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十章 青い蓮
8、蓼藍
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「呂充儀さまの侍女頭は、晩溪さまっておっしゃるんだけど。どうやら頭を打ったらしいの」
「転んだんですか?」
翠鈴の問いかけに、南蕾は首を振った。
「教えてくださらなかったわ。私が文彗宮にいた頃は、怪我をするような人ではなかったのよ」
南蕾の手は、青く染まっていた。未央宮に異動する前のように。
梅蜜を飲み干した翠鈴は、ようやく立ちあがることができた。光柳たちの待つ部屋へと向かう。
光柳は未央宮に来ることが多い。気配を察した桃莉公主が、すでに応接の間に入っていた。
「タオリィ、なんでもしってるよ」
かつての桃莉公主は人見知りだったのに。光柳と話すときは、翠鈴の仕事の手が止まると分かっているからだろう。光柳と卓を挟んだ椅子に、桃莉はちょこんと座っている。
「あのね、たんぽぽのお茶があるの。びーって、土から根っこをひっこぬいたんだよ。びー、だよ」
「桃莉さまは勇ましいですね」
まさかたんぽぽの根っこのお茶が供されるのでは? とでも考えたのだろう。光柳が頬を引きつらせる。
翠鈴は南蕾の椅子も用意した。
桃莉は翠鈴の膝の上だ。せっかく桃莉の椅子も用意したのだが、そちらに移る気配はない。
「皇后陛下のご様子はどうだった?」
光柳はすぐに本題に入った。さっきまでおしゃべりをしていた桃莉は、邪魔にならぬように口をつぐんでいる。翠鈴のひざに乗ったままではあるが。
「安静になさっていれば、いずれは落ちつくであろうと産医のお診たてです。わたしも、蘭淑妃も同じ考えです。とくに淑妃さまは、ご自分の経験から判断なさったようです」
「なるほど。ひとまずは安心か」
南蕾が梅蜜を持ってきてくれた。翠鈴の分もある。疲れを取るために、二杯めを用意してくれたのだろう。
桃莉公主は床に足がつかないので。両足をぶらぶらさせながら、甘い梅蜜をうれしそうに飲んでいる。
「そういえば。呂充儀さまの侍女頭が、頭を打って怪我をしたそうです」
南蕾が部屋を出てから、翠鈴は話を切りだした。
「先ほどの南蕾さんが、文彗宮へ手伝いに行っていたんです。転ぶような迂闊な人ではないと聞きました」
「ああ、彼女は呂充儀に解雇されたのだったな」
ふと、光柳が自分の指を眺めた。なめらかな肌と、ささくれひとつない美しい指だ。
「南蕾という侍女は、どうしてあんなに指が青いんだ? 後宮では、杷京の織物業者から糸や布を購入している。専門の職人が染めた糸だ。女官や宮女ならばともかく、侍女が染め物などせぬだろうに」
「いえ。呂充儀さまは、染め物のために南蕾さんをお呼びになったんだと思います」
自分から捨てておいて。必要となれば、気軽に呼び戻す。
翠鈴は、どうしても呂充儀に好意を抱くことができない。
呂充儀にふりまわされた上に、奴隷の末裔という出自を告白する羽目になった雲嵐は、彼女の名を聞いて眉根を寄せた。
いったい何を染めさせたのか。
文彗宮の侍女たちは、手が汚れるからやりたがらない。そして、身分の低い宮女には任せられないものだ。
「染料は……露草の青は、染めても水で消えてしまいます。他にはクサギの濃い青の実もありますが。最も一般的なのは、蓼藍です」
蓼藍の乾燥葉と水に灰を入れた灰汁を使う藍染め。
翠鈴は、青蓮娘娘を祀る天堂教の巫女の行列を思い出した。巫女たちは、歩を進めるたびに青い蓮の花弁を撒いていた。
あの紙の花びらは、藍染めだ。
(藍は『神農本草経』にも載っている。藍の実は体内に入った毒を解するし、解熱作用もある。そして年をとっても白髪になることなく、身の動きが軽くなるとも)
つながった。
翠鈴は目をすがめた。
おそらくは青い蓮の花を、信者は天堂教に奉納するのだろう。手ずから紙を染めて花弁の形に切り抜くことで、祈りに通じる時間を過ごすのかもしれない。
だが、呂充儀はそんな面倒な作業をしない。指が青に染まっては、そもそも見た目が悪い。だから南蕾にすべて任せていた。
天堂教の女神は青蓮娘娘。青い蓮はこの世に存在しないというが、恒久の命の象徴でもある。
その永遠の命の元となるのが、薬草なのだろう。
呂充儀が丁子のお茶を「娘娘の清めのお茶」であると主張していたではないか。
娘娘の呼称は、皇后のほかには女神にも用いられる。
間違いなく青蓮娘娘のことだ。
「もしかすると。呂充儀さまから目を離さない方がいいかもしれません」
「充儀に何かあるのか?」
光柳に問われたが。理由を述べるほどの根拠は、今の翠鈴にはない。
