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1、名ばかりの伯爵夫人

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 フロレンシア・バレロは結婚してから、一度も夫に優しくされたことがない。
 夫のディマスは三十歳。フロレンシアよりも四歳上だ。

 茶色い髪と琥珀色の瞳のフロレンシアは、夫にはとても地味に見えるらしい。
 夫婦の会話もろくになく、少しでもディマスの気に入らないことを言えば、激怒する。

「わたしのことがお嫌いなら、離縁してください」
「は? 伯爵であるぼくが離婚などしたら、醜聞になるだろう。お前はだまって家事をしていればいいんだ。ほら、ぼくのシャツの洗濯が溜まっているだろう? 終われば炭を熾してアイロンもかけておくんだ」
「それはメイドの仕事です」

 フロレンシアは勇気を出して、訴えた。
 ディマスの妻になってから五年。夫がフロレンシアを下働きのように扱うものだから。メイドはこぞって彼女をバカにした。

 伯爵夫人とは名ばかりで。ディマスは結婚前からの愛人とまだ関係が続いている。愛人に操を立てるという(訳の分からない)名目で、フロレンシアとは寝室も別だ。

「ぼくがお前に洗濯をしろと命じているんだ。夫の言うことを妻は聞くのが当たり前だっ」

 大声で怒鳴られて、フロレンシアの耳がつんと痛む。
 怖い。
 がんばって言い返してみても、話を聞いてももらえない。

「ぼくが結婚してやったから、お前は行き遅れずにならずに済んだんだ。お前みたいな地味でできそこないの女は、実家でも居場所がなく惨めにこそこそと生きていくしかなかったんだ。ぼくに感謝しているのなら、態度で示せ」

 ディマスの話は終わらない。

 結局、フロレンシアは庭の端にある、井戸の側で洗濯をした。
 冬の初めで、水はひときわ冷たい。洗い桶のなかで服を洗っていると、指先がじんじんとしびれてきた。

「奥さま。こちらもお願いしますわ」

 二人のラインドリーメイドが、服をどさりと置いた。しゃがんでフロレンシアは驚いて、若いランドリーメイド達を見あげる。
 蔑んだ冷たい瞳だ。

「わたしがすることではありません」

「五枚も、十五枚も大差ありませんよ。貧しい下級貴族の娘なのですから、メイドなど雇えなかったんじゃないですか? 慣れているでしょう? これくらい」

 フロレンシアは唇を噛みしめた。
 伯爵に仕えているからといって、メイドたちはまるで自分たちの身分が高いかのようにふるまっている。
 そんなことはないのに。

 ふん、と鼻を鳴らしながら去っていくメイドの姿を、フロレンシアは見送った。
 水を使っているフロレンシアの指は赤く染まっていた。北風が吹くたびに、手が鈍く痛む。

「籠の鳥というには愛されもれず。せめて使用人ならばお給金はもらえるのに」

 山のように積んである汚れた衣服から、よどんだ臭いが漂ってくる。
 ため息をつきながら、フロレンシアは石鹸を手にした。

 その時。足音が聞こえた。
 ランドリーメイドが、洗濯物の追加に戻ってきたのだろう。
 立ちあがったフロレンシアは、目に映った人を見て呆然とした。

「おはようございます。フロレンシアさま」

 やってきたのは、夫の護衛を務めることの多い騎士だった。
 黒髪によく日に灼けた肌。背は高く、がっしりとした体格のエミリオ・トルレスは騎士団の副団長だ。夫のディマスと同じ三十歳。

 むろん専属の護衛であるはずがない。副団長ならば箔が付くという理由で、ディマスが要望を出しただけで。エミリオは断ってもよかったのだ。

 エミリオは、先代のバレロ伯爵に世話になったことがある。その恩義を感じているだけだ。
 騎士団長に融通してもらい、時折だが伯爵の護衛をするためにこの屋敷を訪れる。。

「今日と明日は、夫は領地の視察ですね。よろしくお願いします」

 フロレンシアが微笑むと、エミリオは難しい表情を浮かべた。騎士服を着ているので強面にすら見える。

「……護衛を引き受けるのではありませんでした」
「夫に嫌がらせでもされているのですか?」
「いえ。ディマスさまは私が副団長なので、丁寧に接しますよ。まぁ、私に肩書がなければこき使い、罵詈雑言を浴びせるでしょうね。彼は人によって態度をあからさまに変えますから」

 エミリオは肩をすくめて、洗い桶にたまった洗濯物に視線を落とした。

「フロレンシアさまに地位や肩書があれば、機嫌を取ると思います。あの男は」

 フロレンシアの隣にしゃがんだエミリオは、洗濯物を鷲掴みにすると勢いよく洗い桶につっこんだ。

「エミリオさまが洗濯をなさることはありません」
「それはあなたもでしょう」

 ぶくぶくと石鹸の泡が立つ。シャボン玉が風に流される中で、エミリオは眉根を寄せていた。

「やらなければ、いじめられるというのなら。適当に済ませておいた方がいい。使用人は自分の仕事を放棄しているのだから。叱られる理由がない」

 ほんの一回、服をこすっただけでエミリオは絞り始めた。すすぎなどもしない。泡がついたままだ。

「洗えていないと文句があるのなら、このエミリオ・トルレスに言えと家令に伝えておきます。メイドたちに注意したところで『そんなつもりはなかった』『奥さまが洗いたいと言うから』と否定するでしょうからね」

 立ちあがったエミリオは濡れた両手を払った。
 指先から散った雫が、朝陽に照らされて煌めいている。
 フロレンシアはエプロンのポケットから慌ててハンカチを取り出した。

「これをお使いください。その、質素で恥ずかしいんですが」
「上質なリネンですね」

 エミリオは礼を告げて、フロレンシアが独身の頃から使っているハンカチで手を拭いた。

「やはり洗濯を止めておいてよかった。このハンカチはご自分で洗い、アイロンをかけておられるのでしょう? 伯爵やメイド達の服をこんなに丁寧に洗えば、一日が終わってしまいます」
「は、はい」

 自分のことに親身になってくれる人は、これまでいなかった。
 フロレンシアは緊張して、棒立ちになってしまう。

「あなたの手も濡れていますよ」

 さっき渡したばかりのハンカチで、エミリオがフロレンシアの手を拭ってくれる。

「あの頃と比べて、痩せておしまいになりましたね」
「五年前のことですか? エミリオさまが副団長になられた当時のことですね」 
「私はこんな虚飾だらけで、うぬぼれた奴らしかいない屋敷から、あなたを救いたいのです」

 とても小さな声だった。北風が落ち葉と一緒に、エミリオの言葉をさらってしまう。
 ちゃんと聞き取れなくて。でもフロレンシアは聞き返すことができなかった。
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