上 下
6 / 7

6、フロレンシアとエミリオ【2】

しおりを挟む
 盛夏祭は、日が暮れてからも賑やかだった。

 王宮の近くの広場にはたくさんの屋台が出ていた。新鮮なプラムに飴をかけたもの、小麦粉の生地を薄く焼いて、たっぷりのバターと蜂蜜を巻いた菓子などが並んでいる。

 頭上にはランタンがずらりと灯されて、夕風に揺れていた。
 赤に青、オレンジに黄色。色とりどりのランタンが、ぼんやりと藍色に染まった宵闇を照らしている。
 
「きれいですね。こうして王宮の外に出るのもいいですね」
「私に声をかけてくだされば、いつでもお供しますよ」

 エミリオはジュースを買ってくれた。みずみずしいオレンジをぎゅっと絞ったジュースが、ガラスの器に入っている。
 爽やかな甘みが、フロレンシアの喉の渇きを癒す。

「これもどうぞ」

 エミリオに手渡されたのは、揚げ菓子だった。丸い揚げ菓子ふたつ、串に刺さっている。
 上には白い砂糖と、澄んだ淡いピンクのジャムがかかっていた。

「ありがとうございます。甘そうですね。でもいい香りです」

 ひとつ食べると、口の中に薔薇の香りが広がった。
 甘すぎて、オレンジジュースを酸っぱく感じるほどだ。

「フロレンシアさま。私もひとつもらってもいいですか?」
「はい、どうぞ」

 フロレンシアはエミリオに揚げ菓子を差しだした。けれどエミリオは串を手にしない。

(これは、もしかして)

 ちらっと向かいに立つエミリオを見あげると。いたずらを企む少年のような表情をしている。

「あの、人目がありますよ。副団長」
「これだけ人が多いと、だーれも他人のことなんて気にしませんよ」

(本当かしら)

 訝しみながらも、フロレンシアは揚げ菓子をエミリオの口元へ運んだ。

「あっま。想像以上ですね」

 甘い菓子を食べたのに。まるで辛いものを食べたかのように、エミリオが眉をしかめる。
 その様子がおかしくて。フロレンシアは笑った。

「楽しいですか?」
「ええ、とっても」
「それはよかった」

 エミリオは微笑んだ。

(もしかして、わたしが仕事に熱中しすぎるから。お祭りに連れ出してくださったのかしら)

 子どもの頃のように、無邪気に楽しめることが嬉しかった。

 遠くから、夏の女神を讃える聖歌が聞こえてくる。その歌声を聞こうと、広場の人たちが移動し始めた。

「きゃ……」

 フロレンシアは人の波に流されてしまった。持っているジュースをこぼさないようにするのが精いっぱいで、エミリオの元に戻ることもできない。

 どこからか「イネス……」と、力ない声が聞こえた。
 懐かしくもない、けれど聞き覚えのある声だ。
 かつて夫であったディマスの姿が、群衆の間に見えた。

 今は平民となったディマスは痩せていた。かつて、食事をちゃんととらせてもらえずに虐待されていたフロレンシアのように。
 髪はぼさぼさで、十歳ほども老けて見えた。

「イネス、待ってくれ。ようやく君を見つけたんだ」
「知らないわよ、うっとうしいわね。しつこいのよ」

「ダメだ、こんな人ごみを歩いては。それに赤ん坊はどうしたんだ? どうして会わせてくれないんだ」
「まだ小さいのよ」
「ぼくの子供だ。いつまで経っても名前も教えてくれないじゃないか。ぼくと一緒に住んでくれないじゃないか」

