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3、愛人イネス

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 フロレンシアは街に買い物に出かけた。
 刺繍の糸を買うためだ。
 バレロ家から街までは距離があるので、馬車は出してもらえた。それでも充分なほどだ。

「なんで私が、奥さまのお供をしないといけないんですかね。忙しいんですけどね」

 馬車に同席した侍女は、あからさまに嫌味を言った。
 髪を結うのも、服を選ぶのも着替えも、フロレンシアは自分でしている。他の屋敷の侍女に比べれば、格段に暇なはずなのに。

「そうね。伯爵夫人がひとりで街に出たなんて、外聞が悪いですものね。でも街に出るついでに、メイド長やメイドから買い物を頼まれているのでしょう? ああ、ごめんなさい。わたしの付き添いが、買い物のついでですわね」

 図星だったのだろう。
 フロレンシアに指摘されて、侍女の顔がかっと赤くなった。
 屋敷の中には敵しかいない。とはいえ、屋敷の外も味方がいるわけでもない。

 丘の道を抜け、馬車が街に着いたとき。
 石畳の道に立ち、こちらに手をふる女性の姿が見えた。

(イネスさんだわ)

 窓から外を見たフロレンシアは、息を呑んだ。

 イネスは豊満な体つきをしている。赤い髪に緑の目。派手で華やかな印象だ。
 歩いてる男性が、通り過ぎざまにイネスをじっと見つめたり、手を振ったりしている。

(地味で。社交的でもないわたしとは、大違いだわ)

 こんな時、思い知らされる。
 自分に女性としての魅力がないことを。

 フロレンシアは、膝のうえに置いたこぶしをぎゅっと握りしめた。
 侍女はすぐにワゴンの外に出た。にこやかにイネスに挨拶をしているのは、主であるディマスが大事にしている女性だからだろう。

 形だけの妻よりも、恋人に愛想よくした方が、ディマスが喜ぶからだ。

「あら。バレロ家の紋章がついていたから、ディマスさまが乗っていらっしゃるかと思ったのに。ざーんねん」
「申し訳ないです。伯爵ではなくて。奥さまの我儘で、今日は買い物なんですよ」
「あらー、優雅ねぇ」
「ですよね。付き合わされるこちらの身にもなってほしいです」

 優雅なわけではない。
 ディマスはフロレンシアには、お金を使わない。ドレスは結婚の時に持参したものを繕いながら着ていた。けれど、夫はそれを「みっともない。伯爵夫人らしくしろ」と怒り出す。
 仕方なく、フロレンシアは刺繍で得たお金を服にあてた。

 今、馬車の外にいるイネスは赤い宝石のついた首飾りをつけている。
 きっと夫がプレゼントしたものだろう。
 フロレンシアは、一度だってディマスから贈り物をもらったことがない。
 
「少し具合が悪くて。家まで送ってもらおうかと思ったんだけど。さすがに無理かしら」

 開いたドアの外から、イネスがちらっとフロレンシアを見やる。

「奥さまが乗っていらっしゃるなら、あたしなんて辞退した方がいいわよね」
「あら。大丈夫ですよ。三人なら座れますから」

 あろうことか侍女がイネスを招き入れた。

 無理だ。フロレンシアは眩暈がした。
 夫にいかに愛されているかを自慢するであろうイネスと、夫の愛人を持ちあげる侍女。そんなふたりに囲まれて、平気でいられるはずがない。
 フロレンシアは席から腰を上げた。
 
「どうぞイネスさんを送ってさしあげて。わたしは一人で買い物をしています」
「でも、それじゃあ。私は……」

 侍女がフロレンシアとイネスを見比べる。

(表面上は、迷う風を装うのよね)

 それが真正面からケンカを売ってくるメイド長との違いかもしれない。

「平気よ。わたしの供よりも、具合の悪いイネスさんに付き添ってあげた方が、旦那さまも喜びます」

 フロレンシアはワゴンから降りると、御者に後で迎えに来るように店の名前を告げた。

「申し訳ないわぁ。でも、よかったわ。最近、吐き気がすることが多くて」

 さっきまでフロレンシアが座っていた席に、イネスが腰を下ろす。
 まるで妻の座を奪ったかのように、彼女は満足そうな笑みを浮かべた。

 石畳の道は歩きにくい。
 たったひとりで街を歩くなど、他の貴族の婦人なら考えられないことだろう。。

 さっきまで乗っていた馬車が、遠ざかっていく。ワゴンの後部の窓から、談笑するイネスと侍女の姿が見えた。
 まるで本当の女主人と侍女のように。

 冷たい風が吹き抜けて、フロレンシアは身震いした。外套を馬車に置いてきてしまったことを、今になって気づいた。
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