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翌朝。女學校へ向かういつもの坂道。急な上り坂なんて、慣れているはずなのに、わたくしは次々とおなじ女學校の生徒に抜かされてゆきます。
軽やかに鳴る革靴の音、あるいは草履の音。ほわほわと波間を漂うような話し声。
道のわきにはえているたんぽぽの綿毛が、風に吹かれていっせいに舞いあがりました。悲しいほどの青空に、はかない種が旅立ちます。
突然の風に、わたくしの持っていたシベリアヒナゲシの花が地面に落ちました。
お教室に飾るようにと、お母さまが持たせてくれた花束。
新聞紙にくるんだ橙色のヒナゲシは、かろやかに坂をころがります。
「待って。花が傷んでしまうわ」
どうなさったのかしら? と銘仙のたもとを風にゆらしながら、女學生たちがふり返ります。
居残りでは皆の注目を浴び、登校時には花を追いかけてこれまた注目。昨日からこんなのばかり。
でも、それよりもつらいのは、武史さんに避けられてしまったこと。
ああ、なにもかもがうまくいかない。
もし武史さんにお会いできれば、謝ることもできるのに。きっと素直になれるのに。
「あっ」
坂の途中で、シベリアヒナゲシが止まりました。巻いていた新聞紙は、なかば剥がれてしまっています。
「花は大丈夫そうやで」
革靴にあたって止まったお花。おおきな手が、花束を拾いあげます。
この声、もしかして。
「おはよう。美都子さん」
坂の下の海は蒼玉をとかしこんだ、澄んだ色。空と海を背景に、武史さんがほほ笑んでおりました。あざやかな青のなかで。
「どうしてここにいらっしゃるの? お仕事は?」
「今日は休みやからね」
「でも昨日はそんなことおっしゃっていなかったわ。それにすぐにお帰りになってしまって」
「あー」
武史さんが、指先でご自分のほおを掻きました。
常はぽんぽんと言葉を返してくる武史さんなのに。今は唇を開こうとしては、また閉じて。視線だって泳いでいます。
「その、君に避けられたと思った……から」
花びらが落ちてしまいそうなシベリアヒナゲシを、武史さんはてのひらでささえています。
「反省したよ。お嬢さまを茶化すやなんて、失礼なことをしてしもた。すまなかった」
「茶化すって……」
「美都子さんとの距離が近うて、甘えてしもたんやな。どうにもぼくは女性と接するのが上手ないようやな。會社の事務員相手やったら、感情を込めることも茶化すこともないんやけど」
それは、わたくしは特別ということですか? そう思いあがってもよろしいの?
問いかけるには、あまりにもまっすぐすぎる言葉で。
けっきょく、わたくしは尋ねることはできなかったのです。
「これを拾てん。美都子さんのものやろ」
武史さんは、シャツのポケットからちいさな紙切れを取りだしました。
──オ好キナモノ 出汁卷キタマゴ 柴漬ケ、但シ茄子ト赤紫蘇ノミデ漬ケタモノ
動物ハ猫、黑猫ハ特ニ聰明トイフコト
苦手ナモノ 餡パンノ上ノ芥子ノ実
機關車ノ黑イ煙
ひらりと見せられた紙にしたためられた文字のつらなりを見て、わたくしは「あぁぁぁっ」とはしたなくも、大きな声をあげてしまいました。
學校へ向かう生徒たちが、なにごとかとふり返ります。
「だめです、返して」
「もちろん返すで。あまりにもびっくりして、持ち帰ってしもてん。一刻もはやく美都子さんに渡しとうて。こうして朝早うから待っとったんや。ほら、なにしろ君が何時に登校するのかよう知らんから」
「早く、早くお返しになって。ご覧になったことのすべてを、いますぐにお忘れになって」
「え? それは難しいなぁ。ぼくもそこまで記憶力が悪いわけやないから」