 腕にすがりつくディマスを、イネスはふり払った。

「残念だけど、落ちぶれたあんたに用はないわ。だからもう、あたしに付きまとわないで」

 群衆のざわめきをかき消すほどの大声だった。

「ぼくを騙したのか……一生ぼくを愛すると言ってくれたじゃないか。結局金なのか」
「うるさいわね。純愛ごっこなら一人でしてちょうだい」

 ぴしりと鞭で打ちつけるような厳しい口調だった。広場を歩く人たちが、立ちどまってイネスとディマスをじろじろと見ている。

 その時だった。ディマスがフロレンシアを見たのだ。
 フロレンシアの心臓が嫌な鼓動を打つ。冷や汗が首筋を伝った。

 風のせいで、饐えた臭いがフロレンシアの鼻をかすめた。使用人もいないディマスは、洗濯すらしないのだろう。

 確かに目は合った。
 なのにディマスはフロレンシアには気づかずに、視線を外した。

 今のフロレンシアが伯爵家にいた頃のように瘦せ細っておらず、健康的だから。あの時のように栄養が足りずに髪がぱさぱさではなく、艶があるから。
 フロレンシアが身に着けている服も、シンプルだけれど上質な布で作られているから。

 それでもかつての夫が、妻に気づかない。
 それほどにディマスはフロレンシアに興味がなかった。今も昔も。

「邪魔だ。立ちどまるんじゃないよ。このウスノロが」と、通行人がディマスにぶつかる。
 だれも彼が、伯爵であったことを知らない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫は魅了されてしまったようです

杉本凪咲
恋愛
パーティー会場で唐突に叫ばれた離婚宣言。 どうやら私の夫は、華やかな男爵令嬢に魅了されてしまったらしい。 散々私を侮辱する二人に返したのは、淡々とした言葉。 本当に離婚でよろしいのですね?

殿下が望まれた婚約破棄を受け入れたというのに、どうしてそのように驚かれるのですか?

Mayoi
恋愛
公爵令嬢フィオナは婚約者のダレイオス王子から手紙で呼び出された。 指定された場所で待っていたのは交友のあるノーマンだった。 どうして二人が同じタイミングで同じ場所に呼び出されたのか、すぐに明らかになった。 「こんなところで密会していたとはな!」 ダレイオス王子の登場により断罪が始まった。 しかし、穴だらけの追及はノーマンの反論を許し、逆に追い詰められたのはダレイオス王子のほうだった。

夫から国外追放を言い渡されました

杉本凪咲
恋愛
夫は冷淡に私を国外追放に処した。 どうやら、私が使用人をいじめたことが原因らしい。 抵抗虚しく兵士によって連れていかれてしまう私。 そんな私に、被害者である使用人は笑いかけていた……

離婚したらどうなるのか理解していない夫に、笑顔で離婚を告げました。

Mayoi
恋愛
実家の財政事情が悪化したことでマティルダは夫のクレイグに相談を持ち掛けた。 ところがクレイグは過剰に反応し、利用価値がなくなったからと離婚すると言い出した。 なぜ財政事情が悪化していたのか、マティルダの実家を失うことが何を意味するのか、クレイグは何も知らなかった。

別に構いませんよ、離縁するので。

杉本凪咲
恋愛
父親から告げられたのは「出ていけ」という冷たい言葉。 他の家族もそれに賛同しているようで、どうやら私は捨てられてしまうらしい。 まあいいですけどね。私はこっそりと笑顔を浮かべた。

夫は帰ってこないので、別の人を愛することにしました。

ララ
恋愛
帰らない夫、悲しむ娘。 私の思い描いた幸せはそこにはなかった。 だから私は……

結婚三年、私たちは既に離婚していますよ?

杉本凪咲
恋愛
離婚しろとパーティー会場で叫ぶ彼。 しかし私は、既に離婚をしていると言葉を返して……

婚約者様。現在社交界で広まっている噂について、大事なお話があります

柚木ゆず
恋愛
 婚約者様へ。  昨夜参加したリーベニア侯爵家主催の夜会で、私に関するとある噂が広まりつつあると知りました。  そちらについて、とても大事なお話がありますので――。これから伺いますね?

処理中です...