ただ違和感があるだけだ。けれど、どんな些細な違和感も見逃してはならぬ。これは薬師として学んできたことだ。
「転んだんですか?」
翠鈴の問いかけに、南蕾は首を振った。
「教えてくださらなかったわ。私が文彗宮にいた頃は、怪我をするような人ではなかったのよ」
南蕾の手は、青く染まっていた。未央宮に異動する前のように。
梅蜜を飲み干した翠鈴は、ようやく立ちあがることができた。光柳たちの待つ部屋へと向かう。
光柳は未央宮に来ることが多い。気配を察した桃莉公主が、すでに応接の間に入っていた。
「タオリィ、なんでもしってるよ」
かつての桃莉公主は人見知りだったのに。光柳と話すときは、翠鈴の仕事の手が止まると分かっているからだろう。光柳と卓を挟んだ椅子に、桃莉はちょこんと座っている。
「あのね、たんぽぽのお茶があるの。びーって、土から根っこをひっこぬいたんだよ。びー、だよ」
「桃莉さまは勇ましいですね」
まさかたんぽぽの根っこのお茶が供されるのでは? とでも考えたのだろう。光柳が頬を引きつらせる。
翠鈴は南蕾の椅子も用意した。
桃莉は翠鈴の膝の上だ。せっかく桃莉の椅子も用意したのだが、そちらに移る気配はない。
「皇后陛下のご様子はどうだった?」
光柳はすぐに本題に入った。さっきまでおしゃべりをしていた桃莉は、邪魔にならぬように口をつぐんでいる。翠鈴のひざに乗ったままではあるが。
「安静になさっていれば、いずれは落ちつくであろうと産医のお診たてです。わたしも、蘭淑妃も同じ考えです。とくに淑妃さまは、ご自分の経験から判断なさったようです」
「なるほど。ひとまずは安心か」
南蕾が梅蜜を持ってきてくれた。翠鈴の分もある。疲れを取るために、二杯めを用意してくれたのだろう。
桃莉公主は床に足がつかないので。両足をぶらぶらさせながら、甘い梅蜜をうれしそうに飲んでいる。
「そういえば。呂充儀さまの侍女頭が、頭を打って怪我をしたそうです」
南蕾が部屋を出てから、翠鈴は話を切りだした。
「先ほどの南蕾さんが、文彗宮へ手伝いに行っていたんです。転ぶような迂闊な人ではないと聞きました」
「ああ、彼女は呂充儀に解雇されたのだったな」
ふと、光柳が自分の指を眺めた。なめらかな肌と、ささくれひとつない美しい指だ。
「南蕾という侍女は、どうしてあんなに指が青いんだ? 後宮では、杷京の織物業者から糸や布を購入している。専門の職人が染めた糸だ。女官や宮女ならばともかく、侍女が染め物などせぬだろうに」
「いえ。呂充儀さまは、染め物のために南蕾さんをお呼びになったんだと思います」
自分から捨てておいて。必要となれば、気軽に呼び戻す。
翠鈴は、どうしても呂充儀に好意を抱くことができない。
呂充儀にふりまわされた上に、奴隷の末裔という出自を告白する羽目になった雲嵐は、彼女の名を聞いて眉根を寄せた。
いったい何を染めさせたのか。
文彗宮の侍女たちは、手が汚れるからやりたがらない。そして、身分の低い宮女には任せられないものだ。
「染料は……露草の青は、染めても水で消えてしまいます。他にはクサギの濃い青の実もありますが。最も一般的なのは、蓼藍です」
蓼藍の乾燥葉と水に灰を入れた灰汁を使う藍染め。
翠鈴は、青蓮娘娘を祀る天堂教の巫女の行列を思い出した。巫女たちは、歩を進めるたびに青い蓮の花弁を撒いていた。
あの紙の花びらは、藍染めだ。
(藍は『神農本草経』にも載っている。藍の実は体内に入った毒を解するし、解熱作用もある。そして年をとっても白髪になることなく、身の動きが軽くなるとも)
つながった。
翠鈴は目をすがめた。
おそらくは青い蓮の花を、信者は天堂教に奉納するのだろう。手ずから紙を染めて花弁の形に切り抜くことで、祈りに通じる時間を過ごすのかもしれない。
だが、呂充儀はそんな面倒な作業をしない。指が青に染まっては、そもそも見た目が悪い。だから南蕾にすべて任せていた。
天堂教の女神は青蓮娘娘。青い蓮はこの世に存在しないというが、恒久の命の象徴でもある。
その永遠の命の元となるのが、薬草なのだろう。
呂充儀が丁子のお茶を「娘娘の清めのお茶」であると主張していたではないか。
娘娘の呼称は、皇后のほかには女神にも用いられる。
間違いなく青蓮娘娘のことだ。
「もしかすると。呂充儀さまから目を離さない方がいいかもしれません」
「充儀に何かあるのか?」
光柳に問われたが。理由を述べるほどの根拠は、今の翠鈴にはない。
ただ違和感があるだけだ。けれど、どんな些細な違和感も見逃してはならぬ。これは薬師として学んできたことだ。
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