「でしたら茗荷を召しあがれば、よろしいわ。物忘れするそうですから」
ああ、でも今はまだ晩春。茗荷の出まわる夏には遠いわ。
「わざわざ物忘れするもんを、食べんでもええやろ」
「おすすめですっ」
紙切れを返してもらった時。わたくしの指が、武史さんの手に触れたのです。
指先が熱くなります。
爪の近くから、つぎは指に手に、腕に、そして首をつたって、わたくしの顔はかあぁっと熱を帯びたのです。
「おお、真っ赤や」
「見ないでください」
紙切れを懐にしまうのも一苦労。
ああ、きっとまたからかわれるわ。茶化されるわ。
「意外やったな。美都子さんがそんなにも」
次の言葉を聞くのがこわくて。両手で耳をふさぎたいのに。右手には風呂敷包み、左手にはシベリアヒナゲシ。どうすることもできません。
わたくしは武史さんのことを知りたくて、覚えていたくて。
つい、尖った態度をとってしまうけれど、素直になれないけれど。ほんとうはあなたのことが……。
そうよ。わたくしは武史さんのことが好きなんだわ。
それは、まさに閃きでした、発見でした。
だけど正直に口にする勇気は持ちあわせておりません。
どうしましょう、この気持ちなんて武史さんにはお見通しですよね。大人でいらっしゃるんですもの。
「そんなにも、ぼくと好き嫌いが同じやとは思わんかったわ」
「はい?」
たんぽぽの綿毛が、のんきそうにふわふわと辺りを漂っています。
ふいにおおきな手が、わたくしの頭にのばされました。
「髪にたんぽぽを飾るんもかわいいけど、種からやったら、咲くまでに一年は待たなあかんかなぁ」
彼の長い指が、ちいさな綿毛をつかんでいます。
さんざめくような女學生たちの声がしているはずなのに、聞こえません。坂の下を汽車が通っているのに、音がとどきません。
ねぇ、武史さん。さきほどの「ぼくと好き嫌いがおなじ」というのは、本心からそう信じていらっしゃるの?
それとも、わたくしの羞恥に気づかぬふりをしてくださっているの?
きっとそうね。
だって、自分のことに『オ好キナモノ』なんて、丁寧語をつかうはずがないことを気づいてらっしゃるわよね。
「せや。放課後に待ち合わせをして、出かけよか。どっかでお茶しよ。浜のオリエンタルと山のトア、どっちの喫茶室がええ?」
武史さんが提案なさったのは、海岸通りにあるオリエンタルホテルと、山手にあるトアホテル。
オリエンタルホテルはアメリカ風で壮麗で豪奢。トアホテルはドイツ系なのでヨーロッパ風に赤いとんがり屋根の塔があるのです。
ふと頭に浮かんだのは、山の深い緑に寄りそって建つおしゃれなホテルでした。
「では、トアホテルで。でもいいんですか? わたくしと一緒で」
「ん? なんで? ぼくは美都子さん以外に、一緒に出かけたい人はおらへんで」
いつもは飄々としている人なのに。水晶のかけらをきらきらとふりまいたような朝の光のなかで見るせいでしょうか。
今朝の武史さんに、わたくしの知らない彼の少年時代の姿が重なったのです。ふだんのようには子どもじみていない、健やかで清らかな少年でした。
「わ、わたくしは、その」
伝えなければ。いつものように不愛想ではなく、ちゃんと気持ちを届けなければ。
──がんばれ、がんばれ、美都子さん。
昨日の応援が、脳内でにぎやかに再生されます。まるで蓄音機で録った音声のように。
「わたくしも武史さん以外に、お出かけしたいと思う殿方はおりません」
言えた。言えました。
どれほど緊張していたのか、気づけば両のこぶしを握り締めておりました。
「ほんま? 光栄やなぁ」
「わたくしも光栄に存じます」
あまりにも恥ずかしくて、顔から湯気が出てしまいそう。
