草がぼうぼうに伸びた庭に、女学生が立っていた。
闇に咲く梔子か、あるいは月下美人のように、白くぼんやりと。優しい月光に寄り添われている。
俺は数回瞬きを繰り返し、だが、闖入者が消えないことを確認する。
「ここに来てどうするつもりやねん」
俺は思わず呟いていた。
その娘は、古い蔵を背にしている。
長い黒髪をおろし、後頭部に大きなリボンをつけている。黒曜石のような瞳はくりっとして、銘仙と袴の絵に描いたような女学生そのものだ。
「ここはどこですか?」と、女学生が草をかき分けながら進んでくる。眠りを邪魔されたバッタが、草の葉から何匹か跳びはねた。
厄介な奴が現れた。俺は警戒して眉をひそめた。
「今は俺が住んどう。だから俺の家や」
「でも、先生が住んでらっしゃるわ。朱鷺子先生よ。わたし、先生と一緒だったもの。ねぇ、先生はどちらにいらっしゃるの? 呼んでくださらない? 村雨深雪が来たって言ってくだされば、通じるわ」
「朱鷺子さんは、おらへん」
「じゃあ、いつ戻ってらっしゃるの?」
質問の多い奴や。
村雨深雪は、とうとう縁側にまでやって来た。
おいおい、こんな不審者を家に上げるわけにはいかへんで。俺は朱鷺子さんの留守を守っとんやからな。
「そもそもあんた、生きてへんやろ」
「え?」
深雪はぽかんとした表情を浮かべた。
「おるんや。あんたみたいに、自分が生きていると勘違いする奴が。俺は、そうしたうぬぼれた奴が嫌いなんや」
俺はナイルの箱を手にとった。砂漠と金字塔、そして椰子の描かれた箱には、煙草が数本残っている。
部屋の中央に吊るした蚊帳を手でよけながら、書棚へ向かう。
「うーん。どの本や?」
深い緑の表紙に金の箔が押された単行本をめくる。どうやら違う。それとも雑誌の方か?
「朱鷺子さんの連載は『少女の友』やったか、いや『少女画報』か」
どれも似たような、なよっとしてきらきらとした大きな目の女性の絵が表紙だ。
ぱらぱらと古い雑誌をめくる。
違う、これやない。次の雑誌は? 女学生の名前を確認していった。
オイルランプの明かりで、文字を追う。
「ああ、あった」
俺はほっとして、朱鷺子さんが連載していた少女小説に目を通す。
――姓を村雨、名を深雪。その人は讀畫に没頭し、圖畫室の仄暗い机に向かつてをりました。
白磁のやうな蒼白く澄んだその頬、文字を追う涼やかな瞳。
その瞳の澄んだことよ。學友も先輩ですらも、彼女の讀畫の邪魔をすることは相成りませんでした。
「なんちゅう美文やねん。読みにくいったら、ありゃしない」
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