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6、フロレンシアとエミリオ【2】
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盛夏祭は、日が暮れてからも賑やかだった。
王宮の近くの広場にはたくさんの屋台が出ていた。新鮮なプラムに飴をかけたもの、小麦粉の生地を薄く焼いて、たっぷりのバターと蜂蜜を巻いた菓子などが並んでいる。
頭上にはランタンがずらりと灯されて、夕風に揺れていた。
赤に青、オレンジに黄色。色とりどりのランタンが、ぼんやりと藍色に染まった宵闇を照らしている。
「きれいですね。こうして王宮の外に出るのもいいですね」
「私に声をかけてくだされば、いつでもお供しますよ」
エミリオはジュースを買ってくれた。みずみずしいオレンジをぎゅっと絞ったジュースが、ガラスの器に入っている。
爽やかな甘みが、フロレンシアの喉の渇きを癒す。
「これもどうぞ」
エミリオに手渡されたのは、揚げ菓子だった。丸い揚げ菓子ふたつ、串に刺さっている。
上には白い砂糖と、澄んだ淡いピンクのジャムがかかっていた。
「ありがとうございます。甘そうですね。でもいい香りです」
ひとつ食べると、口の中に薔薇の香りが広がった。
甘すぎて、オレンジジュースを酸っぱく感じるほどだ。
「フロレンシアさま。私もひとつもらってもいいですか?」
「はい、どうぞ」
フロレンシアはエミリオに揚げ菓子を差しだした。けれどエミリオは串を手にしない。
(これは、もしかして)
ちらっと向かいに立つエミリオを見あげると。いたずらを企む少年のような表情をしている。
「あの、人目がありますよ。副団長」
「これだけ人が多いと、だーれも他人のことなんて気にしませんよ」
(本当かしら)
訝しみながらも、フロレンシアは揚げ菓子をエミリオの口元へ運んだ。
「あっま。想像以上ですね」
甘い菓子を食べたのに。まるで辛いものを食べたかのように、エミリオが眉をしかめる。
その様子がおかしくて。フロレンシアは笑った。
「楽しいですか?」
「ええ、とっても」
「それはよかった」
エミリオは微笑んだ。
(もしかして、わたしが仕事に熱中しすぎるから。お祭りに連れ出してくださったのかしら)
子どもの頃のように、無邪気に楽しめることが嬉しかった。
遠くから、夏の女神を讃える聖歌が聞こえてくる。その歌声を聞こうと、広場の人たちが移動し始めた。
「きゃ……」
フロレンシアは人の波に流されてしまった。持っているジュースをこぼさないようにするのが精いっぱいで、エミリオの元に戻ることもできない。
どこからか「イネス……」と、力ない声が聞こえた。
懐かしくもない、けれど聞き覚えのある声だ。
かつて夫であったディマスの姿が、群衆の間に見えた。
今は平民となったディマスは痩せていた。かつて、食事をちゃんととらせてもらえずに虐待されていたフロレンシアのように。
髪はぼさぼさで、十歳ほども老けて見えた。
「イネス、待ってくれ。ようやく君を見つけたんだ」
「知らないわよ、うっとうしいわね。しつこいのよ」
「ダメだ、こんな人ごみを歩いては。それに赤ん坊はどうしたんだ? どうして会わせてくれないんだ」
「まだ小さいのよ」
「ぼくの子供だ。いつまで経っても名前も教えてくれないじゃないか。ぼくと一緒に住んでくれないじゃないか」
腕にすがりつくディマスを、イネスはふり払った。
「残念だけど、落ちぶれたあんたに用はないわ。だからもう、あたしに付きまとわないで」
群衆のざわめきをかき消すほどの大声だった。
「ぼくを騙したのか……一生ぼくを愛すると言ってくれたじゃないか。結局金なのか」
「うるさいわね。純愛ごっこなら一人でしてちょうだい」
ぴしりと鞭で打ちつけるような厳しい口調だった。広場を歩く人たちが、立ちどまってイネスとディマスをじろじろと見ている。
その時だった。ディマスがフロレンシアを見たのだ。
フロレンシアの心臓が嫌な鼓動を打つ。冷や汗が首筋を伝った。
風のせいで、饐えた臭いがフロレンシアの鼻をかすめた。使用人もいないディマスは、洗濯すらしないのだろう。
確かに目は合った。
なのにディマスはフロレンシアには気づかずに、視線を外した。
今のフロレンシアが伯爵家にいた頃のように瘦せ細っておらず、健康的だから。あの時のように栄養が足りずに髪がぱさぱさではなく、艶があるから。
フロレンシアが身に着けている服も、シンプルだけれど上質な布で作られているから。
それでもかつての夫が、妻に気づかない。
それほどにディマスはフロレンシアに興味がなかった。今も昔も。