ちらっと見あげると、武史さんはとても嬉しそうに笑っていたのです。
軽やかに鳴る革靴の音、あるいは草履の音。ほわほわと波間を漂うような話し声。
道のわきにはえているたんぽぽの綿毛が、風に吹かれていっせいに舞いあがりました。悲しいほどの青空に、はかない種が旅立ちます。
突然の風に、わたくしの持っていたシベリアヒナゲシの花が地面に落ちました。
お教室に飾るようにと、お母さまが持たせてくれた花束。
新聞紙にくるんだ橙色のヒナゲシは、かろやかに坂をころがります。
「待って。花が傷んでしまうわ」
どうなさったのかしら? と銘仙のたもとを風にゆらしながら、女學生たちがふり返ります。
居残りでは皆の注目を浴び、登校時には花を追いかけてこれまた注目。昨日からこんなのばかり。
でも、それよりもつらいのは、武史さんに避けられてしまったこと。
ああ、なにもかもがうまくいかない。
もし武史さんにお会いできれば、謝ることもできるのに。きっと素直になれるのに。
「あっ」
坂の途中で、シベリアヒナゲシが止まりました。巻いていた新聞紙は、なかば剥がれてしまっています。
「花は大丈夫そうやで」
革靴にあたって止まったお花。おおきな手が、花束を拾いあげます。
この声、もしかして。
「おはよう。美都子さん」
坂の下の海は蒼玉をとかしこんだ、澄んだ色。空と海を背景に、武史さんがほほ笑んでおりました。あざやかな青のなかで。
「どうしてここにいらっしゃるの? お仕事は?」
「今日は休みやからね」
「でも昨日はそんなことおっしゃっていなかったわ。それにすぐにお帰りになってしまって」
「あー」
武史さんが、指先でご自分のほおを掻きました。
常はぽんぽんと言葉を返してくる武史さんなのに。今は唇を開こうとしては、また閉じて。視線だって泳いでいます。
「その、君に避けられたと思った……から」
花びらが落ちてしまいそうなシベリアヒナゲシを、武史さんはてのひらでささえています。
「反省したよ。お嬢さまを茶化すやなんて、失礼なことをしてしもた。すまなかった」
「茶化すって……」
「美都子さんとの距離が近うて、甘えてしもたんやな。どうにもぼくは女性と接するのが上手ないようやな。會社の事務員相手やったら、感情を込めることも茶化すこともないんやけど」
それは、わたくしは特別ということですか? そう思いあがってもよろしいの?
問いかけるには、あまりにもまっすぐすぎる言葉で。
けっきょく、わたくしは尋ねることはできなかったのです。
「これを拾てん。美都子さんのものやろ」
武史さんは、シャツのポケットからちいさな紙切れを取りだしました。
──オ好キナモノ 出汁卷キタマゴ 柴漬ケ、但シ茄子ト赤紫蘇ノミデ漬ケタモノ
動物ハ猫、黑猫ハ特ニ聰明トイフコト
苦手ナモノ 餡パンノ上ノ芥子ノ実
機關車ノ黑イ煙
ひらりと見せられた紙にしたためられた文字のつらなりを見て、わたくしは「あぁぁぁっ」とはしたなくも、大きな声をあげてしまいました。
學校へ向かう生徒たちが、なにごとかとふり返ります。
「だめです、返して」
「もちろん返すで。あまりにもびっくりして、持ち帰ってしもてん。一刻もはやく美都子さんに渡しとうて。こうして朝早うから待っとったんや。ほら、なにしろ君が何時に登校するのかよう知らんから」
「早く、早くお返しになって。ご覧になったことのすべてを、いますぐにお忘れになって」
「え? それは難しいなぁ。ぼくもそこまで記憶力が悪いわけやないから」
「でしたら茗荷を召しあがれば、よろしいわ。物忘れするそうですから」
ああ、でも今はまだ晩春。茗荷の出まわる夏には遠いわ。
「わざわざ物忘れするもんを、食べんでもええやろ」