「邪魔だ。立ちどまるんじゃないよ。このウスノロが」と、通行人がディマスにぶつかる。
だれも彼が、伯爵であったことを知らない。
王宮の近くの広場にはたくさんの屋台が出ていた。新鮮なプラムに飴をかけたもの、小麦粉の生地を薄く焼いて、たっぷりのバターと蜂蜜を巻いた菓子などが並んでいる。
頭上にはランタンがずらりと灯されて、夕風に揺れていた。
赤に青、オレンジに黄色。色とりどりのランタンが、ぼんやりと藍色に染まった宵闇を照らしている。
「きれいですね。こうして王宮の外に出るのもいいですね」
「私に声をかけてくだされば、いつでもお供しますよ」
エミリオはジュースを買ってくれた。みずみずしいオレンジをぎゅっと絞ったジュースが、ガラスの器に入っている。
爽やかな甘みが、フロレンシアの喉の渇きを癒す。
「これもどうぞ」
エミリオに手渡されたのは、揚げ菓子だった。丸い揚げ菓子ふたつ、串に刺さっている。
上には白い砂糖と、澄んだ淡いピンクのジャムがかかっていた。
「ありがとうございます。甘そうですね。でもいい香りです」
ひとつ食べると、口の中に薔薇の香りが広がった。
甘すぎて、オレンジジュースを酸っぱく感じるほどだ。
「フロレンシアさま。私もひとつもらってもいいですか?」
「はい、どうぞ」
フロレンシアはエミリオに揚げ菓子を差しだした。けれどエミリオは串を手にしない。
(これは、もしかして)
ちらっと向かいに立つエミリオを見あげると。いたずらを企む少年のような表情をしている。
「あの、人目がありますよ。副団長」
「これだけ人が多いと、だーれも他人のことなんて気にしませんよ」
(本当かしら)
訝しみながらも、フロレンシアは揚げ菓子をエミリオの口元へ運んだ。
「あっま。想像以上ですね」
甘い菓子を食べたのに。まるで辛いものを食べたかのように、エミリオが眉をしかめる。
その様子がおかしくて。フロレンシアは笑った。
「楽しいですか?」
「ええ、とっても」
「それはよかった」
エミリオは微笑んだ。
(もしかして、わたしが仕事に熱中しすぎるから。お祭りに連れ出してくださったのかしら)
子どもの頃のように、無邪気に楽しめることが嬉しかった。
遠くから、夏の女神を讃える聖歌が聞こえてくる。その歌声を聞こうと、広場の人たちが移動し始めた。
「きゃ……」
フロレンシアは人の波に流されてしまった。持っているジュースをこぼさないようにするのが精いっぱいで、エミリオの元に戻ることもできない。
どこからか「イネス……」と、力ない声が聞こえた。
懐かしくもない、けれど聞き覚えのある声だ。
かつて夫であったディマスの姿が、群衆の間に見えた。
今は平民となったディマスは痩せていた。かつて、食事をちゃんととらせてもらえずに虐待されていたフロレンシアのように。
髪はぼさぼさで、十歳ほども老けて見えた。
「イネス、待ってくれ。ようやく君を見つけたんだ」
「知らないわよ、うっとうしいわね。しつこいのよ」
「ダメだ、こんな人ごみを歩いては。それに赤ん坊はどうしたんだ? どうして会わせてくれないんだ」
「まだ小さいのよ」
「ぼくの子供だ。いつまで経っても名前も教えてくれないじゃないか。ぼくと一緒に住んでくれないじゃないか」
腕にすがりつくディマスを、イネスはふり払った。
「残念だけど、落ちぶれたあんたに用はないわ。だからもう、あたしに付きまとわないで」
群衆のざわめきをかき消すほどの大声だった。
「ぼくを騙したのか……一生ぼくを愛すると言ってくれたじゃないか。結局金なのか」
「うるさいわね。純愛ごっこなら一人でしてちょうだい」
ぴしりと鞭で打ちつけるような厳しい口調だった。広場を歩く人たちが、立ちどまってイネスとディマスをじろじろと見ている。
その時だった。ディマスがフロレンシアを見たのだ。
フロレンシアの心臓が嫌な鼓動を打つ。冷や汗が首筋を伝った。
風のせいで、饐えた臭いがフロレンシアの鼻をかすめた。使用人もいないディマスは、洗濯すらしないのだろう。
確かに目は合った。
なのにディマスはフロレンシアには気づかずに、視線を外した。
今のフロレンシアが伯爵家にいた頃のように瘦せ細っておらず、健康的だから。あの時のように栄養が足りずに髪がぱさぱさではなく、艶があるから。
フロレンシアが身に着けている服も、シンプルだけれど上質な布で作られているから。
それでもかつての夫が、妻に気づかない。
それほどにディマスはフロレンシアに興味がなかった。今も昔も。
「邪魔だ。立ちどまるんじゃないよ。このウスノロが」と、通行人がディマスにぶつかる。
だれも彼が、伯爵であったことを知らない。
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