「おすすめですっ」
紙切れを返してもらった時。わたくしの指が、武史さんの手に触れたのです。
指先が熱くなります。
爪の近くから、つぎは指に手に、腕に、そして首をつたって、わたくしの顔はかあぁっと熱を帯びたのです。
「おお、真っ赤や」
「見ないでください」
紙切れを懐にしまうのも一苦労。
ああ、きっとまたからかわれるわ。茶化されるわ。
「意外やったな。美都子さんがそんなにも」
次の言葉を聞くのがこわくて。両手で耳をふさぎたいのに。右手には風呂敷包み、左手にはシベリアヒナゲシ。どうすることもできません。
わたくしは武史さんのことを知りたくて、覚えていたくて。
つい、尖った態度をとってしまうけれど、素直になれないけれど。ほんとうはあなたのことが……。
そうよ。わたくしは武史さんのことが好きなんだわ。
それは、まさに閃きでした、発見でした。
だけど正直に口にする勇気は持ちあわせておりません。
どうしましょう、この気持ちなんて武史さんにはお見通しですよね。大人でいらっしゃるんですもの。
「そんなにも、ぼくと好き嫌いが同じやとは思わんかったわ」
「はい?」
たんぽぽの綿毛が、のんきそうにふわふわと辺りを漂っています。
ふいにおおきな手が、わたくしの頭にのばされました。
「髪にたんぽぽを飾るんもかわいいけど、種からやったら、咲くまでに一年は待たなあかんかなぁ」
彼の長い指が、ちいさな綿毛をつかんでいます。
さんざめくような女學生たちの声がしているはずなのに、聞こえません。坂の下を汽車が通っているのに、音がとどきません。
ねぇ、武史さん。さきほどの「ぼくと好き嫌いがおなじ」というのは、本心からそう信じていらっしゃるの?
それとも、わたくしの羞恥に気づかぬふりをしてくださっているの?
きっとそうね。
だって、自分のことに『オ好キナモノ』なんて、丁寧語をつかうはずがないことを気づいてらっしゃるわよね。
「せや。放課後に待ち合わせをして、出かけよか。どっかでお茶しよ。浜のオリエンタルと山のトア、どっちの喫茶室がええ?」
武史さんが提案なさったのは、海岸通りにあるオリエンタルホテルと、山手にあるトアホテル。
オリエンタルホテルはアメリカ風で壮麗で豪奢。トアホテルはドイツ系なのでヨーロッパ風に赤いとんがり屋根の塔があるのです。
ふと頭に浮かんだのは、山の深い緑に寄りそって建つおしゃれなホテルでした。
「では、トアホテルで。でもいいんですか? わたくしと一緒で」
「ん? なんで? ぼくは美都子さん以外に、一緒に出かけたい人はおらへんで」
いつもは飄々としている人なのに。水晶のかけらをきらきらとふりまいたような朝の光のなかで見るせいでしょうか。
今朝の武史さんに、わたくしの知らない彼の少年時代の姿が重なったのです。ふだんのようには子どもじみていない、健やかで清らかな少年でした。
「わ、わたくしは、その」
伝えなければ。いつものように不愛想ではなく、ちゃんと気持ちを届けなければ。
──がんばれ、がんばれ、美都子さん。
昨日の応援が、脳内でにぎやかに再生されます。まるで蓄音機で録った音声のように。
「わたくしも武史さん以外に、お出かけしたいと思う殿方はおりません」
言えた。言えました。
どれほど緊張していたのか、気づけば両のこぶしを握り締めておりました。
「ほんま? 光栄やなぁ」
「わたくしも光栄に存じます」
あまりにも恥ずかしくて、顔から湯気が出てしまいそう。
ちらっと見あげると、武史さんはとても嬉しそうに笑っていたのです。
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